エメラルドの栞
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たくさんの文字と想いが詰まった本を、一枚の栞が静かに駆け抜けていく。
その栞が、そのページに触れていることは実は奇跡なのかもしれない、と私は思うことがある。
たくさんのページの中からこのページに偶然、止まる。
何百分の一の、小さな奇跡。
そしてその出逢いは、ほどなくして別れを告げる。
もうそのページに、そのエメラルドの栞が帰ってくることはない。
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クラスに一人、名前の読めない男の子がいた。
中学三年生になったこの春、私は一緒に「中学生活最後の」が冠されるイベントを奏でるメンバーを見渡した。
クラス名簿を眺めていると読めない漢字があった。
それは別に「名前として」読めなかったわけではなかった。あくまで、「読めない漢字」だった。
辞書で調べてみるとそれは私のよく知る「サンゴ」のことであった。
青嶋珊瑚 ―― なんとなく海を思い浮かべてしまうようなその名前の男の子が、この学年の成績トップの「サンゴ君」だということを知ったのは、沖縄でサンゴの密猟が増えてきているという事実を知って少ししてからであった。
そして、クラスの委員会を掲示する紙の上に、その名前がどっしり控えていて、その隣にいるよく知る名前が並んでいるのを目撃することになったのはそれよりちょっと後だった。
図書委員青嶋珊瑚水沢真珠
水沢……真珠……?
私だった。
委員会経験の全くない私にとって、どうして私が図書委員に選出されたのかはきっと永遠の謎である。
先生が「じゃあ委員会に選抜されたメンバーは今日の放課後に指定された部屋に行くんだぞ」とあくまで私が図書委員会がどこで行われているかを知っている前提で話しているのを聞き、私は二年間話したことのなかった学年トップ様のもとへ走ったのである。
「えと……よろしく、あおしま君」
「あおじまだよ」
これが私たちの、笑うにも笑えない出逢いだった。
名前が難しいうえに苗字もエキセントリックなのはずるいよ。
放課後に青嶋君についていく形で、私は図書館の隣の小会議室へ向かった。
「青嶋君って去年も図書委員やってたの?」
「うん。ずっと」
「すごいね。そういえば、学年トップなんだって?」
「うん。ずっと」
「いいなぁ。私に勉強教えてよ!」
「うん。いいよ」
この男は「うん」しかコミュニケーションを知らないらしい、と私が少し距離を縮めたと勘違いしていたあたりで委員会は始まった。
とてもどうでもいい(どうでもよくない人たちにとっては、どうでもよくない)ことだが、青嶋君は図書委員長になった。
さて、図書委員の主な、というか唯一と言える仕事は図書室で本の貸し出しを行うことである。
二週間に一回くらい、私は貴重な十四歳(あるいは十五歳)の放課後の二時間を、誰も本を借りに来ない本だらけの部屋で青嶋君と過ごすことになったのである。
最初の当番の日、私はせっかくなので勉強を教えてもらおうと教科書とノートを持ち込んだのだけれど、青嶋君はじっと本の世界に入ってしまっていて、話しかけることは出来なかった。
渋々一人でノートに方程式を並べていく。
遠くに響く、吹奏楽部の息吹。
ぺらり、ぺらりとページがめくられる音。
この騒がしい学校にこんな静寂が存在しただなんて。
私は隣に座る、男の子を見た。
眼だけがすごい勢いで上下している。
その姿は、世界に馴染みすぎていた。
「何読んでるの?」
気がつくと、私は声をかけていた。
「歳時記」
さいじき、と彼は言った。ちらりと見せてくれた表紙はとても殺風景で、たった三文字の漢字以外はまったりとした橙に染め上げられていた。
「どういう物語?」
青嶋君は「目を丸くした」という形容詞以外のすべての言葉が似合わないような顔をした。
「季語が載っている辞書みたいなもの、歳時記ってものは。知ってる、季語?」
「それくらいは知ってるよ! 白と黒の石を並べるやつでしょ」
「それは囲碁」
青嶋君はあくまで冷静に、私の渾身のボケを受け流した。
「どうして歳時記なんて読んでるの? 面白い?」
「もちろん。この本はただの季語の集まりじゃないからね。その季語にまつわるエピソードや有名な句が載ってるから、すごく楽しめる。例えば」
パラパラとページをめくる。非常に手慣れている。
「レモン。レモンは秋の季語」
「知らなかった」
「レモンを詠んだ句にこういうものがある。『恋ふたつ レモンはうまく 切れません(松本恭子)』。君はどう解釈する?」
恋ふたつ。レモンはうまく切れません。私はこの俳句よりも青嶋君が「恋」というものを発音したことに驚いた。
「うーん、恋に悩みに悩んで、レモンも上手に切れなくなってもどかしい、みたいな」
「すごくいいと思う」
「じゃあ青嶋君はどう考えているの?」
「僕は初めてこの句を見たときは、二人の人に想いを寄せていて、レモンを切るみたいにはキッパリ決められないって解釈したよ」
なるほど。でも、と青嶋君は続けた。
「調べてみたらね、自分の想う人との恋を『一つ』とみなさずに、『二つの恋』と表現したとの解釈があって、奥深さを感じたよ」
「二つの恋、か……すごいなぁ」
「ね。歳時記、面白いでしょ」
「うん。見直した」
私は立ち上がり、ふらりと本棚へ向かった。やがて青嶋君の持っていたものより一回り小さい、花のイラストがちっちゃく描かれた歳時記を見つけた。
パラパラとページを流す。たくさんの花の写真が私を迎えてくれた。赤い、青い、黄色い、白い。そして緑色。
図鑑を見ているようだった。
やがて夏の蝶が舞い、花火が揚がる。焚火に凩が吹き、つららが立つ。一年間をぎゅっと圧縮した世界がそこにあった。
そして、レモンの写真もあった。輪切りにされたレモンを見るとどうしてか酸っぱい気持ちになった。
「なんでレモンなんだろう。キュウリとかアボカドじゃだめなのかな」
「作者の松本さんはほかにも数多くのレモンの歌を詠んでいる。けれど単に、レモンは甘酸っぱい恋の象徴みたいなものなんじゃないかな」
甘酸っぱい、恋か。
「俳句ってなんか蛙飛び込む水の音、とか岩に染み入る蝉の声とか、イカつい感じがしてたけど、なんか身近だね」
「時代によって色々変化してるんだよ」
「甘酸っぱい恋の俳句、すごく素敵じゃない?」
青嶋君は優しく笑った。
私は「甘酸っぱい恋」の情景を思い浮かべた。
それは青い空に青い海を背景にし、白いワンピースに麦わら帽子という我ながらありきたりな青春だった。
ふわりと風が吹き、麦わら帽子が舞いあがる。パサリと白い砂浜の上に落ち、それを 〝彼〟 が拾い上げる。
「風ふわり 麦わら帽子が 恋運ぶ」
私は空に向かって、甘ったるい俳句を呟いた。
「すごくいいね」
やっぱり聞かれちゃってたか、と私は言ってからの後悔を飲み込んだ。
「でも、字余りをしてる。いや、いいけども」
「〝が〟を入れなきゃよく分からなくなっちゃうから」
「長い単語を使う時は句またがりを薦めるよ」
青嶋君は何かを考え始めた。そして、
「恋しさを 運ぶ麦わら帽子かな」
照れくさそうにそう呟いた。
「季語がまたがってるのか! すごい」
「でも僕は、『風ふわり』っていうフレーズが好きだよ」
「じゃあさ、『風ふわり 恋運ぶ麦わら帽子』とかどう?」
「すごくいい! 気に入ったよ」
ふわりと一秒の風が私たちの前を通り過ぎた。
気のせいか、レモンの香りがした。
結局私は歳時記を借りて帰ったのだった。
家に帰り、ごろんとベッドの上で花を眺める。
別に花が好きなわけではない。
花の図鑑で花を眺めるのと、歳時記で花を眺めるのでは気分が異なるのだ。
やがて心地いい眠気がとことこやってきて、私は夢の中に落ちた。
青嶋珊瑚、という男の子を観察して分かったことが三つある。
一つ目。授業中、彼のシャーペンはほとんど止まらないということ。
数学の授業であれば、先生の説明に耳を貸すこともなく問題集をひたすら解いている。家庭科の授業であっても、とにかくノートに何かしらを書きまくっている。
気になって一度、家庭科のノートを見せてもらったことがある。そこには教科書よりも分かりやすい、でも黒一色の栄養素と食品の一覧が出来上がっていた。
二つ目。彼は休み時間もほとんど本を読んでいた。しかし「友達がいない」タイプではなく、友人が彼に勉強を聞きに行くと本を置き、嫌な顔一つせずに分かりやすく、懇切丁寧に教えていた。私も因数分解を聞きに行った(そしたらなぜかオイラーの公式について教えてくれもした)。
三つ目。彼は 〝完璧〟 だった。
「青嶋君ってさ、苦手なものとかないの?」
二回目の図書館での貸し出し当番。私はなんとなく、素朴な疑問をぶつけた。
「苦手なもの? いっぱいあるよ、セロリとか」
「いや、食べ物の話じゃなくて!」
私はこんな青嶋君のお茶目なところが好きだ。
『手が届かない天才』から、『身近な天才』へとイメージを変えてくれる。
「勉強もすごい出来るし、優しいし……」
「僕は全然だよ」
「また謙遜しちゃって!」
全然って、『全部自然に理解できちゃう天才』の略でしょ。
「意外とスポーツ苦手なタイプ?」
「あまり得意ではないかも」
私は去年、青嶋君がスポーツ大会のリレーのアンカーであることをどこかで知っていた。あるいは、知らされていた。
「頭もよくて、スポーツもできて……女の子にモテモテでしょ?」
「いや、全然」
「また謙遜しちゃって!」
「本当だよ。僕そういうの苦手だし……」
青嶋君が本気を出せばこの世に存在する恋愛心理学の本を全部マスターしちゃいそうなのに。
「僕は自分の気持ちがよく分からない。自分は何が好きで、何をしたいのか、皆目見当がつかないんだ。だからどんな本でも読むし、どんなことでも覚えたがる」
青嶋君は持っていた本をチラリと見せた。「ソクラテス」と書かれた厚い本だった。
「僕が帰宅部なのは知ってる?」
「言われてみれば、今気づいた」
「色々なスポーツがあるけど、僕は何がしたいか分からなかった。何かに一途に打ち込むことが、上手くできない。なんか、怖い」
そう呟いてから、青嶋君はごめん、と小さく頭を下げた。
「こんな愚痴、聞きたくないよね」
私は強く否定した。
「なんかね、青嶋君にも悩みがあるんだなぁって思っちゃった。別に馬鹿にしてるとかじゃないよ。ただ、青嶋君は何でも知ってそうだから、自分の悩みを解決する方法も知ってそうだったからさ」
青嶋君は私の目をじっと見つめた。
「僕は何も知らない。一番分からないものは、僕自身のことだ」
「なんか哲学的だね。ソクラテスみたい」
私はその表紙に目を移すことで、小さな恥ずかしさから目をそらした。
「ソクラテスってどういう人か分かる?」
「実は頭がいい人ってことくらいしか知らない」
「ある日、ソクラテスの友人が神からのお告げを受けるんだ。それは『この世でソクラテスより賢い人はいない』って内容で、それを聞いたソクラテスはそれが本当なのかを色々な人に聞いて回るんだ」
「すごいね」
「僕も、ソクラテスの気分を味わったよ」
青嶋君は、少し悲しそうな目をした。
「自分のことがよく分からずに、中学生になって。テストを受けたら『学年トップは君だ』って告げられた。信じられないし、信じたくもなかった。でも、そういうことだった」
「私には分からない世界だなぁ……」
「ある意味では、僕にも分からない世界だよ」
青嶋君は小さく笑った。そして、「ソクラテス」をよけた。
「僕のつまらない話をしてしまったね。ごめんね。今度は君の話を聞かせてよ」
「私の話? 面白くないよ……」
「なんでもいいよ。愚痴でも、悩みでも」
「悩みか……」
私たちの年頃は、悩みがないことを悩めるような思春期の真っ只中である。勉強に家族に、恋愛。悩みは耐えないが、「悩み」を聞かれるとさっぱり見当がつかなかった。
「改まって考えると、特筆できるような悩みはないなぁ……」
青嶋君は笑った。それが可笑しくて、私も笑った。
「あ、一つあった」
「何?」
「胸が大きくならない」
「それは僕にはどうしようもできない」
私たちは再び、笑った。
「そういえば気になっていたことがあるんだけど。君って六月生まれ?」
「え? いや、五月二十三日。どうして?」
「『真珠』って言う名前。真珠って、六月の誕生石だから」
相変わらずこの人は何でも知ってるなぁ。
「僕は『珊瑚』っていうものが三月の誕生石だからそう名付けられたんだ」
「へー。私、珊瑚っていう名前、好きだよ。最初読めなかったけど」
「ありがとう。小学校の頃はこの名前が嫌いだった」
「どうして?」
「『じゅうご』っていうあだ名をつけられたから。さんご、じゅうご」
さんご、じゅうご。私は不覚にも吹き出してしまった。
「ごめんごめん。気にしちゃうよね」
「今ではこの名前が好きだ。こうして名前にまつわる話も出来て、きちんとオチまである。それに君みたいに、僕の名前を好きと言ってくれる人にも出逢える」
青嶋君は、女の子と話すのが上手いなぁ、と思ってしまう。
キュン、としちゃうような「小さなときめきの言葉」をさりげなく、真っすぐに、いつも通りの口調で、でも飾ることなく投げかけてくれる。あるいは、幅広い知識で私を包んでくれる。私の名前を見て、今まで誰が私の誕生日の話をしてくれただろうか。
「私も真珠って名前を気に入っているよ。可愛いし」
「いい名前だと思うよ」
「ありがとう。私たちの名前って、どっちも誕生石なんだよね。ま、私は多分たまたまだけど」
「そうだね。なんか、不思議」
私たちは小さな空を見つめた。こんな広大な世界で、こんな変わりゆく瞬間の中で、私たちはこうして図書館のカウンターで肩を並べて座っている。レモンや、ソクラテスや、誕生石のことで盛り上がれる。
これは、「限りなく貴重な時間」だ。
「私たちは、大人になっていくじゃん。そろそろ、受験とか、成績とか考えなくちゃいけなくて、こうやってゆっくりとしたお話も出来なくなって行くって考えたら、哀しくなるよね」
「そうだね。僕たちはきっと、日々に忙殺される」
「俳句にときめいたり、名前を好きになったりする時間もなくなっちゃうのは、つまらない」
「中学生という素敵で無意味で、他の何にも替えられない大切な時間は、どれだけ願っても帰ってこないからね。今を後悔せずに生きることなんて出来ないから。でも、この先、僕たちは一生、この時間を大切にして生きていくんだ」
胸の奥がとくんと叫んだ気がした。
最近、「中学校生活最後の」という言葉を聞く度にこの違和感をどこかで抱いていた。やっぱり、「最後」って悲しい。
来年からはもう、やってこないイベント達。
「永遠の別れ」なのだ。
「もしかして、こうやって青嶋君と話せる機会も、もう少なくなってきたのかもね」
まだ二回目なのに。もう「終わり」を考えてしまっている。
「中三病」とでも呼ぶべきだろうか。
「悲観することはないよ。今日で終わりじゃないから」
青嶋君は――私が初めて見る表情をしていた。
どこかもどかしいようなその表情を、私は定義できない。
「ソ、ソクラテスは」
青嶋君がそう言葉を詰まらせた時、私は少し、ほんの少しだけ分かった気がした。きっと彼は「照れて」いた。
「ソクラテスはこの世で最も賢い人間であった故に、人々を惑わすとされて死刑判決をうけるんだ」
しかし数秒後、彼はいつもの冷静な青嶋珊瑚君に戻った。
「死刑が決まってからソクラテスの友人は、彼に命乞いをしに行くよう説得しに行った。けれどソクラテスは拒んだ。そして、殺された」
どうしてだと思う? 彼は優しく訊いた。
「私だったら、もっと生きたいって言うと思う。やっぱり、頭がいい人は考えることが分からないや」
「そう、もっと生きたかったはずだ。けれど、彼は知っていたんじゃないかな。自分もいずれ死ぬということを。物事には必ず、終わりがあるということを」
私も・いずれ・死ぬ。
中学生にはまだ少し早いかもしれない。
けれど「死」ではなく「卒業」という文字に置き換えると、それはとっても身近な事象へと変わった。
私も・いずれ・卒業する。
この図書室から見る夕日も、風も、本の匂いも。
ここが私の居場所でなくなるということ。
世界が、私を忘れてしまうということ。
「物事にはすべて、『終わるべき時』が存在する。それが、十五歳という僕たちにはたくさんあって、一つ一つに意味がある」
そうして青嶋君は時計を指差した。
五時三十分。
「今日の貸し出し当番は、これで終わり」
その、少し哀しそうな表情を、私は見たくなかった。
「今日も誰も来なかったね」
私はわざと、そう笑って見せた。
「ソクラテス」を本棚に戻しに行く青嶋君の背中に私は声をかけた。
「玄関まで一緒に帰ろう」
彼は少しきょとんとし、それから微笑んだ。
西日が差し込む廊下はなんだか「青春の色」だった。
青い空も、緑の芝生も、青春を彩る色なんだろうけど、私にはこのあかね色も、青春の一つの色だと思える。
「眺しい」。私は日常的な発言の一つを落とした。
「夕日は、どうして赤いのか」。彼も彼なりの日常的な発言の一つを私に見せてくれた。
「僕がきっと、この世界に対して初めて抱いた疑問だったんだ」
「すごいね。私はきっと『どうしておなかは減るの?』とかだったと思うよ」
「君らしい。素敵だね」
彼は笑う。私、らしいか……。
「今でも、分からないんだ」
「何が?」
「夕日が、どうして赤いのか」
私たちは玄関に差しかかった。
「ねえ、一緒に帰ろう。話の続き、聞きたい」
「僕なんかの話でよければ」
そう言って彼はまた、微笑んだ。
もしかしたら――と私は思う。
もしかしたら青嶋君はわざと区切れが悪くなるような話題を持ち出したのかもしれないか。
一緒に、帰るために。
今日と言う日の終わりを――そして「卒業」や図書館でのおしゃべりの終わりに哀しむ私をなぐさめるために。
私はもう一度、彼の顔を見た。
いつもの、優しい青嶋君だ。
「家まで送るよ」
私たちは歩き出した。
今日という大切な一日は、まだ終わらない。
「ねえ、夕日はどうして赤いの?」
彼は散乱、とだけ呟いた。そして首を振った。
「僕が小さな頃、どうして夕日は赤いの? と父に尋ねた。父は光の散乱だと答えてくれた。でも、僕が知りたかったのはそんなことじゃなかった。母に訊くと、母はこう答えた。太陽は朝は白いけど、夕方は赤くなる。つまり、日焼けなんだと」
私はつい笑ってしまった。彼も笑った。
「太陽も日焼けするんだね」
「ある意味、僕が求めていた答えはそれだったのかもしれないって、しばらくして気づいたんだ」
私は彼の横顔を見た。
ふわりと五月の風が吹いた。
胸が苦しくなった。何もかも、吐き出してしまいそうなほどに。
「だから、僕には分からない。夕日が赤いのは、散乱なのか、日焼けなのか」
「このまま知らないままでいたいな」
「僕も、そう思っているよ」
やがて、私の家が近づいてきた。私は勇気を振り絞った。
「ねえ、もう少しだけ、一緒に、いたい」
「いいよ。今度は何の話をしようか」
「私の、小さな、小さなお話を聞いて」
家の近くの公園の、砂で汚れたベンチに座る。
子供達の遊ぶ声が、数時間前から聞こえてきた。
「ねえ、青嶋君」
「何?」
「青嶋君は、卒業したくないって思うこと、ある?」
もちろん、と彼は空を眺めた。
あかね色も、世界を染める闇には勝てないようだ。
「私、卒業するのが怖い。みんなに会えなくなるのも。もちろん、青嶋君と会えなくなるのも」
「そうだね」
「私、もっと、ずっと、青嶋君と一緒にいたい」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
少しの沈黙が姿を現した。そして音もなく消えた。
「僕もだよ」
ぼくもだよ。その五文字が、一体どれ程の意味を持っているのだろう。
私はそっと、右手を差し出した。並んで座る青嶋君もそっと左手を伸ばし、私の右手の甲を握ってくれた。
じんわりと温かくて、そこに確かに存在した。
「確かに、君と僕はいずれ、永遠に近い別れをしなくちゃいけない。けれど、今、僕と君はここにいる。それだけのことだよ」
「それだけのことが、私はすごくうれしいよ」
「僕もだよ」
青嶋君と私。五月二十二日の、午後五時五十七分。
確かに、ここに二人は存在していた。
右手の温もりだけが、それを証明している。
再び訪れた沈黙。先程のものとは質が違う。
それぞれが、それぞれの幸せを噛み締めていた。少なくとも、私はそうだった。
「そろそろ行こうか」
「まだ……もう少しだけ……」
「今日の別れは、永遠の別れじゃないよ。明日また逢える」
その柔らかな言葉は、私の心を穏やかにする。
「じゃあね。えーと……真珠」
その照れくさそうな一つ一つの文字は、空に吸い込まれていった。
彼が誉めてくれたその名前が、時を彩った。
その夜は、ひどく眠れなかった。
昨日のことは夢だったのではないか、と私は思った。
朝、教室で見た青嶋君は昨日とは別人に見えたし、おはようの声も極めて普通だった。
そんな昼休み、青嶋君は私に小さなプレゼントをくれた。
「誕生日おめでとう」
「わわっ! ありがとう! 開けていい?」
「もちろん」
緑色の小さな封筒には、透き通るようなエメラルド色の栞が入っていた、
「お気に入りの栞は、たくさんの本との出逢いをもたらしてくれるんだ」
彼はいつもの――昨日と同じ笑みをくれた。
「これが、君の……じゃなくて、真珠のお気に入りの栞になってくれたらうれしいよ」
「ありがとう! 本当に青嶋君はセンスいいね!」
彼は小さく照れた。
エメラルド、と呟いた。
「エメラルドは五月の誕生石だ。水沢真珠という名前には青や水色や白が似合うと思っていたけど――真珠には、緑が似合う」
そう、この感じ。この感じだ。
もどかしくて、奥ゆかしい。この匂いや、風の柔らかさ。
そして胸で騒ぐときめき。
これは――恋だ。紛れもなく、恋である。
私はこの、青嶋君という優しくて、何でも知っているクラスメイトに恋をしているのだ。
思春期のどうしようもない、やり場のない好意を、私はたった一人に集めてしまったのだ。
好き。青嶋君が好き。
世界は煩雑でシンプルだ。たったそれだけのこと。
たったそれだけのことに気づくまでに、わずかな時間をたくさん要してしまった。
「ありがとう。大切にするよ」
私はやっとの想いで、その言葉を口にした。
青嶋君は小さく笑み、行ってしまう。
行かないで。もっとお話しようよ。
声にならない言葉は、過去に消えてしまう。
エメラルド色の栞が、確かに私の掌の中にあった。
時間というものは待てば長く、過ぎれば短いもので私は次に青嶋君と一緒に貸し出し当番が出来るのはあと何日後だと、毎日それだけを考えていた。
彼のことを考えれば考えるほど、自分の恋の大きさを再認識せざるを得なくなる。私の、初恋。相手は、学年トップの天才君。
私なんかじゃ釣り合わない。もっと勉強して、学年二位になろう。そうしたらきっと、お似合いのカップルになれる。
あるいは、スポーツ万能ガールになれば。これもまた、お似合いだろう。もしくは、学年一の美女になろう。
いくつもの言い訳を考えては、どれもこれも高い壁でしかないことに気づく。第一、それをして何になるんだろう?
きっと、彼は私を選んではくれない。青嶋君には、委員長をこなすしっかり者の長谷川さんか、女子バスケ部のキャプテンの西田さんか、帰国子女の保坂さんがお似合いだ。あるいは、クラス一のモテモテガールの原田さん。関西弁が可愛い佐々木さん。
もしくは――何の取り柄もない、貧乳の水沢真珠ちゃん?
そんなわけない、そんなわけ……。
そんなわけ、あってほしいと、私は祈ることしか出来ない。
自分に自信なんてなかった。
そう思って悔しくなるたび、私は右手を見つめるのだ。
そこには未だに、青嶋君の温もりがある。
「僕もだよ」。彼のあの言葉の意味を、私はずっと考えている。
彼はわたしの手を握ってくれた。私を慰めるために。
その温もりは、私をより苦しめるのだ。
待ちに待った貸し出し当番、私はものすごい勢いで図書室へ駆け込み、たった一人のカウンターに座った。
ほどなくして青嶋君が現れる。
彼はいつものようにふらりと本棚の方へ向かい、気になったいくつかの本をパラパラめくる。そして最終選考を勝ち抜いた一冊の本をカウンターに持ってくる。
「今日はどんな本を読むの?」
「フェルマーの最終定理。聞いたことは?」
「ヤンマーの天気予報なら知ってる」
彼は笑う。私は心でガッツポーズをする。笑ってくれた!
やがて彼は本の世界に入り込む。
パラパラとページがめくられる。かなり間隔は早い。
私も、本になりたい。
青嶋君のその手馴れた手つきでめくられたい。
その瞳で見つめられたい。
そのしなやかな指は、真剣な眼差しは、私の心を熱くする。
どうしようもない衝動を引き起こす。
叫びたい。好きだ、って伝えたい。
でも私は、青嶋君ほどたくさんの言葉を知らない。
この気持ちを表現する言葉が思いつかない。
もどかしい! ああ、これが初恋なのか!
十五年間私に訪れることのなかった初恋がたった今、私をこんなにも苦しめている。
数億年くらい経った。彼は本を閉じた。
「どうだった?」
「うん。数学ってやっぱ深いな」
満足げな横顔は、極めて凛々しかった。
「その最終定理って、どんなの?」
「フェルマーっていう人はね、いつもたくさんの数式を発見していたんだけどそれを保存しておかない人間だった。彼の死後、ある一枚のメモが見付かった。『a^n+b^n=c^n a,b,c,nが自然数で、nが三以上の時、この数式は決して成り立たない。私はこの驚くべき証明方法を発見した。しかし――』この続きは何だと思う?」
「うーん……。「先にご飯を食べてきます」とか?」
「相変わらず素敵な答えだね」
えへへ、誉められた。
「実は、『余白が狭すぎて書けない』というものだったんだ」
「えっ!? 私のより面白いじゃん!」
「ははは。でも、フェルマーには可愛げがないね」
私には、可愛げがあるってことか! よしよし。
「フェルマーといえば超有名な人物だったから、その仮定は正しいものだと、だからみんなでどうにかして証明しようと躍起になって、時には億単位の賞金をかけて、必死にその問いに取り組んだ。しかしその証明には三百六十年もの月日を要したんだ」
「三百六十年!? 私の人生の……二十倍以上だ」
「その難問に数々の数学者が魅了され、死んでいった。数式が世代を越えて、国境を越えて、三百六十年の時を旅したんだ。そこに数学の美しさがあると僕は思うんだ」
私には分からない世界だけど、その美しさの片鱗に触れることが出来た気がした。
「身近な例で言えば、足し算やかけ算、もとい数字そのものは何千年も昔に出来たものだけど、今もこうして使われている。ギリシャ人とかエジプト人とか、もしくは徳川家康とか。そんな人たちと見てる世界も食べてる物も考えていることも違うけど、同じ数字で同じ計算をしているんだ」
それは、なんだか魅力的な世界だった。
ずっと昔の人と、同じ数式で会話をする。
逆に、ずっと未来の人とも、会話できるはず。
「時間は、決して失われない」
その言葉の意味を噛み砕くのに、私は少しの時間を要した。
数式が時間を確立させ、未来に託すということ。
ひいては、私が今居る時間も、未来には確固として存在しているということの証明? 考えすぎだろうか。
「なんか、青嶋君のおかげで、考えるクセがついたよ」
「それはいいことだよ。人間は考える葦、だからね」
青嶋君は立ち上がり、フェルマーをもとの世界へと還した。
そしてまた他の出会いを求めて、本と本の間をかけ巡った。
こうして今日という日も、暮れていった。
初恋を自覚し、想いを伝えられないまま一ヶ月が経った。
中総体も終わり、テストも終わった。私は青嶋君に勉強を教えてもらったおかげで少し成績を上げた。学年で八十二番。青嶋君はもちろんトップ。
あと八十人。あと八十人越せば、彼と肩が並ぶ。
あと百五十点。あと百五十点で彼の隣に立てる。
そんなの出来っこないと思う気持ちと、彼に認められたいという想いが交錯して、途方もない永遠の淵に立たされる。
私は必死に勉強した。他に何をすればいいか分からなかった。
やがてもう三回、貸し出し当番をする頃には夏休みが始まった。
私は勇気を振り絞って、青嶋君に夏休み中に勉強を教えてもらうように頼んだ。彼はもちろん、「もちろんいいよ」と笑った。
夏休みのジリジリした暑さと開放感、「勝負の夏!」とうたわれるストレスの中、ドーナツ店へと足を運ぶ。
「あっ、青嶋君っ!」
いつもと違う、私服の彼――白いティーシャツに薄手のカーディガンを羽織った彼がそこにいてくれた。
私は彼が薦めてくれた難しめの数学の問題集を開いた。
私の志望校は、県一番の進学校にした。先生も親も、無謀だと批判した。でもそこへ行けば、青嶋君と一緒になれると思ったからだ。もちろん、彼には内緒である。
「ここ分からない」
「んと、これはyの傾きを計算して……」
おやつにドーナツを食べ、まったり激しく勉強を叩き込まれた。
そんなことを週に一回のペースで続け、問題集が厚くぶよぶよしてくる頃に夏休みは終わった。
休み明けのテストで私は数学で満点を取り、順位は三十七位にまで上昇した。
あっという間に、九月になった。ついさっきまで五月だった気がした。
学校祭を控え、なんだかわくわくした雰囲気に包まれた校内。
もちろん、「中学校生活最後の」学校祭である。
そんなときめきの中、私に小さな事件が起きた。
それは何気ない会話の中で起こった。
貸し出し当番の最中、話の流れで青嶋君の志望校を訊いてみたのだ。
どこかで私は、私と同じ学校名が挙がることを「当たり前」だと思っていた。だって、この学年で一番頭がいいんだよ? 一番頭がいい学校に行くに決まっている。
そこに、落とし穴があった。
「僕ね、東京の高校目指しているんだ」
東京。日本の首都。人がいっぱいいる所。
そっか、そうだよね。青嶋君は頭いいもんね。
「一番頭がいい」彼が選ぶのは「この県で一番」頭がいい高校だとしか思っていなかった。まさか、「日本で一番」を選ぶなんて……。
私は迂闊だった。成績が伸びてきたことで、彼に近づいていた気でいた。
彼は――もっと遠くにいた。手が届かないくらいに。
「そっか……そっか……」
世界と私との時間がズレている気がした。
「逢えなく……なっちゃうんだね……」
ぶわっと視界が潤んだ。
「真珠……」
「泣いてなんかいない!」
泣いてなんかいない。泣いてなんかいないんだ。
「どうしたの、真珠……?」
「一緒の学校に、行きたかったの……」
「そっか……。ごめん」
謝らなくていい。全部、私のワガママなんだから。
きっと、青嶋君は困っている。私のこと、嫌いになっちゃうかも。
それでも、今は悲しんでいたかった。
その夜は眠れなかった。
ずっと、少なくとももう三年間は彼と一緒にいられると思っていた。
あと半年だけ。
その現実は私を切り刻む。
もし――もし彼が受験に落ちたなら――。
そんなことを考えて私は自己嫌悪に苛まれる。
彼なら、必ず合格できる。
だって――私が好きになった人だから。
朝、目が覚めた時には私の心は穏やかになっていた。
彼を応援しよう。
私は私で、志望校に合格しよう。
なんでこれだけのことに、すぐ至らなかったんだろう。私は恥ずかしい。
前向きにいこう。
「昨日はごめんね。びっくりしたでしょ」
朝すぐに青嶋君に謝りに行った。
「僕こそ。真珠の気持ちを考えずに、軽率な発言をしちゃったよ」
「私、応援する。青嶋君ならきっと受かるよ!」
「ありがとう」
彼は、私にまたその笑みをくれた。
それだけで私は幸せになれる。
中学校生活最後の、学校祭。
私は――彼に「一生のお願い」をした。
一緒に見て回ろう、と。
受験生にとってはこのイベントが一つの区切りで、あとは勉強に追われるだけの日々が待っている。
だからこれは私にとって、青嶋君と過ごす時間の一つの区切りだった。
いくつかの教室を見て周り、最終的に一般開放された屋上に落ち着いた。もう秋の風が吹いている。
この町を見渡せるこの場所で、青嶋君は何を考えているんだろう?
私は、ひどく不思議な気持ちだった。
私が毎日通っているアスファルトに覆われた通学路は、こうして上から眺めると非常に色彩に富んでいた。
「カラフルだね」
私はぼうっとその言葉を放った。
「アスファルトと地味な色の壁の家ばかりの町をこうやって見てみると、思ったよりもカラフルだね」
「もしかしたら、僕らもそうなのかもね」
「どういうこと?」
「毎日、一日一日はひどくありふれていたとしても、後で振り返ってみるとすごくカラフルな時間だったんだなぁと思えるからね」
さすが、と私は思う。
きっと私はこういう言葉を望んでいた。
そして彼はくれた。習った言葉で言うと、需要と供給かな?
「私のカラフルな一年は、青嶋君がもたらしてくれたんだよ」
「そっか……そう言ってもらえてうれしいよ」
「青嶋君が、私の毎日にエメラルド色を加えてくれた」
エメラルドの栞。
私はあの栞を大切に使っている。
ある時は小説に、ある時は問題集に。たくさんの本に、たくさんの日々に栞が挟まって色彩をもたらす。
「私はこの半年間を一生忘れない」
「僕もだよ」
僕もだよ。また、この言葉。
この言葉は私を惑わす。私がここで「大好き」といったら、「僕もだよ」と返してくれるのだろうか? 試したい、けれども言うべきではない。きっと今の彼は、私を必要としていない。
彼に迷惑はかけられない。
私は、私の感情を押し殺すしかなかった。
きっとこれがドラマなら、私はそっと彼の手を握って、そっとキスをする。あるいは彼がそっと私を抱き締めてくれる。
でも残念ながら現実はうまくいかない。第一、周りには他の生徒がいる。
それでも私の中のナイーヴな何かは、それを期待している。期待しているから胸はドキドキしているし、彼の目を直視できないのだ。
永遠に続いて欲しいこの時間は生徒会役員の「体育館に集まって下さい」という無感情なアナウンスによって閉じられた。
「行こうか」
「……うん」
これで、私の中の「何か」が終わった。
これからみなさんは受験生の自覚を持って、勉学に勤しんで下さい。
楽しいイベントの総てが終わり、また「学校らしさ」を帯びた日々が始まった。
後期の委員会役員が発表された。私は再び図書委員となったが、青嶋君は学業を理由に辞退した。代わりに図書委員になったのは小林という酷くつまらない男で、貸し出し当番中はずっとカウンターで寝ていた。
十二月にもなると教室がぴりぴりしてきて、みんなの口数も減ってきた。青嶋君と交わす言葉も少しずつ減っていった。
それでも私の恋心は冷めなかった。
むしろ、減った会話一つ一つが価値を帯び始めてきて、愛しさは増したように思えた。
その頃になると私の成績は安定してきて、ついに二十位という大台に乗ることが出来た。そして青嶋君は五百点満点中四九六点というとんでもない成績を残した。
その点数を聞いた時、私はすごく誇らしかった。彼との差は開く一方だったけど、むしろその方が私は幸せだった。
年が明けた。新しい年は私に小さな奇跡をくれた。
席替えの結果、見事私は青嶋君の隣の席になった。
それは飛び上がるほど嬉しかったが、同時に彼の足を引っ張ってしまわないかが不安だった。
また一緒に勉強をしたかったけど、彼は優しいからきっと私の事をずっと気にかけてしまって、自分を蔑ろにしそうだから止めておく。
ものすごくもどかしいけど、我慢しないといけない。
それでも、毎朝「おはよう」を交わせることが私を幸せにしてくれたから満足しているわけで。
授業中、右を向けば好きな人がいる。
それはすごく幸せなことだった。
英語の授業で趣味や好きな音楽について英会話したり、美術でお互いの似顔絵を描いたり(青嶋君は絵も上手い)、夢のような時間が流れた。
もちろん、そんな夢はあっと言う間に終わる。
今別れの時 飛び立とう 未来信じて
弾む若い力信じて この広い 大空へ
桜の気配を感じる三月。私は東京へ受験に行く彼に短い手紙を綴った。テストが終わったら見て、と言葉を添えて、その想いを託した。
青嶋君へ
テストお疲れ様! 青嶋君ならきっと合格間違いなしだね。
一年間、青嶋君のおかげでとても楽しかったです。
もらった栞は大切に使っているよ。一生の宝物にします。
帰ってきたらすぐ卒業式で、もう会えなくなっちゃうのが淋しいから、こうやって手紙を書かせてもらいました。いや、これは言い訳になっちゃうね。きっと面と向かってだと言えないようなことを伝えるために、手紙を書いたのです。
私は青嶋君みたいにたくさんの言葉を知らないし、こういう時にどんな言葉をどんな構成で綴ればいいか分かんないので、きっと「私らしい」書き方をするしかないんだと思います。
私は、青嶋君のことが好きです。とても。
多分、もと書きたい事はいっぱいあるけれどうまくまとめられないので、この一文にさせてもらいます。
でも、もう一回だけ。好きです。
真珠
その拙い文章を私は何度も読み返し、そして渡した。
私自身の入試が迫っていることもあり、数日間は心臓の音がうるさい日々を送った。
卒業式当日。
昨日の夜に帰ってきたという青嶋君は少し疲れが残る様子を残しつつ、目は自信に満ちていた。きっと、上手くいったんだろう。
私の入試もバッチリだった。自己採点の結果も、少なく見積もっても八割は取れたと思う。
あとは、卒業するだけ。そして、青嶋君から答えをもらうだけ――。
『旅立ちの日に』を歌い終え、最後の学級活動。
私は隣に座る男の子の事を見ることが出来なかった。
今日は私がずっと恐れてきた別れの日なのだ。それなのに私の心はひどく落ち着いていた。
なんだか明日もこうして、学校に来そうな感じがした。
私はまだ若かったのだ。
この「卒業」という言葉がどういう意味を持つのか、私はまだ理解していなかった。
もう、会えなくなるのだ――。
やがて「最後」の学級活動が「終わった」。
玄関を出るとたくさんの在校生に迎えられ、まるで私が何か大きなことを成し遂げたような気になった。
お祭り騒ぎの中、私は彼の姿を見つけた。
「青嶋君っ」
彼は私を見るなり、小さく微笑んだ。
「図書室に行こう」
彼はそう言った。
半年ぶりに青嶋君と入る図書室はとても静かだった。
二人は何も喋ることなく、それぞれのカウンターについた。
少しばかりの沈黙が訪れる。窓からは卒業生のはしゃぐ声が響いて入ってくる。
「入試、どうだった?」
やっとの思いで私は沈黙を破った。
「普通かな」
私は笑ってしまった。彼が「ふつう」と言ったらそれは九割五分の自信があるということだ。
「真珠は?」
「普通かなっ」
この穏やかな時間がまたやってきたことを、私は感謝した。
「あのさ」
彼はそう言った。私はドキリ、とした。
「手紙、ありがとう」
「あ……うん」
ドキドキ。私は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「この試験を乗り切れば真珠からの手紙を読めるって思ったら、テストは案外楽に終わったよ」
私は泣き出しそうだった。
「すごく、真珠『らしい』手紙だった」
「あ、の、その……私、青嶋君のこと、好きです。手紙でも書いたけど、やっぱり直接言った方いいかなってずっと……」
彼は少しの間をおいて、こう呟いた。
「僕もだよ」
私は、幾度となく聞いたその言葉を反芻した。
「僕も、真珠のことが好きだよ」
彼は、そう訳した。
「合格していたら僕は見知らぬ地の見知らぬ学校で、たくさんの知らない人に囲まれることになる。そんな時、僕は真珠が僕の恋人であってくれたら、とても心強い」
いつもの「青嶋君の言葉」でそう綴った。
「いや。真珠の言葉を借りれば、これは言い訳になっちゃうってことかも知れない。僕は真珠が好きだ。恋人になって欲しい」
ずるい。ずるいよ……。
私は今日ずっと溜めていた涙が溢れるのを感じた。
ふわりと風が私たちの間を通り抜けた。
喫茶店で名前の知らない素敵なクラシックを聴いていると、青嶋君がやってきて、ごめんごめんと小さく謝った。待ち合わせ時間よりも二分早かったけど。
「遅れてきた罰として、青嶋君から発表してよ」
今日は、私たちがお互いの合格発表をする日だった。
彼は滑り止めで県内の高校を合格していた。つまり、彼が不合格なら、私たちの別れはやって来ない。
でももちろん、私は彼の合格を祈っていた。
「合格だったよ」
その唐突な一言に、私は目元が潤むのを感じた。
最近、青嶋君のことになると涙腺が脆い気がする。
「もちろん、私も合格だよ」
私は小さく強がった。
そして二人でおめでとう、と言い合った。
「ねえ、真珠」
「どうしたの」
「僕、東京に行くのやめようと思う」
「ど、どうして……?」
彼は答えなかった。きっと、言葉にしなくても分かるから。
「そんなこと言っちゃだめ」
きっと私はこの先、この言葉を後悔する。
「淋しくないの?」
「淋しいよ」
彼はいつになく弱気だ。
「私だって、嫌だよ。青嶋君が東京に行くって聞いた時はすごくショックだったよ。でも、私は応援するって決めたの。だから、行くといいよ」
「でも……」
「私は、頭が良すぎて東京に行っちゃうような青嶋君が好きなんだから」
彼は――笑った。
「真珠らしい」
私も笑った。少し、淋しい笑みであった。
別れの時は、刻一刻と近づいていた。
その日、私たちは小さな雑貨屋でおそろいの指輪を買った。
私がコーラル(珊瑚)ピンク、青嶋君はパール。お互いの名前が冠された指輪。
「これで、いつも真珠と一緒だ」
彼はすごく嬉しそうだった。私も、その倍くらい嬉しかった。
私たちは、あの公園にいた。
彼が手を握ってくれた、私の思い出の公園。
あの日のように、二人並んで座る。
あの日と違うのは、今は私たちは恋人同士だということ。
「ねえ、真珠」
「なに?」
彼は何も喋らなかった。私は、次の言葉を待った。
きっと、彼も別れがつらいのだ。
このまま、二人でどこかへ逃げ出してしまいたい。
何もかも捨てて、二人で――。
強い風が吹いた。そんなこと考えるな、とお怒りのようだ。
「青嶋君、向こうで浮気しちゃだめだよ?」
私はこうやって、重い世界を和ませることしか出来なかった。
「もちろん」
彼は笑ってくれた。
「真珠こそ、変な男の人について行っちゃだめだからね」
「何言ってんのさ。私は、青嶋君一筋だから」
穏やかで、何もない時間。
そんな時間こそ、世界で最も大切な一秒なのだろう。
私たちはもう一度、笑った。そしてあの日のように、手を取り合った。
「じゃあ、行くね」
「またね」
私たちは泣かなかった。
四月になり、私は高校生になった。
いくら地元と言えども、クラスには知らない人が溢れていた。
名前が読めないクラスメイトはいたが、「名前」として読めないだけで、ありきたりな人で埋めつくされていた。
そっか、ようやく気づいた。
このクラスに、青嶋君はいないのだということを。
私は文芸部に入部した。
活動場所が図書館で、たくさんの本を読める、もといエメラルドの栞に旅をさせることが出来ると考えたからである。
それに、小説の執筆にも興味が湧いた。
私も、何かを綴ってみたかった。
始めは文章も拙かった。主語と述語もうまく使えなかった。それでも、必死に何かを描いた。
何かに打ち込んでいないと、自分が淋しさを抱いていることに気づいてしまうのが怖かったのかも知れない。
ある時は指輪を見て勇気をもらう。ある時は指輪を見てもどかしさを思い出す。
怖くなったら、青嶋君にメールを送った。
今日はこんな本を読んだんだよ、今日はソクラテスを習ったよ、今日は何を食べたよ……。他愛もなく、それでも空白を埋めるだけの短文。
青嶋君も、たまにメールをくれた。微分方程式の面白さ、ドイツの経済成長、あと駅で芸能人を見かけた話。私たちはささやかな文字でつながっていた。
「さみしくない」という六文字を唱える回数は少しずつ増え、少しずつ減っていった。
夏休みに会おうね、と約束すればもちろんと返って来た。
しかし数週間後に「夏にシンガポール留学が決まった」とメールが届き、私は泣きながらエールを送った。
彼はたまにだけど、「会いたい」と洩らす。その可愛さと儚さに私はドキドキする。けれども、それは叶わない。
改めて私は「卒業」の意味を知った。
夏も終わると、クラスの女子たちは「夏の思い出」を無神経に語る。
「カレと海に行った」だの「ファーストキスはレモンの味」だの、そのどうでもいい一つ一つのセンテンスが私を苦しめる。
青嶋君と会えない日々が半年続いた。
メールも減っていった。面倒なわけではない。もうメールでは伝わらない程、想いが募ったのだ。
夢に彼が出てくる頻度も増していった。
夢、と言えば以前「青嶋君が夢に出てくる日が増えてきた」といったら彼は面白い話をしてくれた。
「今は夢に好きな人が出てくると、自分がその人のことを想っていると解釈していたけど、平安時代は全く逆だったんだ。好きな人が夢に「来てくれた」と考えられていたから、好きな人が夢に出てこないという事は逢いに来てくれない=想われていないということになったんだ。平安風の解釈をすれば、僕は君に毎晩逢いに行っているってことになるね」
すごく素敵な解釈だね、と私は返した。
私も、彼の夢の中に入りたい。夢でいいから、逢いたい……。
ある日の夢で、私たちは中学校の図書室にいた。
私が高いところの本を取ろうと手を伸ばすと、青嶋君はそっと手を伸ばし取ってくれる。
ありがとう、見つめる二人。
彼は本を片手に持ったまま、そっと顔を近づけてくる。
ちゅっ、と唇が重なる。
それは非現実的で、リアルな温かさを帯びていた。
体中が熱くなる。そこで目が覚める。
背中にひどい汗を感じる。
逢いたいよ……。
冬休みなら逢えると思っていたが、意外と私もほぼ毎日のように補講やら模試やらで潰された。あっという間に年も明け、年賀状に微笑んでいたその頃、「春休みなら逢えそう」というメールが入った。
ついに、待ちに待った、様々な言葉が私を彩った。
まず何て声を掛けよう。何から話そう。でも、最初は彼に抱き締めてもらいたい。二時間でも三時間でもそのままでいて、それからゆっくりと言葉を交わそう。この前彼に薦められて読んだ小説の話を、コーヒーと共に語ろう。あたりが暗くなってきたら、私からキスをしよう。最初は触れるようなフレンチキスを。
彼に求められたい。私を、一年の空白を満たして欲しい。
それからの二ヶ月は縄文時代からバブル崩壊までの歴史よりもきっと長かった。授業中、時計の針はハシビロコウよりもダイオウグソクムシよりも動かなかった。
眠れない夜は続いた。夜、おなかが減ってチョコレートを食べるとそれが習慣となって、繊細な私の身体は数キログラムの重みを増した。たった数メモリ針が傾いただけでも私の心はひどく落胆し、ストレスでニキビが出来た。ダイエットをしようと焦った私は昼食を抜いてみたものの、英語の授業中に倒れるように眠ってしまった。
自然体でいようと思う程に私は空回りを続けた。
おかしくなりそうな私の暴走を止めたのは、やはり彼からのメールだった。
「逢えるのが待ち遠しいな。早く二月が終わればいいのに」
彼も、楽しみにしている。
ただそれだけで私は眠りにつくことが出来た。
二月は毎年二月と同じ速度で終わった。ニキビは消えたが、体重は戻らなかった。
やがて学年末試験も終わりかけの頃、彼からのメールが入った。
正直、私は不安になった。よい知らせではない気がした。
今度はフランス留学? それともハーバード? 青嶋君の事だから火星留学とかかもしれない。あるいは松下村塾かな。
ドキドキして開いたメールはこうだった。
「新幹線を予約した。十六日の午後三時二十分、駅で会おう」
私は何度も読み返した。読み直したら、火星留学という単語にすり替わってしまうことを恐れたが、案の定文字列は一文字たりとも変わらなかった。
ついに。待ちに待った。二ヶ月前のあの高揚が再び私を襲った。同時に、不安になった。本当に、会えるだろうか?
私は既に、彼とは永遠に会えないような気配を感じていた。今回の話も、きっと流れる。そんな嫌な予感は私をじんわりと侵していった。
三月十七日は、青嶋君の誕生日だ。彼に贈るプレゼントを決めるのに、私は三月の上旬を費やした。身につけるものがいいかな、腕時計とかどうだろう。一人暮らしは淋しいだろうから、何か楽しいものを……流しそうめんキットとかどうだろう。
結局、悩みに悩んで私は白いパーカーを買った。胸には緑の本のようなものが描かれていた。よく分からなかったが、なんだか彼に似合いそうだった。
そしていよいよ十六日。私は一時間早く駅に着いた。
左手には、コーラルピンクの指輪。一年間、私を守り続けてくれた。いつだって、そばにいてくれた。
私は今にも吐き出しそうだった。おなかのあたりがぐるぐると、これから起こる未来に震えていた。
あと五十四分三十秒で会える。
あと五十四分二十五秒で会える。
早く会いたいな。早く会いたいな。
本を読もうとしたが、心臓がうるさくて集中できない。世界は明るかった。いつもと違う駅にいる気がした。
あと五十二分十七秒で会える。
改札口からたくさんの人が流れてきた。
三時二十一分。ついに電車が到着した。
私は青嶋君の姿を探した。しかし、どこにもいなかった。
何度も時間を確認した。何度も電話したが出なかった。すぅーっと、私は体が透けていくのを感じた。
どうしよう。どうすればいい?
何が起きたの? どうしたの?
私は呆然と立ちつくすことしか出来なかった。
次の新幹線にも彼は乗っていなかった。
私はとぼとぼと、家に帰った。
テレビではなにやら大きな事故について速報が流れていた。
東京駅に向かうバスが居眠り運転のトラックとぶつかり、横転。
死者も多数。本日午後十二時七分。私には何のことだかさっぱり分からなかった。
それでも頭の奥が死んでいくのを感じた。
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「ねえママ、ママの大切なものって何?」
「どうしたのいきなり」
「学校のしくだいで、お母さんの大切なものを聞いてこいって」
「それはもちろん、翡翠とパパに決まってるじゃない」
「あたしとパパっていうのはだめ。人じゃだめなんだって」
「厳しいね。じゃあ、栞かな」
「あのエメラルドの?」
「うん。あの栞をたくさんの本に挟んだの。とーっても、たくさんの。思い出がいっぱい詰まっているの」
「すごいね!」
不意に電話のベルが鳴った。
「もしかして、ママ……」
「そうかもね。ドキドキするわね」
女性は立ち上がり、受話器を取った。
「ママ、どうだったの?」
「直木賞、とったよ!」
「すごい! やったね!! パパにも伝えなきゃ!」
「良かった……良かった……。パパのおかげだよ」
「ママおめでとう!」
「ありがとう、翡翠」
次の日の新聞にて、素敵な物語は小さく称えられていた。
第○回 直木賞受賞作品
『The emerald bookmarker』
作者 青嶋 真珠
おしまい