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クワス (Quus)  作者: 宮沢弘
第三章: 対話: 計算機と計算機
15/25

3−5: ヘテロ現象学

 ポケットから情報カードのホルダ、ボールペン、そして例外的に入れていたマスキング・テープを取り出した。

 今の一連の考えを思い返してみた。

 「私は、単独の計算機の内部における通信が、言語ゲームの理解に役立つという信念を持っている」

 私は情報カードにそう書き、それを眺めた。

 この情報カードにおいて、私は私ではない。私は、「私」に「×」を重ね、「その人」と書き加えた。

「信念」と、私は呟いた。それは適切な言葉ではあるが、ここで使うのには適していないようにも思えた。信念であるなら、「意味」や「意義」――それらの使い方に若干の混乱があるとしても――に相当するものはなんなのか。もちろん、すくなくとも書いたとおりの意味であるし、その意義は…… 単独の計算機の内部においても言語ゲームに比喩できる通信が行なわれているとなるだろう。それは誤りではない。しかし、「信念」という言葉は、なにか重いように思えた。

 私は「という信念を持っている」に「×」を重ね、「と信じている」と書き加えた。

 「その人は、単独の計算機の内部における通信が、言語ゲームの理解に役立つと信じている」

 まだ重いかもしれない。あの男性にこのカードを見せたとしたら、どういう反応が返ってくるだろう。一つは、計算機と人間を一緒にするなという応えかもしれない。もう一つは、「信じている」を信仰のように思われるかもしれない。そして、今想定している言語ゲームの相手は、あるいは言語ゲームを行なう人は、そのような人であるのかもしれない。

 私にとっては、「その人は、単独の計算機の内部における通信が、言語ゲームの理解に役立つという信念を持っている」という命題は明確であるとしても、そのような思考に慣れていない人にとってはおかしなものに思えるかもしれない。

 あの男性を念頭に呼び起こしたことで、別の問題も見えた。私は、言語ゲームそのものの理解に単独の計算機の内部おける通信が役立つとは信じていない。対象となるのは、「複数の言語ゲームにおける差異の体系」であろう。

 「その人は、単独の計算機の内部における通信が、複数の言語ゲームにおける差異の体系の理解に役立つと思っている」

 新しい情報カードに、私はそう書いた。

 これで、充分に正確であるように思えた。「単独の計算機の内部における通信」については、それに対応するものが「複数の計算機間における通信」となる項も考えられる。それは、また別の情報カードに書いた。

 私は、その二枚の情報カードを、マスキング・テープで壁に貼った。

 「なぜ役立つと考えるのか」

 もう一枚書き、それも壁に貼った。その答えは単純なものであるように思えた。どちらもプロトコル、あるいはルールが存在し、それらに従った振舞いが行なわれる。

 「言語ゲーム、計算機の各種通信にはルールやプロトコルが存在し、それらに従った振舞いが行なわれる」

 そう書き、「なぜ役立つと考えるのか」という情報カードに貼り付けた。「行なわれる」というのは正確ではないかもしれない。ここを正確にしようとするなら「それらに従った振舞いが期待される」となるだろう。「期待される振舞い」から外れた場合、計算機であればバグと見做されるだろうし、場合によっては動作が停止する。では、人間においてはどうだろう。私は、あの男性の曇った表情を思い出した。

 あの男性とのやりとりを書いた情報カード群の前に移動し、やりとりそのほかの経緯を追い直した。それは、最初から破綻した会話――そう呼べるなら――であった。あの男性が発っした “SYN” に対して――TCPで言うなら――、私は “ACK” を返すことができなかった。返したのは、言うなら “擬ACK”、あるいは “偽ACK” だっただろう。それをあの男性が “ACK” と受け取ったのかはわからない。

 “擬ACK”、あるいは “偽ACK” は、計算機においては存在しない。おそらく、悪意を持ったシステムでないかぎり。“擬ACK”、あるいは “偽ACK”に似たものは、リアルタイムOSにおける「実行中」を示す状態であるかもしれない。

 だとしたなら、私は単純に「情報が足りない」と応え、それに従った振舞いをすればよかったのだろうか。だが、その振舞いは、噛み合わない会話と、そして最後の「えぇと。つまり、それほどでもない家系から大学出身の息子さんが出たことが誇らしい。そういうことですか?」という私の発言によって示されてはいないだろうか。

 そこに至って、私が “ACK” を返していたのだとしたら、あの男性が顔を曇らせる理由にはならないように思える。そこから、齟齬がある箇所を示し、また明らかにしていけばいいのだから。

 私は、あの男性の返答を待ったほうがよかったのだろうか。

 私は、「擬ACK/偽ACK/ACK?」と二枚の情報カードに書き、あの男性との会話における「息子さんでしたか? この学会で発表を?」という私の発話の情報カードと、「えぇと。つまり、それほどでもない家系から大学出身の息子さんが出たことが誇らしい。そういうことですか?」という情報カードに貼り付けた。

 まだ、壁の情報カードは増えるだろう。だが、そろそろ人間も対象に含める頃になったのかもしれない。

 私は情報カードのホルダ、ボールペン、マスキング・テープをポケットに収めると、昼食に向かった。


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