一日の始まり
「…よし」
テーブルに揃った食事を見ながら、朔夜は満足そうに頷く。料理を覚え始めてからまだ日は浅いが、生活能力皆無の同居人に比べれば幾分ましだろう。着ていたエプロンを外すと、キッチンシンクの右壁のフックにかけた。同居人であり、家主でもある彼は、今日も工房兼自室から出てこない。寝ている場合もあれば、作業に没頭しすぎて夜を明かしてしまっている場合もある。どちらにせよ、食事は取ってもらわなければならない。部屋の前に行くと、扉をノックした。
「フラン、フラン。朝ですよ、とりあえず食事を取りましょう?」
声をかけてしばらくすると、部屋の中で人が起きだす気配がした。どうやら、今日はしっかり睡眠をとったようだ。ゆっくりと目の前のドアが開き、顔を出した人物に朔夜は思わず噴き出した。
「…おはよう。どうした」
寝ていたといってもどうやら着替えずに寝たらしくシャツは皺が目立っていたし、ズボンもよれよれだったが何よりいつもは真っ直ぐでサラサラなフランの髪にはきれいにカーリングされた寝癖が二、三本束になって出来ていた。目じりに浮かんだ涙を拭いながら「とりあえずご飯にしましょう」とテーブルに戻った。
数週間前に朔夜がこの家の持ち主、フランに拾われた時にはここまで穏やかな日々を送れるようになろうなどとは思ってもみなかった。
時間は数週間前に遡る…
フランは、丸椅子に小さく座っている少女を見ていた。今は男物のシャツとズボンだが、先ほどまで少女が着ていた服は到底見慣れぬものだった。頼りなさげにフランを見つめる少女に、ついこの家に住めばいいと言ってしまっていた。朔夜と名乗った身寄りもないたった一の少女に、昔の自分を重ねたからだ。当の朔夜といえば、こんなにありがたい申し出は無かった。ここがどこかも分からない状態で放り出されたら餓死しかねない。願ってもない、とフランに向かって何度も頷いて見せた。
朔夜は、自分のことはそこまで話さなかった。異世界から着たかもしれないという仮定を、本当のところで信じたくなかったのかもしれない。フランも、深く追求はしてこなかった。それが、朔夜にとってはとてもありがたかった。
その日から、意外なほどにあっさりと同居生活は始まった。まず、フランは朝が弱いことを知った。日柄一日中工房兼自室に籠りきりだから、生活習慣も正しいとは言えない。いったい今までどうやって生きてきたのかと思わずにはいられない生活スキルの無さにただただ最初は呆気にとられた。そして、その頃に知ったのだが、テーブルやら棚やらに無造作に置かれている四角い箱らはすべてオルゴールだったようだ。オルゴールにも様々あり、探してみれば宝箱の様であったり普通の小物入れの様であったりというようなものもあった。フラン自身に聞いたことも相俟って、彼がオルゴール職人と呼ばれる人であったこともわかった。
それからこの家でのいくつかの役割分担が成された。朔夜は主に家事を担う。食事を作るのもその一環だ。そしてフランは買い物などの外に出る役割。しかし、フランは生活能力は低いなりに朔夜を手伝おうとするので、家事は共同といったほうがいいのかもしれない。
目の前で食後の紅茶を嗜むフランをこっそりと盗み見ながら、朔夜は今日という日の穏やかな始まりを感じていた。