第九話「閑話・現実での親子喧嘩」
私には好きな人がいます。
その人は、私が初めて恋をした人。
同時に、初めて私を認めてくれた人。
でも、彼はいつも危なっかしい。
皮肉げに微笑んでいるけど、彼の心の弱さはいつ見ても痛々しい。
まあ、そんな所も含めて、私はあの人が好きなんですけどね。
◆◆◆
――早く助けてくれ
いつもは冷静な先輩が、珍しく取り乱していた。
しかも生半可な慌て方じゃない。
クモの子をまき散らしたかのように狼狽していたのだ。
……先輩が、慌てる。
それはおかしいなぁ。どうも釈然としない。
だって先輩は、「今日が地球最後の日ですよ!」と言われても、「ふーん、それで?」って切り捨てながら明日の番組表をチェックするような、くーるびゅーてぃなはずなのに。
人を錯乱させるのがお仕事の先輩が錯乱してしまっては、本末転倒というものでしょうに。
盗聴器の開発の依頼は急いでいないって言ってたのになー。
だから慌ててる要因はその事じゃないと思うんだけど。
先輩が鬼気迫る勢いで「来てくれ」というからには、それ相応の事情があるはず……。
はっ!
これはもしかして、何も理由がないけど来てくれ、ということか。
……なるほどなるほど、人を拒み続けてきた先輩が、遂に愛に目覚めたということか。
そして栄えある相手が私と。すごい、それはすごい。
もう毛利の矢とか抜きにしても先輩の元へ行かなくては。
「あのー……。甘屋主任?」
うーん、でもなー。
先輩は大人しいとはいえ男性だし、何か間違いが発生する可能性も否定出来ないし……
嫁入り前の私が男性の家に行くって言ったら、お父さんがなんて言うかな。
絶対怒るんだろうなー。
おじさんの家に行って発明の勉強をするって言った時も良い顔はしなかったし。
心が狭いんだよねお父さんは。
「あ、甘屋主任ー」
でも、ここで試されてるのは私の意志だよね。
研究に没頭している最中の私を呼ぶくらいだから、相当困っているはず。
そしてそれ以上に寂しがっているのかも。
人に興味を示さなかった先輩が、ここで快方に向かってくれるというのなら。
私は喜んでこの身を犠牲にする所存だ。
そんなことをしたら、怒ってるお父さんを見ることになりそうだけどね。
でも、困ってる先輩を見捨てる方が100万倍嫌。
そうと決まれば、急がなくちゃ――
「あ、ま、や、しゅにーん!? 聞いてますかー!?
僕の影がそんなに薄いんですかー!?」
400度に熱した鉄板を持って振り向いた私と、
バイトで雇っている助手が痺れを切らして近づいてきたのは――同時だった。
私が唸りを上げる灼熱のアイロンを振りながら回転する。
すると、いつの間にか背後に居た助手(国立大学工学部の赤間関くん)が悲鳴を上げた。
「ちょっ!?アイロン持ったままじゃ危な――ほぅあああああああ!?」
あ、本当だ。
もう少しでアイロンプレスする所だった。
顔に鉄板押し付けてしまいかねなかった危機は、赤間関くんの横っ飛びで回避された。
――もっとも、その後の危機は回避できなかったみたいだけどさ。
「はぅあ!? あべしっ、ひでぶっ!
い、痛いぃぃ! 何でサボテンがこんな所に!?」
棚の上に置いていた物品。
薬品の材料として買っておいたテキサス州直送のサボテンが、赤間関くんの頭上に降り注いだ。
「痛ぇ! 思ってた三倍痛い!
棘が背中の中でぎゃぁああああああああああ!」
乱舞する棘が彼の白衣を引き裂く。
名も知らぬサボテンたちに蹂躙されている赤間関くん。
彼は涙目になりながら転げまわっている。
凄く……痛そうです。
このままでは白衣が赤く染まりかねない――
そう本能的に感じたのか、赤間関くんは白衣を脱ぎ去り、刺さりまくる棘を引き抜いていった。
おお、迅速な判断によってかすり傷で済んだみたいだ。
惜しいなー、今度はアナコンダあたりをそこに置いておくと面白いかもしれない。
「どうしたの? 赤間関くん」
研究室の床に這いずる赤間関くんを覗きこむ。
すると、彼はポケットから何かを取り出した。
それは凄く小さな鉄片――精密機械に使用する部品のようだ。
「こ、これ……。盗聴器のスピーカー接触部分の部品が足りません。
買い足しておいたほうがいいかと……」
荒い息を吐きながら私に部品を手渡すと、赤間関くんはガクッとうなだれた。
ご臨終かもしれない。
一応十字を切って、私は部品を見てみる。
うん、結構専門的な部品だから、それ相応の店に行かないと手に入りそうにない。
引き受けている物品を完成させるのに必須のため、これはストックをしておかなければ。
「分かった。じゃあ赤間関くん。
ちょっと私急用が出来たから、それ買っといて。
明日の出勤の時に持ってきてくれればいいから」
私が彼の方をポンっと叩くと、赤間関くんは幽鬼のように顔を上げてきた。
……目が死んでる。やっぱりサボテンが痛かったみたいだ。
「今の僕の状態を見て、尚仕事を追加できますか……」
「うん。どうせ暇なんでしょ? 大学生って」
私も後二年すれば大学生だけど、いまいち大学生は忙しいイメージがない。
もちろん多忙な人もいるんだろうけど、私の周りにそんな人はいない。
というより、彼が難色を示すのは別の理由なんだろうけど。
「暇の問題じゃなくてですね……、まあいいけど。
今日はちょっと速いですが帰らせてもらいますよ。論文も書かなきゃだし」
「うん、ちょうど私も早めに切り上げるところだったんだ。論文がんばってね」
細やかに頷き、赤間関くんは疲労が染み込んだ身体に鞭を打って立ち上がる。
今までに雇った人は、みんな血反吐を吐いて3日で音を上げたんだけど、彼はかなり忍耐強い。
弱音は吐くけど不満は漏らさない、見所のある技術者大学生だ。
だからあんまり無理はさせたくないんだけど……作業の絶対量が多いので仕方ない。
その分給料も多くしてるから、彼もその辺は割り切っているみたい。
白衣をハンガーに掛け、彼はポーチをズボンに装着する。
お花見での酒宴帰りかと思うほどの足取りで、出口に向かう。
「お疲れ様でしたー……」
「帰り気をつけてねー」
手を幾度か振って、私も白衣を脱ぐ。
油が染み込んだ手を洗い、自宅に戻る。
この研究室は、おじさんが大学生時代に建てた研究室。
だから、研究に必要な物はあらかた揃っている。
おじさんは今も行方不明だけど、案外新しい発明の案でも探して、全国行脚しているのかもしれない。
お父さんもあんまり心配してないみたいだし、大丈夫だよね。
自分の部屋に戻り、外出用の衣服に着替える。
時刻は6時を過ぎている。
ご飯まではもう少し時間があるので、今のうちに先輩の様子を見に行くことにしよう。
ちょっとあの狼狽え方は気になった。
何かあったのかもしれないし。
紫色のうんたらとか言ってたから、ただ単に酔っていただけだと思うんだけど。
心配だなー。
着替えて玄関に向かおうと居間を通り過ぎた時、苛立ちの混じった声が聞こえてきた。
「どこに行くんだ茜?」
神経質な声は、お父さんのものだ。
新聞を読みながら横目で私の挙動を注視している。
「どこでも良いでしょ」
「良くない。飯までもうあんまり時間がないんだだ。
日が沈んだ後に出歩くのはやめにしろ」
これなのだ。
お父さんは心配症というか、自分の知らない所で物事が進んでいるのが許せない性分みたいなのだ。
おじさんに振り回されてきた下地があるからか、不審な行動には目敏いみたい。
「じゃあ匍匐前進で行くからいいもん」
「そういう問題じゃない!」
「もー……一々うるさいなぁ。まだ6時過ぎじゃん。大丈夫だって」
するとお父さんは新聞をくしゃくしゃに丸め、私を睨んできた。
膨らみのある柔らかい瞳のせいで、全く威圧感がない。
聖人がメンチ切っているみたいな表情になっている。
うん、例えが悪いかな。
「良いか? 世の中には危ない輩が星の数ほどいるんだ。
そんな連中にお前が絡まれてしまっては――」
「高圧スタンガンで悶絶させるから大丈夫だよ」
先輩が好んで使ってた道具だけど、元々は私が開発した物だから、私だって持ってる。
あれかなり危ないんだけどね。下手したら心臓止まっちゃうし。
「……相手が刃物のなんて持っていたらそれこそ――」
「亜硫酸砲を噴射するから大丈夫」
「スナイパーが超遠い所からお前の命を狙っていたら――」
「スナイパーとかいるわけないよ。
何言ってんのお父さん。妄想癖? やめてキモい」
「ここで素に戻るのか!?我が娘よ。
いやまあ……そうじゃなくてだな……あー、何というか。
――あの男は、本当にやめろ」
眉間に深いシワを寄せ、お父さんは苦渋の表情を浮かべる。
遠回しに言っても通じないことが分かったのか、直接的な言葉選びをしてきた。
「あの男? 誰のことかな。まさか先輩とか言わないよね?」
「そうだ、そいつだ。絶対に近付くな」
男、ダメ、ゼッタイ。
そんな標語が背景に浮かんできそうなほど、お父さんは辛辣に拒む。
手の中にある新聞を圧殺するかのように、拳を握りこむ。
「何でそんな事言うの?
先輩は私がいないと無茶するんだから、ほっとけないよ」
「馬鹿な奴はさっさと死なせとけば良いんだ。
あの男には黒い噂が立っているしな。
その火の粉がお前に振りかかると思うと不安だ」
私を心配してくれている、それくらいは分かる。
だけど、本当に必要がある時に行動ができないというのは、ただの害悪にすぎない。
私は両手を組んでより強い意思を示しながら、お父さんの言葉を否定した。
「噂を信じる人は、嫌い」
「……き、嫌い? 俺をか? い、いや、そうじゃなくてだなっ。
あの男は何人も人を騙しているという噂がゴロゴロと――」
「確証はないんでしょ?」
「……それはそうだが。でもな――」
言葉尻を濁して、お父さんは保留に持ち込もうとする
でも、こちらは急いでいる身。
話を切り上げるために冗談を抜きにする。
ワサビを抜かないと寿司を食べられないお父さん相手には、うってつけの方法かもしれない。
「お父さん、心配してくれるのは有難いけど、私行くよ。止めても無駄だからね」
「……言っている事が分からんのか」
お父さんは下をうつむいて残念がる。
落ち込ませてしまったのは悪いけど、今は先輩の所に行かないと。
「分かるよ。分かっている上で、私は先輩と親しくしてるの。
それにお父さん、何でお父さんが先輩を嫌ってるのか知ってるよ?」
「な、何だと?」
私の提言に、お父さんは狼狽える。
無理に落ち着こうとしてビールを一気飲みしたからか、咳き込んで新聞紙を台無しにした。
まだ私夕刊読んでないんだけど、まあ良いか。
「あれでしょ? 先輩の雰囲気がおじさんに似てるからだよね。
自分よりも程度の低い落ち零れだったはずなのに、大発明家になったおじさんを、お父さんは快く思ってないからでしょ?」
いつもおじさんの事について文句をいうお父さん――
おじさんの高校時代との共通点が余りにも多い先輩を快く思わないのは、ある意味仕方ないのかもしれない。
高校生時代の頃に、かなり煮え湯を飲まされたみたいだし。
「なっ!? ち、違う。
ただ純粋に俺はあの坊主が気に入らんというだけで――」
「うん。お父さんは気に入らないかもね。だけど私は気になるんだ」
「…………」
「止めないでね、これ以上言ったらもう朝起こしてあげないよ」
「…………むぅ」
お父さんは降参したように新聞紙を取り落とした。
黄色く染まった紙束は泡を立てながら、お父さんの敗戦を演出していた。
私はそれ以上は振り向かずに、玄関に出て靴を履いた。
開発で疲弊した脳裏に、先輩の言葉が浮かぶ。
それは――冗談と他愛ない与太話で埋め尽くされている先輩と私の会話の中で、珍しく出てきた本気の困惑。
――早く助けてくれ。
あんな事を言われては、行かない訳にはいかない。
先輩の事が気になっていては、何も先には進まない。
先輩、待っていて下さい。
あなたの婚約者が、今からそちらに向かいます。
さて、ガソリンがまだ残ってたかな。
そろそろ新しいのを入れないと、ポンコツエンジンがヘソを曲げてしまうかもしれない。
燃費の悪いスクーターを呼び起こそうと、私は外に飛び出した。