4−4: 構造主義
私は、まだウィンドウのフォーカスを切り替え、それぞれの内容を眺めていた。
今、考えたように、これらは対話と呼べるのだろうか。あるいは言語ゲームと呼べるのだろうか。そう呼ぶには、一面において、あまりに曖昧さに欠けているようにも思えた。では、m人n語ゲームにおいては、充分な曖昧さが存在するのだろうか。そこにおいても、やはり充分な曖昧さは存在しないように思えた。正しい――もちろん、この言いかたは正しくない――言語ゲームにおいては、曖昧さは排除されるのだろうか。そうではないだろう。それを扱かうのに、 “m” と “n” が小さい言語ゲームはモデルとして適していないにすぎないのだろう。 “m” と “n” が大きくなる過程のどこかにおいて、意味や意義にある種の混乱が生じる可能性が現われるのだろうか。あるいは、言語ゲームにおける語が命題であるなら、述語となった時点において曖昧さが現われるのだろうか。あるものは机になるかもしれず、椅子にもなるかもしれない。それは内包の問題であるかもしれない。机に座ることを禁じる物理法則など存在しないのだから。
あるものは机になるかもしれず、椅子にもなるかもしれないというできごとは、コマンドとそのオプションにおける組合わせの関係に類比できるだろうか。
一つのコマンドを形成する入力が――“rsync -rltpogv --progress --delete . /run/media/user1/live_backup_rsync/” のような――、一つの文に類比できるのだとしたら、一つのコマンドそのものは――“rsync” のような――、動詞に類比できるのだろうか。類比できるのだとすれば、コマンドの入力がこのようになっているのは、命令だからだろうか、あるいは語りかけられる対象が自明であるからあろうか。語りかけられる対象が自明でない場合、目の前の、あるいは論理的に接続されている計算機が仲介者となり、語りかけられる対象に語りかけられる内容が伝えられる。いずれであれ、目の前の、あるいは論理的に接続されている計算機が、まず語りかけられる対象であり、それゆえの形式であるとも言える。
では、コマンドが動詞であるなら、ヴォイス、テンス、アスペクト、ムード――あるいはモード――に相当するものは存在するのだろうか。ヴォイスは、計算機にとっては一定であるかもしれず、あるいは仲介者となる場合にはその例から外れるのかもしれない。テンスは、単独のコマンドとしては存在しないのかもしれず、あるいは実行したという記録によって過去を示すのかもしれない。アスペクトについてなら、 “rsync” やほかのコマンドにおける再帰的な処理を示すための “-r” オプションは、一部としても相当するかもしれない。ならばムードはどうか。コマンドという形式によって、それは部分的に示されるのかもしれず、あるいは、コマンドの入力という語りかけそのものが、結果を期待しているとも言えるのかもしれない。不充分であるとはしても、動詞である条件の一部は備えているように思える。
コマンドによって人間と計算機との言語ゲームは成立すると言えるのだろうか。充分ではないとしても――それが曖昧さの問題だとしても――、m人n語ゲームよりは豊かな内容を持っているように思える。
音声による命令を受理する機器や人工知能は、一般に広まりつつある。広まりつつある現状に至るまで、様々な試みがなされてきた。それらの試みにおける問題は意味や意義の問題であったし、参照というより簡単に思える問題でもあった。それらは、まだしばらくは人間同士による言語ゲームほどの豊かさに――あるいは曖昧さに――至ることはないだろう。その豊かさが――あるいは曖昧さが――、人間にとってであれ計算機にとってであれ必要なものなのかはわからない。人間が主体である限り、その主体が望むように変化していくことは想像できる。だが、その豊かさが――あるいは曖昧さが――、言語ゲームにおいて必須なものであるかどうかは疑問もあるように思えた。あらゆる発言と振舞いに、あらゆるアノテートを付して伝えることができるなら、その曖昧さは――あるいは豊かさは――解消されるのではないか。その豊かさは――あるいは曖昧さは――、人間の能力制限から来ているようにも思えた。