第六十五話「異世界問答」
まず空が見えた。
そのあと、空で無機質に輝くオーロラも目に入った。
幻想的な風景で、ここがこの世でないことは容易に理解できる。
さて、俺は一体どうなってしまったんだろうか。
やっぱり、全身に透明化が回って死んでしまったのだろうか。
なんだか水に浮いているような心地がするんだけど。
案外、三途の川を下っているのかもしれない。
虚ろな目で空を力無く見上げていると、涼しい声が聞こえてきた。
『――起きてください』
その声を聞いた時、なんだか引っかかるような違和感を覚えた。
どこかで一度聞いたような、そんな感じがするのだ。
神様という存在を半ば信じている俺からしてみれば、別に驚くことはないことではない。
しかし、残念ながら俺に声をかけてきたのは人間のようだった。
その声に応えるため、俺は喉から声を絞り出す。
俺の声はとても生身の体から発せられたとは思えない、妙に反響するものだった。
耳に優しいハウリングみたいだ。どうやら、この場所特有の反響現象らしい。
『……俺はまだ、生きてるのか?』
『はい、まだ生命活動は停止していません。
もっとも、このままだとすぐにあの世行きですけどね』
不吉なことを言ってくれる。
とはいえ、このままだと死んでしまうことも、なんとなく理解できた。
だって、あれだけの無茶をしたのだから。
その代償を払わされるのは当然のことだ。
だが、理解はすれど納得はしていない。
俺はこんな所で死んでいる場合じゃないんだ。
話しかけてきている人間の元へ、ゆっくりと顔を向ける。
するとそこにいたのは、やっぱりというか何というか――俺が苦手とする人物だった。
色々ありすぎて記憶の端に追いやられていたが、忘れるわけがない。
だって、この世界に来て初めて俺をねじ伏せたのが、こいつなんだから。
『ここはどこだよ、性悪巫女』
『失礼なことを言わないでください。私には椿という立派な名前があるんですよ』
ああ、やっぱりそうだったか。
俺が下山してこれからの方策を考えていた時、立ち寄った神社にいた巫女だ。
さんざん俺の生き方を否定して、風薫と出逢うきっかけを作った人物。
それが、どうしてこんな所にいるんだろうか。
『気になりますか? 優しい私が一つだけ助言をさし上げましょう。
ここはあなたの心象世界です』
『心象世界?』
『平たく言えば夢の世界ですね。
失いつつある存在を保管している、人間の生命の源泉です。
皆この世界を持っているんですけど、意識の底にあるので知覚できません。
ただ一つ言えるのは、この世界が壊れた時、あなたは真の意味で消失します』
『……消滅、するのか』
『おや、死ぬのが怖いのですか?』
『怖いよ、たまらなく怖い。
それ以上に、会いたい奴に会えなくなる悔しさに耐えられないんだ』
心情を吐露すると、椿は指をピンと立てて微笑んだ。
この空想的な世界によく似合う、空虚で美しい立ち姿だった。
『なら、死ぬわけにはいきませんね』
『――どうすればいい』
『え?』
『だから、言っただろ。俺は死にたくないんだ。
自分勝手な選択をしたが、結局のところ俺は自分の身が惜しい。
支離滅裂なことを宣っているのは自分でも分かってる。
だけど――俺は生きるんだ。この身体は、俺だけのものじゃないから』
『待ってくれている人が、いるのですね』
『多分な。俺はそう信じてる』
少なくとも、甘屋は俺を待ってくれていると信じたい。
もうこの世界に来てからかなりの時間が経ったが、あいつは元気なんだろうか。
俺と同じく社交的じゃないから、少し不安になってしまう。
一番不安なのは俺の今の境遇なのだが。
『死にたくない――ですか。
そう言うと思っていました。だから私はここにいるのです。
今に限って言えば、椿はあなたの手助けをするために存在しています』
『随分大仰なんだな。てか嘘だろ。
真面目な話、何であんたはここにいるんだ』
『あ、見破られちゃいました? まだまだ私も未熟ですね。
事実を言うと、紅葉に呼ばれてしまったんですよ。
日の本で双璧をなす巫女が力を合わせないと、神様と対等な会話ができませんからね』
『霊力を使ってするのか』
『それは紅葉流の説明ですね。まあいいですけど。その説明でいきましょうか。
私は『神託』・『未来視』・『訪夢』・『不老』・『読心』を使うことができます。
今こうしてあなたと会話ができるのは、私の『訪夢』のおかげですね』
全体的に弛緩したような笑みを浮かべる椿。
簡単に言ってくれるな。
つまりこいつは、人の夢に干渉することができるってことか。
巫女らしくない悪趣味な能力だ。きっと性格と密接な因果関係があるに違いない。
黙って首肯していると、椿の表情が一変した。
さっきまでの作り物らしき笑いが消え、真剣な眼差しになった。
『――本題に入ります。反逆人・伏見春虎。
神託によってこの椿が問います。あなたは、まだ死にたくないのですね?』
そう言い切った刹那――椿は全身から妙な湯気を発した。
あれが霊力なのだろうか。
夢の世界にいる間だけ、俺にも見えるのかもしれない。
そういえば、甘屋の伯父がそれとなく言っていたような気がする。
溢れ出る霊力は、人の中身を移す鏡だと。
こいつの湯気は、どこまでも透明に近い白色。
それが何を意味するかは分からないが、とりあえず神々しさをひしひしと感じる。
『ああ、俺は死にたくない』
『そうですか。ところで、今あなたの身体がどこにあるか分かりますか?』
『……石山城か』
『いいえ、出雲大社です』
『……誰が運んでくれたんだ?』
『あなたを慕う人達全員です。
もはや一刻の余裕もないあなたを消えさせまいと、不眠不休で運んでいました』
そんなことまでしてくれたのか。
そういえば、俺が元の世界に帰るためには、出雲大社に行かなきゃいけないんだったよな。
風薫とアヤメがそれを伝えて、みんなと協力して運んでくれたのだろう。
勝利に酔いしれる暇もなく、俺みたいな輩を出雲大社に運搬してくれたのか。
なんか、悪い感じがするな。みんなの手を煩わせてしまって。
『もはやあなたの身体は数分も持ちません。
その間に、あなたの意志を問い確認し、神々の怒りを収めます』
『……ごめん、何て言った?』
『あなたの身体は数分も持ちません』
『その後』
『あなたの意志を確認し、神々の怒りを収めますが……何か?』
『いや、何のためにだよ。何の意味がある』
またあの問答が始まるのか。
俺の精神を完膚なきまでに叩き潰すつもりなのか。
そんな事を邪推していると、椿は肩を竦めた。
『正直言って、あなたは異端であると認識されています』
『そりゃあ違う世界の人間だからな』
『そういう意味ではありません。
あなたの行動と意志が不可解すぎて、神々も困惑しているのです』
『すまん、相も変わらず意味が分からんのだが』
『一部の神様は、世界の変革をもたらす者はすぐに叩き潰せと仰っています。
その怒りが形となって現れたのが、あなたの身に起きた透明化です』
そう言って、椿は俺の身体を指さす。
今の俺の体に透過現象は見られない。
とはいえ、治ったわけではないのだろう。
それどころか、俺の身体の代わりに、この世界が緩やかに崩れていきつつある。
この大海のような川が無へと還っていき、天空は虚空に吸い込まれていく。
この世界が消えた時、俺は完全に無になる。
無。つまり死。永劫の空虚。
『――ですが、身体がそんな事になっても、紅葉が忠告をしても、あなたは自分の行動を貫きました。身体が消えて行くのも構わずにね』
『……それは』
『そうなると、神々の中でこんな声が出てきたんですよ。
『なぜあの男はこんな真似をする』
『身体が消えるのも構わず、どうして人を助けて世界を変えようとする』、とね。
要するに、普通の人間は萎縮しちゃってそんな行動を取らないんですよ。
これは恐怖でも侮辱でもない――純粋な興味から生まれた感情です』
神託を受けてか、椿は滔々と喋っていく。
俺がこの世界で為してきた行動について。
だけどそれは、見当違いもいいところだ。
俺に人を助けているという自覚はない。
ただ単に、必死にもがいていた結果、人と出会っただけなのだ。
『今は神在月。この出雲大社に全ての神様が集まっています。
なので、神様の意見を統合するいい機会なんですよ。
その上で、あなたの意思を問うのです』
『……俺の解答が気に召さないものだったら?』
『消えます。今すぐこの場で目覚めることなく永劫に』
一変の澱みなく、椿は宣告した。
彼女は俺の返答を待たずして、いきなり目を伏せ始めた。
神託とやらを使っているのだろうか。
この幻想的な世界にしばらくの沈黙が流れる。
だが、それもつかの間。椿は俺の眼を見据えて口を開いた。
『問いは一つだけ。
二度は言わないのでしっかりと聞き、あなたの心を聞かせてください』
今までにない反響効果を伴いながら、椿は審問を始めた。
『――あなたは誰ですか』
彼女はそれだけ言って、そのまま押し黙る。
どうやら、今の問いに全てが凝縮されてしまっているらしい。
俺の行く先と、俺の存在する意味が。
自分のことを自分で語れというのだろう。
しかも、偽りのない自分の本心で。
以前の俺なら躊躇したかもしれない。
だけど、今の俺は違う。もう迷わない。
何が大事で、何が俺なのか、それをこの世界に来て自覚した俺は――即答した。
『詐欺師の伏見春虎――』
そう言った時、椿の瞳の色が憐憫を帯びたものになった。
どうやら、神様の反感を買うような解答をしたと思っているのだろう。
これから死にゆく者を見るような、慈母染みた表情だった。
だけど、俺はお前の思うような人間じゃない。
俺が嘘をついても、『読心』を持っている以上こいつは看破するのだろう。
だからこそ、今の回答が俺の本心だと分かった。
分かった上でそれが神様の怒りを増長させるものだと理解した。
その上でこう思っているのかもしれない。『結局、変われなかったのか』と。
だけどな、椿。あと神様とやら。
人の心はそんな簡単なものじゃない。
『読心』なんて頭のイった能力一つで全てを把握できるほど、心は簡単じゃないんだ。
こいつと紅葉と相対して分かったが、『読心』は人の心を完璧に読めていない。
読んでいるのは思考なんだ。
心の奥底に潜む熱い想いまでは、汲み取ることができない。
だからこそお前は、そんな表情をしたんだろう。
結局ただのクズ人間だったと、そう思ったのだろう。
間違ってはいない。間違ってはいないが、少なくともこんな審判で試されるほど、俺の心を安いものだと思って欲しくない。
自分のことの未練なんて持っていないが、この想いだけは、絶対に否定することは許さない。
俺が何も言わないのを見て、椿は黙ってうなだれた。
そして、残念そうな顔をして宣告をしようとする。
『神の意志を代行し、伏見春虎に裁きを――』
『……はッ、はは』
だけど、それを遮る。
頭の悪い乾いた笑いで、その厳かな宣下をぶち壊した。
空気も読まず、展開も読まず、俺は笑っていたのだ。
気が狂ったと思われたのだろうか、初めて椿が俺を恐れるような挙動を見せた。
そろそろ韜晦はやめにしよう。
あんまり長引かせて、タイムアップの方で消滅したら目も当てられない。
俺は長考をやめて口を開いた。
『まだ俺の答えは終わってない。勝手に人を裁こうとするなよ』
『……そう、ですか。ならば続けてください』
『俺は伏見春虎だよ。詐欺師でも何でもない、ただの高校生だ』
『……しかし、先ほどは』
『卒業したんだよ』
『――え?』
俺の返答に、椿が目を丸くする。
どうやら、説明が不十分のようだ。
大事なことなので、俺は強調するように、決意を込めてもう一度言った。
『――詐欺師は卒業だ。でも辞めたわけじゃない。
詐欺師を終えて、俺は普通の人間として生きて行くんだよ』
そこで一回言葉を切る。
次の言葉で、俺はこの審問を終えるんだ。
一切の迷いも偽りもなく、目の前の椿と――どこかにいる神様に伝えよう。
お前は誰なのかという不躾な質問に、馬鹿丁寧に答えてやる。
今ここにいる俺が、誰なのかを。
『だから、俺は伏見春虎だ。それ以外の何者でもない』
俺は言い切った。
いつの日からか始まってしまった詐欺師としての人生。
あれからずっと言えずにいた、人と生きたいという心底の願望。
だけど俺は、もう決めた。もう迷わないんだ。
『これで俺の答えは――終わりだ』
俺の伝えるべきことは、もう何もない。
一人の人間が人間として生きる決意を、表明しただけだ。
これで神様とやらの怒りが収まらないようなら、もう万事休すだ。
しかし、俺に出来ることはやりきった。
一片の悔いもない。
眼の前で黙考する椿は、眉根にしわを寄せて考えていた。
しかし、不意に彼女は相好を崩し、高らかな笑い声を上げた。
『あは、あはははははは!』
『……な、何だよ』
『いえいえ、まさかそこまで真面目に答えて頂けるとは』
いや、お前が偽りの無いようにって言ったんじゃん。
何で笑われなくちゃならないんだ。
俺が疑念の眼を向けていると、椿はおかしそうにお腹を抑えて言った。
『本当のところはですね、今の問答に意味は無いんですよ』
『……は?』
『いえ、ですから今のは私が勝手に訊いた悪ふざけです。
放置しておくとあなたが消えることは確かですが、神様は別にもう怒っていませんよ』
何を言っているのか、良くわからない。
でもとりあえず、俺はこいつの手の平の上で遊ばされていたみたいだ。
俺は遺言にも似た必死さで答えたというのに、行き着くところが悪ふざけだと?
性格の悪さは底なしかこいつは。
『さんざん神様神様言っておいて、何なんだよ』
『確かに激怒していた神様もいたんですけどね。
あなたを取り巻く人間の様子を見て、一気に霧散したんですよ』
『……取り巻く人間? 風薫やアヤメのことか』
『はい。倒れたあなたを泣きながら、しかし諦めず。
何とか元の世界に返してあげようともがく少女たち。
散々争ってきた人々が、あなた一人のために結束したんですよ。
八百万の神々も、そんなものを見せられたら無下には出来ないですよ。
――私も含めてね』
『……お前、何者だ』
『巫女ですよ? もっとも、神社で祀られる側の存在ですけどね』
意地悪っぽく微笑み、椿は腰を上げた。
どうやら、問答とやらは完全に終わったらしい。
俺は結局最後までこいつの裏を掻くことが出来なかったな。
『さて、あなたの居るべき場所はここではありません。
聞こえるでしょう、あなたを想う人々の声が――』
そう言って、椿はパチンと指を鳴らした。
すると、一気に幻想世界が崩れていき、妙に明るい空が降りてきた。
そしてそこから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……起きてください、ご主人様ぁ!」
「元の世界に帰るって言ったじゃにゃいか!
ここで終わってどうするんだにゃ!」
「お前にも待つ者が居るのだろう。
その存在を悲しませぬために、さっさと起きるのだ凡愚! もとい春虎!」
「……神様、宇喜多の名など惜しくはありません。どうかこの青年をお助けください……!」
それは、俺の身体を案じてくれている少女たちの声だった。
才能と心情が乖離してしまった少女――風薫。
孤独と自己嫌悪に苛まれた少女――アヤメ。
他人と上手く接することが出来なかった少女――紫。
これからの天下を背負って立つ重責の少女――日和。
彼女たちの声が、痛いくらいにここまで聞こえてくる。
恐らく、意識を失っている俺の傍で祈ってくれているのだろう。
願っていてくれているのだろう。
声に涙を含ませてまでして、俺の回復を神様に頼んでいる。
ここまでのことをしてくれて、俺が応えないわけにはいけない。
『もう……行っていいんだな?』
『はい。どうか人々を幸せに。
八百万の神々の一人として、ささやかながら祈らせてもらいます』
椿は傍まで寄ってきて、俺の頭に手を置いた。
そして、まるで子供をあやすかのようにさすり始めた。
子供扱いをするつもりかと反駁しそうになったが、どうやら全く意図が違ったようだ。
徐々に意識が薄れていき、この世界が崩壊を見せるのがありありと目に入る。
どうやら、タイムリミットには間に合ったようだ。
そうだな、帰らないと。
俺の帰るべき場所は、もうすぐそこにあるんだ
『伏見春虎、今帰ります』
柄にもない、何年使ってなかったかも思い出せない敬語で、俺はそう言った。
意識がサルベージされて、徐々に表層に近づいていく感覚。
深海の中から浮上していく感覚が俺の身体を支配した。
もう少し、もう少しで海面だ。
もう一度やり直せるのかは分からない。
間違ってしまった償いを出来るのかも分からない。
だけど、それを見つけるために、俺は帰るべき所に帰らなければならない。
――だから
「……ぁ」
ぼんやりとした感覚。
まるで何百年も地中の中にいたかのような倦怠感。
だけど、俺の手を握ってくれている風薫とアヤメの感覚だけは、これ以上もなく本物だった。
俺が眼を開けるとそこには、眼を泣き腫らしながらも両手をあわせて祈ってくれていた、少女たちの姿があった。
「……心配かけて、ごめんな。だけど、もう大丈夫だ」
彼女たちが祈ってくれたおかげで、俺は戻って来れた。
この身体を侵してくる透明化を食い止めてくれた。
神様の怒りを鎮めてくれた。
そんな俺の全てを救ってくれた少女たちに、言いたいことがある。
今までに一度くらいは口にしたことかもしれない。
だけど、もう一度言いたいのだ。
ゆっくりと身体を起こし、出雲大社の天井を眺め、眼の前の少女たちに言った。
とりとめのない、ありふれた感謝の言葉を。
「――ありがとう、みんな」
この瞬間、俺の透明化が完全に止まった。




