第10話 ウサギ
黄色い街道を、きしんだ車輪の音を立てて北から荷馬車がやってくる。
ちょうど検問と検問の間にあたる場所で、あたりに人影は見えない
御者台に乗っているのは帽子を被った老人で、馬車には木箱が満載されていた。
老人の格好は、森の中を通るにしてはなかなかに洒落ていた。
丁寧な細工の革の帽子に、緑に染めた皮の上着。
そして極めつけに、上質そうなブーツを履いている。
ティルキア北部では皮革産業が盛んだ。
皮革の加工商人に違いなかった。
セトはロゼとシェンリーに出てこないよう合図して、隠れていた茂みから一人飛び出して馬車の前に立った。
「あんた、革の行商人だな。エルケームに行くのか?」
「……ああ、そうだが。で、あんたは誰だね? 検問ならもううんざりだ。
朝から五回は止められているんだぞ」
老人は疑い深そうにセトを上から下まで眺めた後、顔を引きつらせた。
「もしかして、今流行の山賊か?」
「まさか。もしそうなら、一人で出てくるはずがないだろう」
セトは手を振って否定した。
もっとたちの悪いものだとは言いづらかった。
「街が大変なことになって、逃げてきたんだ」
ほう、と老人は興味深そうに尋ねた。
「エルケームは一体どうなってる?
共和派だか王党派だか知らないが、わしらの村じゃ憲兵が追い出されたくらいでな。
なにも情報が入ってこないんじゃ」
「暴動で滅茶苦茶だ。引き返した方がいいぞ」
「しかし、わしだって生活がある。
市場はやっとると聞くし、行かないわけにはいかん。
で、何のようだね」
セトは何も言わず革袋から銀貨を一つかみ取り出し、老人の手のひらに乗せた。
とたんに老人の目の色が変わった。
「……なにかご入り用のものがおありかね?」
「服を数着。冬用のマントやブーツを譲ってくれればいい。
そして、ここであったことは誰にも言うな」
セトはそう言いながら、さらに銀貨を一つかみ上乗せした。
老人は皺だらけの顔に笑みを浮かべた。
「あんたが王党派かどうかは、聞かないよ。
どうか、いい旅をな」
老人はいそいそと鞄へ銀貨を入れると、馬車から身軽に飛び降りた。
今の約束が反故にならないかと心配しているのか、慌てて木箱の蓋を開け、中から冬にぴったりの毛皮のマントや上着を取り出す。
思ったとおり、彼は腕のいい皮革商人だった。
ブーツや帽子、それにマントなど、質のいい防寒着を手に入れることができた。
シェンリーのぼろ服では冬山に入る前に凍死しかねない。
法外な金をもらい、にこにこ顔で馬に鞭をくれて去って行く商人が見えなくなるとすぐ、セトは茂みに入ってシェンリーに防寒着を投げ渡した。
「いやあ、感謝します。寒くて仕方なかったので」
「そうだろうな」
シェンリーが身支度を整えているあいだ、セトは手に残った子供用の灰色の分厚い上着をロゼに着せにかかった。
しかし彼女はまたご機嫌斜めになってしまった。
「またピンクじゃなかった! ピンクがいいって言ったのに!」
「ヴェルナースについたら、好きな色を好きなだけ着ればいい。
それまで我慢してくれ」
セトはロゼの頑固さに閉口しながらも、小さな身体に手早く革の上着を着せた。
数日後、彼らは本格的な北の森に足を踏み入れた。
細い獣道は今までのように歩きよくなかったが、追っ手に見つからないという気楽さは木が途切れやすい林より、森の中の方が格段に上だった。
ただ、北へ向かうにつれ、明らかに気温が下がってきたのが難点だった。
一度など朝起きたときに霜が降りていて、本格的な冬がそこまで来てしまっている事実をセトは痛感していた。
早くヴェルナースに着かなければと焦るセトとは対照的に、ロゼはこの旅をしごく満喫しているようだった。
「ねえ、セト、見て見てー! ウサギさん!」
白い綿毛のようなものがぴょんぴょんと跳んでいくのを見て、ロゼは甲高い声を上げて後ろにいるセトを呼んだ。
「ウサギだな」
ウサギだということは分かりきっていながら、セトは確認でもするかのようにそう言った。
林の中とは比べ物にならないほど、森にはたくさんの小動物が棲んでいた。
小動物がいるということは、それを食べる肉食獣もいるということだ。
また、深い森には魔王の残党の魔物がまだ息を潜めているかもしれないという噂もささやかれている。
注意するのは人間だけではない。
しかし、この森に入ってから数日、なにごとも起きていないのも確かだった。
「穴ウサギのようですね……狩れればいいのですが」
シェンリーがロゼに聞こえないよう、セトに耳打ちした。
セトも気付かれないように頷き返す。
ロゼは無邪気にウサギを見て喜んでいたが、旅で肉の調達は欠かせない。
ウサギはまだ気付いていないようで、茂みの近くで座り込むと、下草をもぐもぐと食べている。
ロゼの見えないところで捌くか。
そう思い、セトは静かに言った。
「私は後から向かう。ロゼとシェンリーは先へ進んでくれ」
ええー、という不満そうな声を上げながらも、ロゼはシェンリーに手を引かれて森の奥へと入っていった。
茂みを揺らすがさがさという音が聞こえなくなったところで、セトは静かに呪文を唱えて杖を取り出す。
杖を真っ赤で派手派手しい鳥の姿に変えると、彼は命令した。
「あのウサギを捕まえろ」
キチキチと嫌そうな音をたてた後、杖——赤い鳥はさっとウサギに飛びかかった。
ウサギはかん高い声を上げ、後ろ足で土をはね飛ばして茂みの中へ逃げる。
鳥は茂みの上を飛び越し、暗い森の中へ消えた。
茂みを出たところで待ち伏せをする気だろう。
がさがさと音がしてしばらくすると、キーキーというウサギの悲鳴と共に、インコが羽ばたいてセトの元に帰ってきた。
クチバシには暴れるウサギの首をくわえている。
セトはそれを受け取ると、ひと思いに首を引っ張って捻る。
ウサギは一瞬もがいた後、ぐったりと大人しくなった。
何か言いたそうにしている鳥をさっさと消し、彼は早速獲物の血抜きにかかろうとした。
残酷なようだが、新鮮なうちに血を抜いておかないと臭みが取れなくなるのだ。
ウサギを逆さ吊りにして後ろ足を手頃な二股の枝にひっかけると、黒曜石のナイフをポケットから取り出して、頸動脈あたりを撫で斬る。
ウサギの白い毛皮に紅い血がさっとほとばしった。
今まで見たこともないような、美しいルビーの色。
紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い紅い旨い紅い旨い紅い旨い旨い旨い旨い——
と、誰かから見られているような気配がして、セトは顔を上げて周囲を見渡した。
茂みの向こうに、ロゼがいた。
空色の瞳を目一杯広げて立ち尽くしている。
声をかけようとした途端、きゃっと叫んで彼女は逃げ出した。
それはないだろう、とセトは口をゆがめた。
ウサギのことはショックだったかもしれないが、この先は国境を越えるまでろくな街がない。
森でとれる肉は貴重なのだ。
(待って)
そう言おうとしたが、口の中がいっぱいで言葉にならなかった。
久々にこんな旨いものを口にした気がするが、今はロゼのことが先決だ。
彼は無意識にそれを飲み込んで、ロゼを追いかけはじめた。
「セト! 助けて!」
彼女はなぜか逃げながら助けを訴えている。
セトは思わず口の端を拭って叫んだ。
「私はここだ! わからないのか?」
そう言った途端、彼は愕然として立ち止まった。
拭った手に、べっとりと血がついていたからだ。
口の中に入っていたものがウサギの血だったことに、彼は今更気付いた。
走っていったロゼが遠く離れた場所で振り向き、木々の間から不安そうな眼差しでセトを眺めている。
「セト、帰ってきた?」
「さっきからずっとここにいたよ」
ロゼはおずおずと木々の間を通ってこちらへ進んでくると、セトの手を掴んだ。
「どこにも、行かないでね」
セトは少しむっとした。
「逃げたのはロゼの方だろう」
「セト。怒らないで、聞いて」
ロゼは下を向いて、続けた。
「あのね、逃げたの、ウサギさんのせいじゃないの。
あのとき、セトが違う人に見えた」
セトの背筋に嫌なものが走った。
赤いルビーのような血に見とれていた。
そして、それから何を思った?
どうして、血の味があんなに旨いと感じたのだろう。
「だから、本当のセトを探しに行ったの」
ウサギの血が付いたセトの手を、ロゼはぎゅっと握りしめていた。
その顔は相変わらず足下を見つめている。
「だから、どこにも、行かないでね」
「ああ。どこにも行かない」
セトは目線を合わせるようにしゃがみ込んで、ゆっくりと手を握り返した。
ロゼは、やっとセトと目を合わせ、にこりと笑った。
やっと一段落したところで、彼は先ほどから疑問に思っていたことを尋ねた。
「シェンリーはどうした?」
「ああ、それなの!」
ロゼがいきなり大声を出した。
「シャンリーはね、今逃げているの!
ロゼのためにおとりになるって!
だから、ロゼはセトを探しに来たの!」
全身に鳥肌が立った。
この森にも、既に共和派や魔術師連盟の手がまわっているのだろうか。
それとも、野犬か魔物か。
学者と王女を二人きりで森を進ませるのは、少々油断がすぎたかもしれない。
「いったい、何から逃げているんだ?」
「あのね、さんぞくだって!」
ロゼが言うなり、遠くの方から馬の蹄の音がけたたましく聞こえてきた。
そして、シェンリーの悲鳴も。
「……行こう!」
セトは袖でもう一度しっかり口を拭うと、ロゼの手をしっかりと取り、声のしたほうへ走り出した。




