第六十四話「終戦は眠りと共に」
――人が血を流す瞬間。
そこには一種の美しさがある。
こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、魔力じみた魅力が血には含まれているのだ。
だからこそ、武人が奮戦すれば周囲が沸くし、華々しい戦死を遂げた勇士は美化されて語り継がれる。
人が鮮血を迸らせる瞬間――それは散り行く花を想起させるのだ。
どうしようもなく取り返しがつかない刹那の時を見れば、多くの人がそう感じるのではないだろうか。
だから、銃弾が彼女の身体を貫通したのを見た時、俺は踏み潰される花を思い描いた。
喪失へと誘う死の弾丸が、女性の身体器官を、容赦なく撃ち抜く。
「……は、ははは! はは、これこそが完成されし混沌――」
だが、花というのにも色々種類がある。
弱々しくて風になぎ倒される花もあるだろう。
太陽の下で燦然と輝く花もあるだろう。
少しの病気にかかっただけで枯れてしまう花もあるだろう。
しかし、弾丸をその身に受けた女性は、そのどれにも当てはまらなかった。
将軍であると思われる、十二単を着た少女。
その少女の目の前に、誰かが立っていた。
被弾した脇腹から凄まじい量の血を流し、それでも将軍の眼の前に立つ女性。
野生を思わせる茶髪の髪と、漂わせる圧迫感。
背中に背負っていた大弓を両手に構え、彼女は己を攻撃した氷華に冷たい視線を向けていた。
そう、世の中には非常に多くの花がある。
だが、中には植物でありながら生物を喰らう、獰猛な花も存在することも忘れてはいけない。
それに手を出せば、凄まじい報復が待っている。
仁王立ちする女性は、後ろに将軍を隠しながら、静かに呟く。
「――一宮水仙、参上。
私の思い過ごしかも知れないが、氷華殿。
まさか今、上様に銃弾を打ち込もうとしていなかったか?」
「……ッ!」
そう言って、氷華を力の限り睨む。
いきなり登場した乱入者に、氷華はひたすら驚いていた。
しかし、混沌を招く野望が阻止されてしまったことに気づき、狂化していた心が冷静を取り戻した。
暴走しかけていた熱が冷え、将軍の弑逆に失敗したのだと知る。
「……なぜだ」
氷華は銃の先から上る硝煙を虚しげに眺めた。
乾坤一擲の将軍弑逆は、全く予想すらもしていなかった人物によって、阻害されてしまった。
しかも、今まで同じ勢力で戦ってきた同僚の手によってだ。
氷華はそのことを信じることができないのだろう。
落ち込むような低音で、水仙の登場を糾弾した。
「……なぜなんだ。
この戦いに傍観を決め込み、尻尾を巻いて逃げていたお前が、なぜ私の邪魔をする」
力無く呟く。
しかし、目の前にいる水仙は容赦がない。
腹部から流れ出ている血を強引に押し止め、背中に隠れる将軍を安心させる。
彼女は幽鬼のような表情で立っている氷華を前にして肩をすくめた。
「誰がいつ逃げたんだ。
言っただろう?私が動くのは『足利が存亡の危機に陥った時』だ。
貴様のような不穏分子が動くのを、見破れないとでも思っていたのか。
弓兵の洞察眼を舐めるなよ」
どうやら、水仙はこの戦いに参加していなかったらしい。
そう言えば、城から眺めていた時も、弓兵隊の陣頭を見た時も、どこにも水仙はいなかった。
足利家で屈指の実力を持った姫武将がいないことに、少しの疑問は感じていた。
だが、どうやらこのことを見越して、本陣に隠れていたらしい。
氷華が将軍を殺そうとする――すなわち『足利の存亡の危機』になった今、眠っていた獅子が動き出したのだ。
氷華は決して敵に回してはいけない足利の軍団長に、銃弾を打ち込んでしまったということになる。
「……だから、招集命令にも応じなかったのか」
「そういうことになる。まあ、もうひとつ理由があるけど、言う必要はないな。
これがなかったら、私はこの戦いに馳せ参じていて、上様を守ることができなかったかも知れない」
そう言って、水仙は首を俺の方に向けてきた。
そのまま好敵手を見る時のような目でウインクをする。
俺がした仕打ちを考えると、仕返しをされそうで怖いんだが。
どうやら、最初の出会いの時に、将軍が暗殺される未来をねじ曲げてしまったらしい。
水仙が将軍を守ろうとする行動に、俺が影響を与えてしまったということか。
あんなどうでも良さそうな邂逅が、こんな場所で効果を発揮するとはな。
まったく、人生は何が起こるかわからない。
「……うっ。……あ、あれ?」
勝手に感心していた瞬間、視界が揺らめいた。
まるで、世界が壊れていくような。
いや、違う。俺がこの世界から壊れて消えるような、そんな錯覚がする。
激しい動悸がして、この場に立っていられない。
「……なんだ、これは」
思わず膝をつく。
敵の本陣でとんでもない隙を晒してしまっている。
だが、氷華は俺を撃とうとしない。
水仙が睨みを効かせていて、動くことができないのだろう。
だが、そんな事を気にしている余裕はない。
どんどん意識が混濁してくる。
ヤバい、ここで意識を失うのだけはマズい。
この異常な不快感の原因を特定するため、俺は鏡を取り出す。
そして、一瞬にして理解した。今俺の身体に、何が起きているのかを。
「…………ああ、そういうことか」
俺の透明化が、首の上あたりまで進んでいた。
この透明化が全てを覆い尽くした時、俺はこの世から消滅するんだったか。
なんだ、俺の余命もうないじゃん。
どうやら、将軍の暗殺阻止に間接的に、関わったという判定が出たのだろう。
止めたのは水仙だが、そこにまで至る道を作ってしまったのは俺ってことだろうか。
随分厳しい判定をされるんだな。
「……っ! 大丈夫ですか、ご主人様!」
後ろから、痺れた体を引きずって風薫が歩いてくる。
まだ苦しいはずなのに、俺の身を案じてくれているのか。
風薫は俺の透明化が危険な水準をはるかにオーバーしているのを見て絶句した。
医者の例えを用いるなら、診察時に黙って首を振られてしまうレベルだ。
だけど、ここまで来たらもう引き下がれない。
それくらい、とっくに理解してる。
だから俺は、ここに来ることを選んだんだ。
奴を取り押さえるために、隙を作らせる。
そうやって早く幕を下ろすのに手を貸すことが、俺の出来る精一杯だ。
たとえその結果、俺がこの世から消滅したとしても。
膝をついて呻きながら、氷華に向かって話しかけた。
「松永氷華、もうやめにしよう。
今降伏してくれれば、命までは取らない。俺が口を利いてやるから」
「降伏? 笑わせるな。
かような辱めを受けて、ここで屈しろと?
下民が苦しまぬ未来など、私は認めない。
私はこの身が朽ち果てるまで、混沌を追い求める――」
氷華は意を決したように、大量の火種を銃身に詰め込んだ。
そして、将軍を背に隠している水仙に銃口を向けた。
まずい、説得は逆効果だったか。
こいつは、どうしようもなく自分の信念を折ろうとしない。
死んでまで将軍を殺す気だ。
「まずは貴様だ、水仙。将軍に狗として飼われた己を呪うがいい」
「私が狗か? 面白いな。
だけど、銃を向ける相手を間違っているんじゃないか?
「……なに?」
「お前が銃を向けているのは番犬じゃない。敵を食い散らかす狂犬だよ」
水仙はゆっくりと手に持った大弓を握る。
矢筒から一本だけ矢を取り出し、構えようとした。
まったく向けられている銃を気に留めていない。
まるで、お前など相手にしていない、そう無言で語っているかのように。
その様子を見て、氷華は吐き捨てる。
「その余裕が貴様の死因だよ。
無能な主人とともに消え去れ――水仙」
まったく氷華を意に介していなかった水仙。
冷たい表情をした氷華は、苛立ちに身を任せて――発砲した。
水仙は、すでに腹部に一撃を受けている。
しかも、今は矢を構えようとしている最中だ。
避けられるはずがない。
それ以上に、水仙は避ける気がないのだろう。
一歩もその場から動かずに、彼女は敵である氷華を見据えていた。
水仙を死に至らしめようと、弾丸が身を貫く。
胸の上当りを、容赦なく蹂躙した。
傍から見ていれば確実に致命傷だ。
俺も思わず目を逸らしかけてしまう。
しかし、結果から言って、その必要はなかった。
――被弾した水仙は、表情一つ変えずに立っていた。
発砲音に驚いた将軍を片手で安心させ、再びその前に立ちふさがる。
胸のあたりからは凄まじい出血が見られ、陣内の土を赤く染めていく。
二度にも及ぶ射撃。
それをことごとく耐えた水仙を、氷華は呆然と見ていた。
「……なぜだ」
銃を取り落としそうになっている。
一撃必殺であるはずの火縄銃の弾を、ここまで耐え切られてしまった。
あくまで己の邪魔をする水仙に向かって、氷華は叫び散らす。
「なぜだ! なぜ死なない! 今までの奴は、これ一発で即死していたんだ!
なぜ耐える! なぜ倒れない! なぜそこまでしてそのお飾りを守ろうとする!」
「聞くようなことか? その程度すら分からないのか。
お前には一生かかっても理解できないだろうけど。
私は死なないんじゃない。死ねないんだ。
この状況で上様を守れるのは私だけ。
ここで私が倒れれば、跡を継いでくれる者はいない。
だから、絶対に死ねないこの状況が、私を何度でも立ち上がらせてくれる」
水仙が凄まじい眼光を、氷華に叩きつける。
その瞳には確固とした目的と信念が見て取れた。
何度倒れそうになっても、やり遂げるまで絶対に倒れない。
どうやら俺は、とんでもない奴を詐欺にかけてしまっていたらしい。
水仙は内面も卓越している武将だ。
「――確かに今の世では、将軍という役職はただのお飾りなのかもしれない。
どこかの勢力に担がれるだけの存在なのかもしれない。
だけど、私はこの方が将軍だから仕えているわけじゃないよ。
私はきっとこの方が都落ちをしても、黙ってついて行くだろう。
それが忠臣としてあるべき姿だ。
私は当たり前のことを、当たり前にしているだけだよ」
「……もはや将軍が世を動かす時代ではない。世迷言を言うな」
「そうだな。よく世を治め、人民を平和に導いてくれる勢力。
そういう所に政治を任せるのが、本来は最適なんだろう。
だがな氷華。将軍が助けを求める勢力は、決してお前が率いる腹黒集団じゃない。
お前は人の上に立つ器ではない。
混沌を求めるその信念は、全てを破滅に導いてしまう」
「それが本望だ。
私の眼には遥か昔から混沌と破滅しか見えていない」
「そうか、なら最早何もう言うまい」
悲しそうに首を振り、水仙はゆっくりと弓を引いた。
彼女が身体に力を入れると、その度に身体から血が溢れ出る。
すぐに処置をしないと確実に危ない状態だ。
だが、そんな身体になってもまだ、水仙は将軍を守る。
背中で怯えている将軍は、水仙に生きていて欲しいのか、心細げに服を握っていた。
可愛らしい行動に、水仙は静かな頷きで返事を返す。
彼女は眼の前で銃を構える氷華に向かって声をかけた。
「もう一つ。私が何故死なないかなんだが。
私が倒れることができないから。
ある人物と戦いたくなかったから。
だけどその他に――あと一つだけ根本的な理由があるんだ。
それがなにか分かるか?」
「…………」
「簡単だよ。
混沌を招く者は、何かを必死に追い求める者を倒すことができない。
たとえ倒せれたとしても、それは肉体だけだ。
崇高な精神を折ることは絶対にできないんだ。
現に妹たちを守ろうとした善條が、お前を破滅に追い込む第一歩だったんだからな。
人の不幸を喜ぶお前が、私達のような人間を倒すことはできないよ」
「黙れ!」
もう話すべきことは何もない。
それを行動で示すかのように、氷華が照準を定めた。
狙いは水仙の頭部。一撃で生命機能を停止させる腹づもりらしい。
氷華の挙動に呼応して、水仙が弓を構えた。
この瞬間、俺はこの戦いの結末が見えていた。
列伝で比較するのはどうかと思うが、正直言って、この戦国で一宮を超えるような弓術を持つ人物は多くないだろう。
類まれなる弓捌きを見せる風鈴でさえ、一宮弓術よりは下だと断言するはずだ。
流派として使用される弓術は何よりも強く、何よりも怖い。
水仙の場合、俺との戦いをノーカンにしたら、恐らく一回も負けたことがないんじゃないだろうか。
だが、今の彼女は尋常でない傷を追っている。
ひょっとしたら、近代兵器である火縄銃に負けを喫することがあるかもしれない。
種子島を持って肉薄する氷華は、水仙が構え切るよりも前に照準を定め切った。
「……死ね」
再び死を予感させる発砲を行った。
狙いはドンピシャで水仙に向かって飛んでいく。
だが、その時水仙は信じられない行動をとった。
発砲を確認した刹那――何事もないかのようにただ弓を引き、氷華に向かって撃ち放ったのだ。
すると次の瞬間、鉄同士がぶつかり、はじけ飛ぶような鋭い音がした。
その一秒後、水仙は何くわぬ顔で立っていた。
頭部へと放たれた弾は、彼女に届かなかったのだ。
俺は驚きながらも、横目で水仙に確認した。
「……弾いたのか?」
「ほう? 見えたのか。
いや、無効化するにはこれ以外に方法がないから、その答えを必然的に導き出したのか」
「……そうだけど、いったいどんな精密さなんだよ」
俺と水仙の会話を聞いて、氷華は驚愕の表情となる。
常識で考えてありえないことが、眼の前で起こったのだ。
水仙がしたことは、言ってしまえば簡単である。
己に向かって迫ってくる弾丸に、正面から矢を放ち、あらぬ方向へ弾き飛ばしたのだ。
針の穴を通すようなとか、そんな次元ではない。
超高速で飛来する弾を矢で無効化するなんて、無茶苦茶すぎる。
水仙の妙技をまともに見て面食らった氷華。
彼女は急いで次弾を込めようと、必死に火薬を詰め込む。
だが、そんな彼女の行動を打ち砕くべく、一本の矢が空中を駆け抜けた。
それは一直線に氷華の首元を穿ち、一射貫通と言わんばかりに反対側から抜け出た。
何が起きたのか、氷華も俺も分からなかった。
「――一宮弓術・『飛燕』。
火縄銃よりも弓のほうが、次の行動に入るのが早いんだよ」
静かにそう言って、水仙は弓を背中に担ぎ直した。
連射性の差が、決定的な決め手になったのだ。
首を貫かれた氷華は、為す術もなく地面に倒れ伏す。
「……ふ」
そして、誰に向けたのかもわからない笑みをこぼす。
明らかな致命傷を負って尚、彼女は笑っていた。
「……はは、残念だ。実に……残念だよ。
私の宿願は、終ぞ成就しなかった」
足利家の中枢に居座り、この世に混沌をもたらそうと暗躍してきた謀将。
そんな彼女は、この石山城の地において、血塗られた人生を終えようとしている。
水仙は将軍に振り向き、静かに一礼した。
お役に立てて光栄です、と静かに首肯する。
年端もいかない少女である将軍は、目尻に涙を溜めながら、初めて声を発した。
「……大儀であった、水仙」
その言葉を受け、水仙も幸せそうにする。
どうやら、二人の信頼関係は特別なものであるようだった。
だが、二人の間に割って入るように、氷華が冷笑を浴びせた。
「……将軍の真似事をして、楽しいか?
私がいなくなれば、貴様らはどうする。
後ろ盾のない将軍など、何の役にも立たない。
これで未来永劫、この国は混沌で満ち溢れる」
喉から空気を漏らしながら、眼の前で繰り広げられる褒賞の邪魔をする。
もはや氷華は、将軍をただ殺す対象としてでしか見ていなかった。
いや、それは昔からなのかもしれない。
そうでないと、国の頂点を暗殺するなんて暴挙は思いつかないだろう。
「……結果的に、私の勝ちだよ。
混沌は来るべくして来るんだ。私の勝ちなんだよ」
「違うな、後ろ盾ならいる。
これから宇喜多家を頼れば、諸侯も分裂はしないだろう」
「……馬鹿な、暗殺によって栄達を得た家に頼る気か?」
「成そうとする理想が国の平和を導くものであれば、誰だっていいんだよ。
その点で、宇喜多家に頼るのは当然のことだ」
「……そんな、そんなことで。宇喜多は認められるのか」
「お前も道を間違えていなければ、十分に認められる存在だったよ」
水仙の言葉を聞いて、氷華は沈黙する。
唇を思い切り噛み、血が出るまで力を入れていく。
それはまるで、己への自戒と悔恨のようにも見える。
「……私を、認めてくれる人。
そんな存在を取りこぼした私の人生は、虚しいものだったよ」
静かに呟く氷華。
その目からは、とめどなく涙があふれていた。
彼女の懺悔を黙って見ている水仙。
俺の窺い知るところではないが、どうやら氷華の過去についてのことらしい。
彼女の事情を知っているらしい水仙は、気まずそうに顔を俯けた。
氷華の手から、力が抜けて行っている。
そんな彼女は、最後の力を振り絞って、己の後悔をこの世にぶちまけた。
「誰かに認められたかった。
この破壊衝動を理解して欲しかった。
もっと人に頼られたかった。
人の上に立って、喝采を受けたかった。
茨の道であれ覇道であれ、誰かとともに歩みたかった。
だが、それはもう叶わない。叶わないんだ」
「…………」
悔しそうに恨み言を吐く氷華と、黙って見ている水仙。
水と氷の邂逅が、この戦いに幕を下ろすことになった。
これは俺が関わったから起こったことらしいが、最初から決められていた運命のようにも思える。
だが、当事者である彼女たちには、運命なんて一言で片付けられたくないだろう。
それを遺言として示すかのように、涙に濡れた顔で氷華が言った。
「…………足利家に呪いあれ、一宮水仙に呪いあれ、将軍に呪いあれ、私を生んだ母に呪いあれ、私を迫害し隅へと追いやった姉妹に呪いあれ、私が初陣で飾った功績を横取りした岩成湯月に呪いあれ、必死で活躍してきたにも関わらず居城すら与えようとしなかった相談役に呪いあれ、私が家督を継ぐ事を認めてくれなかった肉親に呪いあれ、私の宿願の邪魔をした宇喜多家に呪いあれ、いつかの私のように捨て駒として使われていたにも関わらず反逆した鈴木善條に呪いあれ、私の内面を理解してくれなかった人間に呪いあれ、引き返そうとしても修羅の道を歩むしかなかった私の一生に呪いあれ、人の苦しみを見てでしか充足を得ることができなかった心に呪いあれ、良き友を得ようとしなかった私の過去に呪いあれ、混沌を見ることしか望めなかった私の信念に呪いあれ、ここに来るまで止めてくれなかった同僚に呪いあれ、この世に生まれてしまった私に呪いあれ、こんな私が死んでしまうことが当然のように思えることに呪いあれ、この世の全てに――呪いあれ」
――その言葉が途切れた時、氷華の生命は散った。
最後に、とんでもない洪水を吐き出していった。
詳しく聞いてみないと分からないことだ。しかし、一つ言えることがある。
彼女の運命は不幸なものだったのかもしれない。
風薫のように持て余した力を、誰も認められなかったのかもしれない。
紫のように虚栄がつい出てしまって、孤独になってしまっていたのかもしれない。
確かにそれは、傍で聞いていて苦しくなってしまう過去だ。
でも、そんなことで同情を誘って欲しくない。
もっと言ってしまえば、『過去の幸不幸なんかで、今の自分の行動に言い訳を作るな』だ。
彼女は人から同情されるべき過去を持っていたかもしれない。
しかし、だからといって許されない行為をしていたことを、擁護する理由にはならないのだ。
俺はなまじ曰くのある過去を持っているだけ、その辺りには厳しい。
だけど、そこで被害者だと思ったら負けなんだ。
自分を不幸だといって惰性で生きていたらダメなんだ。
誰かに認めて欲しかったら、努力すればよかった。
混沌を望むことをやめられないのなら、何とでもして他のことを望めばよかった。
人の欲が大きく分けて三つに分散しているのは、そのためにあるはずなのに。
あくまでも俺の持論だが。
途中で脱線してしまったのなら、誰かに起こしてもらえばよかった。
その時点で誰も起こしてくれる人がいなかったのなら、それはお前の責任だ。
だからこそ、お前は鈴木善條を殺すべきではなかった。
凱菜と清い関係でいるべきだった。
岩成湯月を憎むべきではなかった。
その努力をしてこなかった氷華に言うことは、あまりない。
それほどまでに、俺は過去を理由にした言い訳が嫌いだ。
まるで――一昔前の俺を見ているみたいだから。
「……終わり、ましたね」
「……ああ」
風薫が俺の服を静かに握った。
その時、周囲が急に騒がしくなった。
なんと、将軍様が陣の外に出て、未だ交戦している側近たちに叫んだのだ。
「やめろ! もうこれ以上血を流すな! お前たちが死ぬのを私は見たくない!」
「……し、しかし」
「重臣を軒並み欠いた足利家に、抵抗する力はもうない。
南の伊達が妙な行動を起こす前に――もうこの戦争をやめにしよう」
まだ幼くて、誰かの後ろ盾が必要な少女。
その将軍が、側近と兵たちに説得を行なった。
すると、言葉は兵から兵へ、波から波へと波及して伝わっていく。
数分もすれば、この地から鉄のぶつかり合う音が消えていた。
将軍の言葉を聞いた日和が、静かに陣へ歩いくる。
それを見て、将軍は日和に話しかけた。
「望まぬ戦争はもう終わった。
私がこの身を差し出すゆえ、もうこれ以上殺さないでくれ」
「和泉守・宇喜多日和です。ご機嫌麗しく。
これは本音ですが、私達もこれ以上戦いたくないありません」
「うむ。足利は宇喜多の傘下に入ることを誓う。
今回の戦争を見てよく分かった。私は誰が死ぬところも見たくない。
勇猛な武将の背中に隠れて、それに気付いたよ」
「……一宮、水仙殿でしたか」
「そうだ。私は皆が笑顔で暮らせるのなら、この役職に未練などない。
好きに剥奪でもすれば良かろう」
半分投げやりに近いが、将軍の眼は本気だ。
近くの側近も、半ばそれしかないという顔をしている。
上層部の暴走によって起こったこの討伐戦。
どうやら、戦いを望まない武将は他にもかなりいたようだ。
すべての力を削がれた足利家は、なおさらどこかの勢力に頼る必要がある。
今の日本で大名を統率する君主に最適なのは、文句なしで宇喜多家だろう。
「そのような恐れ多いことはできません。
将軍様には引き続きその役職について頂きたいのです。
代わりに私が下の庶務を請け負いましょう」
「うむ、よろしく頼むぞ」
おお、一番角の立たない収め方をしたか。
将軍の取り潰しなんてやったら、地方豪族が火を噴くからな。
あくまでも将軍を頂点において、実権を宇喜多が握る形になるのだろう。
それで毛利も足利無腐敗しかけていたが、日和に任せていれば安心だろう。
あのカリスマがあるし、側近には風鈴がいて、軍師には紫がいて、策士には風薫がいるんだから。
この勢いを前にしては、伊達も早々に傘下に入ってくるだろう。
たとえ政宗並の気概を持った奴が当主でも降伏するのが最善だとすぐ判断するはず。
――つまり、ここまで来たら、もう俺のすることは何もないわけであって。
「……ぃ、ぅぁ」
天下統一を決定づける原因を作ってしまった報復が来るのも、目に見えていたことだった。
ほぼ全身に透明化が進み、視界が全て歪んだ。
耳は鼓膜を突き破りたくなるような雑音が聞こえ、胃がひっくり返ってちぎれたような不快感と激痛が走った。
「……ぐぁああああああ!」
――痛い。痛い痛い痛い。
今までに味わったことのない種の痛みだ。
内面から全てをデリートされていく感覚。
全細胞を焼かれ、終末ヘと至る強烈な予感。
何とか膝まで立っていた身体は、完全に崩れて地に倒れた。
「――ご主人様ッ!?」
「おい、春虎!」
「貴様、何を勝手に倒れている!」
「春虎殿、しっかりしてください!」
ああ、誰かが俺の名前を呼んでいる。
風薫に日和、紫に風鈴か。
みんなこの陣に駆けつけてきてくれたんだな。
周りは勝戦ムード一色みたいだし。これから祝勝会でもするのかな。
おい、何やってるんだよ俺。
皆が素直に喜んで祝福するべきところで、何死のうとしてるんだよ。
空気が読めないと言われたことはあるが、さすがにこれはないだろう。
何とか立ち上がろうとするが、身体が痺れて動かない。
濃厚な死の感触。
ひたひたと消滅が迫ってきているのが、第六感で分かる。
あれ、これから俺何しようとしてたんだっけ。
こいつらと一緒に戦って、目的を達成した今、俺は何をするべきなんだっけ。
分からない。脳の痺れが、全てを隠そうとしている。
だけど、俺の過去と想いは、そんなもので屈するほど軽くない。
痺れを通り越し、俺は在りし日の言葉を思い出していた。
『――だから、必ず無事に戻ってきてくださいね』
……ああ、そうだよ。
これを忘れちゃだめだ。
俺はあの世界に帰らないと。あそこが俺の生きるべき場所だ。
早く帰らないと、消えちゃうんだったよな。
てかもう消えそうなんだけど。
あいつが悲しまないようにしようって、決めたじゃないか。
ほら。何やってるんだよ俺の身体。
動け、動けよ。このまま死ぬなんてありえないだろ。
しかし、脳にまで痺れが来た時、一つの不安がよぎる。
――消滅
たった二文字。
それが俺の身体を駆逐する。
そうだ、もう全身が透明化していて、消えるしか結末がないのかもしれない。
周りが必死に俺の名前を呼んでくれているように思えるが、もう何も聞こえない。
緩やかに、何かが閉塞していく。
一つの世界が閉じていくのを感じる。
もう身体どころか、指一本動かせなかった。
頭の中が澱んだ闇で覆われる時、俺何かを呟いた。
何だろう、今俺はなんて言ったんだろうか。
そのことを考えていると、俺の全ては真っ暗になった。
もう何も考えられない。
だけどその時、不意に俺が何を呟いたのかを、思いだした。
――ごめんな、甘屋。




