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ガラスの魔王  作者: 久陽灯
第二章 ガラスの魔王
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第4話 野宿

 一時間ほど飛んだだろうか。真下に身を隠せるような林が見えたので、セトはその緑の樹間にゆっくりと降り立った。

 ロゼはあれからずっと口も聞かず同じ体勢のままで、地面に降りてもまだ首にしがみついていた。


「休憩だ」


 ロゼの腕を引きはがし、地面に下ろすと、彼女はふらふらと姿勢をぐらつかせた。

 初めてにしては飛び過ぎたのだろうか。


「大丈夫か?」


 セトはしゃがんでロゼの顔を覗き込んだ。

 ロゼはそれが聞こえなかったかのように、両手を耳に当てると、首を小刻みにふった。


「耳が変」

「唾を飲み込め」


 ロゼは涙目で何度か唾を飲み込むと、耳から手を離した。


「大丈夫か?」


 セトはもう一度聞いた。

 子供の慰め方など知らない。思いついた言葉を繰り返すことしかできない。

 ロゼは、下をむいたまま呟いた。


「すっごく……」


 ロゼは顔をぱっと上げると、大きな口でにっと笑った。


「すっごく、おもしろかった!」

「おもしろ?」


 彼は自分の耳が信じられなくて、もう一度聞き返した。

 てっきり、怖かっただろうと思っていたのに。

 ロゼは元気よく答えた。


「最後、降りる時、耳が痛くなったからどうしようと思ったの!

 でも、おもしろかった!

 ねえ、どうやったらセトさんみたいに飛べるの? ロゼも飛びたい!」


 そう言うと、彼女は両手をばたばたとはばたかせて飛ぶ真似をし始めた。

 セトは呆然とロゼを見つめていたが、やがて気付いた。

 あの親にしてこの子あり、だ。


「いい度胸だな」


 彼が褒め言葉なのかよく分からない言葉を口にすると、ロゼは得意そうに笑った。

 そのくったくのない笑いを、昔、セトは確かに見た。

 セトよりも僅かに背の高い、赤毛の戦士。

 誇り高く、剣の腕は誰よりも強く、勇壮で陽気だった彼女。

 彼は頭を振ってその幻影を追い払うと、ごまかすようにロゼに言った。


「あと、さんづけはやめてくれ。慣れていなくてむずむずする」


 相変わらずばたばた飛び跳ねながら、ロゼは素直に言った。


「じゃあ、セトみたいに飛びたい! どうするの? ロゼ、呪文を覚えればいいの?」

「……とりあえず、今は飯を喰おう」


 彼は木の根元に腰を下ろし、自分の鞄の中をあさりだした。






「まづつしだったら、びゅーんって、ひとっとびに飛んでいけないの?」


 少し固いパンを小さくちぎって食べながら、ロゼは「魔術師」を「まづつし」と発音した。


「無理だ」


 味のしないパンをかじりながら、セトは一言で切り捨てた。


「さっきは仕方がなかったから飛んだが、あれは結構魔力を喰う。

 それに、昼間は目立つし。飛ぶなら、夜に二、三時間が限界だ」

「ふーん」


 ロゼは、もそもそと口を動かした。


「じゃあ、このパンをおいしくしたりとか、できない?」

「それはパン屋の仕事だ」


 セトはため息をついた。

 この魔術研究が発達した今でも、大多数の人々は、魔術は何でも出来るものだと勘違いしていた。

 素人のこの手の質問には、彼は辟易していたのだ。


「魔術は何でも出来る便利な道具じゃない。

 魔力は、気力と言えば語弊があるが、自然の掟を少し変えるのに必要な自己の精神エネルギーだ。

 エネルギー自体を凝結したり、放出したりはできるが、新たに作り出すことなんて早々出来るものではない。

 魔石は生成する、というが実際には魔力を加えて物体を凝結しているだけだし、それですら何かを破壊する魔術よりずっと高度な技だ。

 何をするのだってそうだ。壊すことはたやすいが、作るのは難しい」

「セト」


 ふいに、ロゼが真剣そうな顔で、声をひそめてささやいた。


「なんだ?」

「なに言ってるのかぜんぜんわかんない」


 そう言われてセトは、目の前にいるのが六歳になりたての女の子だということに改めて気付いた。


「……だろうな」


 彼は、自分の持っている古びた緑色の鞄をごそごそと探り、中から多少ひからびた黄色いチーズを取り出した。


「少なくとも、パンをおいしくするのは魔術よりチーズの方が上手だ」

「チーズだ! ありがとう」


 ロゼは嬉々としてチーズを受け取ろうと手を伸ばした。

 だが、その手を伸ばしたまま、彼女はセトの顔を見て止まった。


「セト、痛い?」

「何が?」


 彼は首をひねったが、ロゼの視線を追い、チーズを差し出した自身の右手をまじまじと見て分かった。

 手の甲に、茶色い切り傷が走っている。

 きっと、戦闘の途中でついたのだろう。

 いつ怪我をしたかどうかさえ覚えていないような、浅い傷だ。


「たいした傷じゃない」

「ほんと? 痛いの痛いの、とんでけー!」


 ご丁寧に、ロゼは彼がインチキ呪文と蔑んでいる類いのおまじないを唱え、それからチーズを受け取った。

 けれども、彼は悪い気はしなかった。






 彼等はその日、もう飛ばずに北へ向かって歩き続けた。

 針葉樹の林はどこまでも続き、二人の姿を街道から隠していた。

 セトはロゼがすぐに音を上げるかと思ったが、彼女は驚くほど元気いっぱいで、歩くというより走り回っていた。


「ずっとお外に出られなかったんだもの! とっても楽しい!

 お城に帰るまえに冒険できてよかった!」


 ロゼは髪の毛をくしゃくしゃにしながら笑った。

 あのひとにも、こういう時があったのだろうか。

 駆け回るロゼを見ながら、セトはまた亡き女王のことを思い出していた。


『なぜあなたは、女王様をお助けしなかったのですか!』


 不意に、クローディスの言葉が胸に蘇った。

 実際に言われたそのときよりも、もっとひどく彼の心をえぐった。

 ロゼは、まだ母親が死んだことを知らない。

 自分がもう王女ではなくなったということさえ分かっていないようだ。


「ロゼ、パパやママにお空飛んだこと話すの!

 それで、セトのことも、クローデスのことも話すんだあ」


 ロゼの無邪気な一言で、彼はいっそう無口になった。


 空気が冷たくなり、辺りが夕闇に包まれる頃、ようやくロゼに疲れが見えてきた。

 とはいっても、多少歩みが遅くなっただけで、口の方はセトが黙っているにも関わらず立て板に水だった。

 適当に聞き流して歩き続けていた彼は、小さな湖のほとりで歩みを止めた。


「セトー、今日はどこでお泊まりするの?」

「ここだ」

「だって、お外じゃない」

「外だ。こういうのを野宿という」

「のじゅくー!」


 セトには彼女の思考が理解できなかったが、ロゼは野宿という言葉が気に入ったらしく何回も繰り返しては飛び跳ねた。


「のじゅくー! のじゅくー!」

「そんなにいいものじゃない。特に冬は」

「のおじゅうくー!」


 セトはそれ以上説明するのをあきらめ、鞄をあさった。

 そして、手のひらにぴったりおさまるほどの小さなルビー色の石を取り出した。


「きれい!」


 飛び跳ねていたロゼが、いつの間にか興味津々でその石を覗き込んでいた。


「触るんじゃない。これは火の魔石だ」


 思わずその石をつっつきそうになったロゼを見て、セトは慌てて彼女からその石を遠ざけた。


「ケチー」


 ぷうっとふくれるロゼを後目に、セトはその石を草のない地面に置き、手をかざして、口の中で凝結解除の呪文を唱えた。

 途端に、赤い石は大きなオレンジの炎を吹き上げ、パチパチと音を立ててはぜはじめた。


「石、燃えちゃったの?」


 ロゼは初めて魔石を使うところを見たのか、随分驚いた声で尋ねた。


「違う。本来の姿に戻ったんだ」


 セトは細かく訂正した。


「これが、教会が嫌う『自然をねじまげる行為』の一つだ。炎に魔力を加えて凝結させ……」


 そこまで思わず説明して、彼は話し相手が魔術師見習いですらないということにもう一度気付き、言い直した。


「……これがあれば暖かいし魚が焼ける」

「さかなー! さかなー!」


 またロゼが飛び跳ねた。

 少し、子供への接し方が分かってきたと、セトは自負した。






「お腹いっぱいだね」

「食べすぎだったんじゃないか」

「だって、いっぱい歩いたんだもん」


 眠そうな声で、毛布の塊がしゃべった。

 さっきまでロゼだったものだ。

 セトは梱包でもするようにてきぱきとロゼを顔だけ出したみの虫のような格好にした後、鞄からまた火の魔石を取り出した。

 そして、今度は手に乗せたまま、本来のスペルの後ろに聖ヴィエタ文字で反凝結の呪文をアレンジしたものを唱えた。

 今度の魔石は燃え上がらず、オレンジ色の暖かい柔らかな光がセトの手のひらから漏れた。

 彼はそれを二つ作ると、一つをロゼに毛布の隙間から渡した。


「持っとけ。暖かいから」

「さわっていいの?」

「これはね」


 毛布の中にぽかぽかと暖かい魔石が入り、ロゼはにこっと笑った。


「野宿楽しいね」

「最初だけだ」


 セトはあっさり言うと、自分の分の魔石を抱え、灰色とも水色ともつかないマントをかき寄せて木の幹にもたれかかった。


「そんなことないよ」


 ロゼは空にかかる少し欠けた月と、満天の星空を眺めた。


「お空がきれいだもん。ずっと野宿したいくらい」


 つられて、セトも空を見上げた。

 見慣れた星座が夜空を彩っていた。

 彼はいくぶん目を細めた。

 メルフイン座が空の高いところで瞬いている。

 もうこんな時間なのだろうか。


『ずいぶん遅くまで起きているじゃないか』


 そんな声が聞こえたような気がして、セトは知らず知らず首に掛けている鎖をたどり、肌のぬくもりの染み付いたペンダントを握った。

 それをもらったのは、まだティルキア女王が王位を継ぐ前、魔王との決戦前夜、冷え込む砂漠の夜だった。







『明日は決戦だぞ』


 赤い鎧を着た戦士は、夜の荒れ地の冷たい風に赤毛をなびかせながら、批難めいた口調で言った。

 セトが峡谷の崖の縁に座って何も言わないでいると、彼女もため息をついて隣に腰掛けた。

 居心地のよい沈黙の中で、セトとマリアンは峡谷から吹いている静かな風を受けていた。

 この砂漠の中の谷を降りて帰ってきた者はいない。

 それを二人とも知っていた。


『そうだ、これをやろう』


 彼女の言葉が沈黙を破った。

 セトは目を上げて右隣を向いた。

 顔の前に、ペンダントが月の光を受けて銀色に輝いていた。


『どうして?』


 それは、彼女の宝物のはずだった。

 八百年前、ティルキア城にいた魔王シド・ヴィエタの代物で、そのロケット型のペンダントを掘り当てたのは他でもない彼女だった。

 赤騎士はよく自慢していた。

 マリアンだけが、魔王の持ち物だったものを恐れげもなく持てる唯一の人間だと。


『明日、私が死んだら形見がいるだろう』


 彼女は谷の方を向いたまま、さらりとそう言った。

 その横顔は月光で縁取りされ、いつも健康的な肌をした彼女を病的に青白く見せていた。

 セトは見とれてしまい、半分ぼうっとしたまま、そのロケットを受け取った。

 細い鎖がちゃりっと手のひらに落ちた時、彼は夢心地の気分から覚めた。

 彼はマリアンの横顔に向かって礼を言った。


『ありがとう……でも、死ぬ時は二人一緒だ』


 彼がどもりながらそう言ったとき、彼女はひどく驚いたようにこちらを向いた。

 振り返った瞬間の彼女の瞳の輝きを、セトは今でも鮮明に覚えている。


 ——そう約束したはずだった。

 なのに、なぜ今、一人で生きているのだろうか。


 そのとき、隣でごそごそと音がして、セトは現実に引き戻された。

 ここは砂漠ではなく、針葉樹が立ち並ぶ深い森だ。

 隣にマリアンはいない。

 音の正体を見ると、毛布にくるまったはずのロゼが、そこから半分抜け出している。


「何やってるんだ」


 それに答えず、ロゼは尺取り虫のようにして毛布から脱皮——そう見えた——すると、セトの目の前にすっくと立ち、大声で叫んだ。


「痛いの痛いの、とんでけー!」


 あまりに唐突で、意味不明の行動に、セトはぽかんと口を開けた。


「寝言か?」

「違うー!」


 ロゼは眠たそうにしながら、セトのマントを引っ張った。


「痛いの飛んでった?」

「だから、こんなのたいした傷じゃない。痛くないんだ」


 彼は少しいらいらしながら、右手の傷を軽く引っ掻いてみせた。

 明日も強行軍なのだ。

 寝ておけるときに寝ておくのが一番いいのに、この子供は何を言っているのだろう。


「違うー!」


 だが、ロゼも少しいらいらとしているように叫んだ。


「だってセト、ずっと痛がってるじゃない!」


 彼は、目を丸くしてロゼのふくれた顔を見つめた。

 ずっと痛がってる?

 何のことか、セトには分かりかねた。


「何が?」

「最初に、教会に来たときから、ずうっと、ずうっと痛がってたじゃない!」


 ふいに、魔術の閃光のように、セトの目の前が開けた。

 セトは少し戸惑い、目を伏せると、かすれた声で言った。


「大丈夫。もう痛くなくなった」

「ほんと?」


 ロゼがセトの顔を覗き込む。


「ほんとうだ」


 そのときそこに鏡があったなら、セトは心底驚いただろう。

 彼は、普段のきつい眼差しからは想像も出来ない柔和な笑顔を見せていた。


「よかったー!」


 ロゼはそれを見てにこにこ笑うと、すぐに毛布に滑り込んだ。

 そして、すっぽりと毛布にくるまると、顔だけ出してもう一度忠告した。


「痛かったら、ちゃんと痛いって言わなくちゃだめだって、ママが言ってたよ!」

「わかった。これからそうする」

「約束だよ!」


 そう言うなり、ロゼは黙った。

 しばらくすると、毛布の中から規則正しい寝息が聞こえてきた。

 セトはそれを確認すると、月明かりの中でくすくすと笑った。

 それから、ふと真面目な顔に戻った。

 笑い事ではない。

 ロゼは、彼が時折見せる表情に気付いていたのだ。

 ロゼを見る度、マリアンを思い出し、その度——セトは首をすくめた。

 知られてはならない。

 いつかは知るかもしれないが、当分知らせるつもりはなかった。

 マリアンを失ったことで、痛みににた表情が出ていたのなら、そしてそれをロゼに見破られたのなら。

 これからは気をつけねばならなかった。


 それにしても、笑うのは久々だ。

 そう思った後、セトは少し背筋がぞっとした。

 この前思いっきり泣いたのはいつだったか、思いっきり笑ったのはいつだったか。

 セトは慌てて記憶をたどった。

 戦争で友人が殺されたときも、涙は出なかった。

 その場の問題を解決するのに必死だったから、という理由を考えついたがどうもしっくりこない。

 しかし、二日前は確かに泣いてはいない。

 その前、笑うほど楽しいことがあっただろうか? 記憶にはなかった。

 白い月の下、今度は魔王の嘲う声が聞こえた気がした。


『お前に我と同じ呪いがかかる。

 悠久の時の中で、お前は今に孤独になる。

 次第に、お前は人ではなくなり、人を憎むようになる。

 そして、絶望したそのとき。お前は次の魔王となるのだ……』

「……ならない」


 彼は一人、かすれた声でそう呟くと目を閉じた。

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