雨
その日は土砂降りの雨だった。
一人の少女が玄関に降りてきた。肩につくくらいの黒髪に、同じ色の瞳をした一般的、または優等生と呼ばれるような模範的な姿。下駄箱の蓋を開け、靴を取り出す。下駄箱の下方には藤月 朔夜と名前入りのシールが張ってある。
雨のせいか、まわりはとても静かだった。雨音以外の音はすべて掻き消されていくかのようにも感じられる。周りに人がいないのも要因かもしれない。誰もいない校舎の中、朔夜はずっとホッチキスと格闘していた。決まった時期に開かれる会議。毎年同じ書類を配られ、運がないと残りの細かな書類を整理させられる。今日はそれが朔夜だった。
朔夜は持っていた委員会の書類を見ながらため息をついく。本当に毎年変わらない、何のために配られるのかもしれない書類。生徒会役員に配られる、年間行事をまとめたもの。それを乱雑に鞄に仕舞うと、水玉模様の傘を傘立てから抜き取り、外に出る。ボタン式の傘を開くとバサリと大きく音が鳴った。校門を通り抜け、並木道に出る。
激しい雨音が傘を打ち付ける。いつもは少ないながらもたまにすれ違う人は、今日に限って誰もいなかった。台風の時のような雨だ、好んで外には出たくないだろう。
並木道を抜けると、高いビルが並んだ交差点に出る。信号を待っている間に、肩にかけていたイヤホンを耳につけた。音楽機器のスイッチを押せば、落ち着いたクラシックが流れ始める。朔夜はほっと息をつき、同時に友達の苦笑した姿が浮かぶ。確かに珍しいかもしれないが、クラシックが好きな人は多いはずだ。いつか、同じ趣味の友人が見つかればいいと思う。
道路はいつも車の音や人の喧騒で騒がしい。騒音よりも、できれば静かな曲を、朔夜は聴いていたい。もともと学校へも徒歩通学だったし、なんら問題は無かったはずなのだ。
しかし、今思えばそれが運の尽きだったのだろう。
青に変わった信号を見て一歩踏み出す。その時イヤホンをしていても聞こえる、耳を劈くほどのスリップ音が鳴り響く。横を確認する間もなく、体が飛んだ。
反動でイヤホンが外れる。誰かの甲高い悲鳴が聞こえた。体が地面に打ち付けられる感覚。次第に、その感覚は引いて行った。視界の端に、不自然な角度で車が止まっている。体はもう動かなかった。いまだ残る意識だけが、状況を冷静に解析している。
死んでしまうのか。掠めた思考は、あまりにもあっけない。趣味の合う友達はもう探せないなと、呑気にそんなことを思った。やがて残っていた意識が、だんだんと薄れていく。最後に残ったのは、もうこれであの居心地の悪い家に帰らなくて済むという、安堵だった。
激しい雨粒が体に当たる。痛いと感じて体を起こした。何があったのだろう、今まで何をしていたのだったっけ…?
ぼーっと周囲を見回しても何もない。ただ鬱蒼とした森に通る一本道にいた。
右を見ても木。左を見ても木。背の高い木々は均等に日の光を浴びるように配慮されているかのようにある程度の間隔をあけて立っている。人口の森だろうか…?しかし、今自分が座り込んでいるこの場所は一本の道ができているかのように何もない。そのため、遠慮なく雨は体に当たり続けた。
頭が回らず、ただ地面に目線を落とす。地面に投げ出されている音楽プレーヤーが目に入り、咄嗟にイヤホンを本体に巻き付けてポケットに仕舞った。雨に直接晒されるよりはましだろう。
そこでやっと、薄ぼんやりと頭にかかっていた霧が晴れて意識もはっきりしてくる。自分の体を見回しても、どこにも怪我をしていない。おかしいな、と首をひねった。確かに車に引かれたはずなのに。
痛みはあるが、それは引かれた痛みでなく雨粒が勢いよく当たるせいだ。
持っていた鞄も傘もなくなっている。持っているのは、身に着けていた音楽プレーヤーだけ。
地べたに座り込んでいたせいか、服も体も泥だらけだ。思わず顔を顰めたところで、唐突に体に雨粒が当たらなくなった。
代わりに、雨が傘に当たった時にする独特の音が周りにこだまする。
「風邪をひくぞ」
耳に心地よい、少し低めの落ち着いた声に顔を上げ、息を呑む。
目の前に立っていた男性の瞳は深海のように深い蒼だった。今まで不鮮明だった視界が、急にピントがあったような、そんな衝撃を受ける。それほどに美しく、鮮明な色だった。