第五十七話「完成されし幻術・後編」
岩成湯月は、次々と川に転落していく兵士に向かって咆哮する。
それと同時に、天空に向かって鉛玉を発砲した。
「突撃やめッ! 敵の術数にはまるな! そこに橋などありはしない!」
「その通りでございますぞ! 皆様、正気にお戻りくだされ!」
轟く銃声と連れてきた小姓の応援もあって、全員の興奮状態が和らいでくる。
そこで、今まさに橋を踏もうとしていた兵は戦慄した。
橋の下にある旭川が目に入る。そこには、足利の軍馬や兵が所狭しと転落していて、川の流れをせき止めるほどになっている。
これほどの短時間で、よくもここまでの被害を出せたものだ。
この橋を攻めること、守兵が一人と知って慢心すること、突撃の構えを持って一気に門を攻め落とそうとすること。
全てを見破った上で、この罠を仕掛けてきたのだろう。
対岸で冷ややかな嘲笑を浮かべる少女は、湯月の姿を見て少し嬉しそうな顔をした。
「おや、大将のお出ましかにゃ。
もう手遅れだと思うけど、先鋒への出陣ご苦労様にゃ」
「……貴様、名を名乗れ。よくもここまで我が軍を痛めつけてくれたな」
「私か? 私の名を聞いたのかにゃ。いいだろう、教えてやるにゃ。
ただし、私の名前を聞いて、無事に本拠に帰れると思うにゃよ」
そこまで言って、少女は湯月の顔色をうかがう。
恐怖と戦意が入り混じった顔は、少女にとって痛快なものであるらしい。
眉一つ動かさない緊張具合を見て、少女は嘲る。
「私は春虎みたいに甘くにゃい。
死ぬことを覚悟して、私の名前を聞け――」
少女は言う。
この世界で最後の戦いとなるであろう少年を、無事に送り出すために。
大切である彼を助けるため、彼女は血肉を喰らう修羅と化す。
「――果心アヤメ。戦国に残った最後の幻術士にゃ」
「そうか、やはりお前が松永殿の言っていた女か。
これはしてやられた。だが、ここで負けるわけにはいかない」
そう言って、湯月は火縄銃に点火準備をした。
それに呼応して、周りの兵士も弓を構える。
対岸にいる少女を抹殺せんがため、弦を目いっぱい引き絞る。
その挙動を見たアヤメは、乾いた笑い声を上げた。
失策であることを、端的に教えるために。
「そういう真似をするのにゃら、こっちも兵を出すにゃ。――弓兵構え」
アヤメが手を頭上に掲げる。
すると、どこに隠れていたのか、城門の上から大量の兵が姿を表した。
門の右側には埋め尽くさんばかりの銃兵。
左側には雲霞のごとく弓兵が敷き詰められている。
門の真上には、南蛮から伝来した強力な火薬兵器・『国崩し』が幾台も配備されていた。
いきなりの大軍の出現に、足利の兵がこわばる。
だが、積んできた訓練の量が違う。
彼女らは一瞬にして恐怖を振り払い、アヤメに向かって弓を向けた。
おそらく、このまま射てばアヤメの攻撃指示よりも早く、その矢は到達するだろう。
多少の被害は出るが、あの厄介な猛将を殺せるのならそれで十分。
全員の総意によって、アヤメに矢の嵐が撃ちだされようとした刹那、アヤメが何かを呟いた。
「――縛レ」
その言葉が発せられた瞬間、弓兵全ての動きが止まった。
戦場の時が止まったかのように、周囲から雑踏が消えた。
指一本どころか、呼吸すらもできないほどの金縛りだ。
湯月はあまりにも理不尽だと感じた。
息も切れ切れながら、アヤメに向かって毒を吐く。
「……なんだ、その、圧倒的な……力は」
「にゃはは、愛の力だよ。
この空間において、自分の好きに動けると思わにゃい方がいい」
「……貴様! 私達に、何をした!」
「お前たちにはまだ何もしてにゃい。
私が施術を施したのは、この石山城にゃ。
この城を依り代にして、広大な結界を張ってるだけだよ」
それはまさに、果心居士が得意とした『幻術結界』。
本来幻術というのは、精神が強靭なものに対しては通じない。
幻術を掛ける場合、相手の動揺を誘う必要があるのだ。
敵の心に隙間がない限り、この術は無力。
だが、依り代を使って『結界』を展開した場合は話が違う。
アヤメを山に縛り付けていたことから分かるように、『幻術結界』は結界内に存在する者に対して、好きなように幻術をかけることが出来る。
言い換えれば、幻術士の不可侵絶対領域。
そこに足を踏み入れると、問答無用で幻術の餌食となる。
しかも今回、使った依代は果心居士の用いた樹木の比ではない。
この場において最も存在力を発揮するもの。
すなわち『石山城』を依り代にしたのだ。
これによって、広大な結界を展開することが可能となった。
あまりにも異形な戦術を取るアヤメを、湯月は呻きながら罵倒した。
「……っく、この化け物め!」
「にゃはは、確かに私は化け物かも知れにゃい。
だけど、私をちゃんと人間として認めてくれた奴もいた。
あいつは傷つけさせにゃい。そいつに危害を加えようとするのにゃら、そいつの邪魔をしようと言うのにゃら、この私が容赦なく叩き潰す……!」
アヤメが鋭い眼光を足利の弓兵に飛ばす。
同時に、何かを操るように、指先を動かした。
すると、足利軍の兵士の手がひとりでに動き、全員が脇差に手をかけ始めた。
明らかに常軌を逸した、幻術の有効範囲。
だが、これは決しておかしなことではない。
この石山城を依り代としている以上、城の周囲は今や、アヤメの絶対領域。
アヤメの支配する空間において、彼女に敵う者がいるはずもない。
そして、今自分たちが何をさせられようとしているのか。
そのことに気付いた兵士たちの顔が真っ青になった。
しかし、アヤメの指先は止まらない。
兵士たちは逆らえぬ力によって、脇差を抜刀し、己の首元に当てる。
「……な、なんだこれ。こんなこと、しようと思っていないのに……!」
「ぐっ、動かない! 嫌だ、何で動かないんだ!」
「や、刃が首に、刃が首にぃいいいいいいい!」
中には己の末路を想像してしまう者もおり、涙を流して叫んでいた。
こんな訳の分からない力によって、自分の命を失おうとしている。
だが、アヤメは躊躇する気などさらさらなかった。
汚れ役は自分が一手に引き受ける。春虎の手は汚させない。
そう決意していた彼女は、底冷えのする声で、指先に力を入れた。
「――引ケ。ソシテ――死ネ」
その瞬間、石山城正門の近くに赤い花が咲いた。
天空に上がった月を穢すかのように、撒き散らされる純血と言う名の液体。
まるで噴水のごとく流れ出たそれは、数百人分もの赤い血潮だった。
眼の前で起きた前代未聞の惨事。
足利家の先鋒が完全に壊滅した決定的な場面でもあった。
――だが、まだ終わってはいない。
赤い花が咲き乱れる橋の前に、たった一人だけ、立っている者がいた。
「……はぁ。……はっ。……ぐぅッ」
――岩成湯月だ。
首元を血で濡らしながらも、彼女の戦意は一片も削げ落ちていない。
彼女もまた、常軌を逸した精神力を有していたようだ。
春虎の言うところで言う『正攻法』。
正面から幻術を打ち破り、脇差による強制自決を防いだのだ。
アヤメは口笛を吹いて賞賛の声を挙げる。
「やるにゃぁ。今の私はいつもより獣の血が騒いでいる。
そんにゃ状態の私の幻術を、自力で解除するにゃんてな」
「……この、化け物めが!」
「にゃんとでも言え」
あの女武将は、放っておくとまた攻めかかってくるだろう。
そう判断したアヤメは、トドメを刺そうと飛び上がろうとする。
だがその時、岩成湯月の後方から大量の兵が出てきた。
おそらく、先鋒の後に詰めていた足利の後詰だろう。
先ほどの先鋒をはるかにしのぐ大軍が、屍を乗り越えて攻め寄せてきている。
さすがは天下に手を届かせようとする勢力の鋭兵集団。
いくら倒してもきりがない。後詰の行軍を見た湯月は、少しの希望を再燃させた。
だが、アヤメはその一連の流れを見て片手を上げる。
それは、城門の上に控える兵士たちに向けての通告。
一斉射撃、の合図だ。
「――やれ」
その下知とともに、轟音と弦を弾く音が場外に響き渡った。
岩成湯月に近寄ろうとした騎馬兵を『国崩し』が一撃の下に消し飛ばし、走り来る槍兵を矢の嵐が蹂躙する。
着火された矢は兵に突き刺さり、華々しい業火を生む。
反撃に出ようとする後詰に大量の鉛玉を浴びせ、怯んだ隙にまた『国崩し』の砲撃――
どれくらいの時が過ぎたのだろうか。
地形が変わるほどの猛攻が終わった後、布陣していた平野は焼け野原となっていた。
もはや足利家の先鋒も見る影なし。
数万はいたと思われる兵も、退却する兵を含めて半分ほどに数を減らしていた。
だが、そんな中でも、岩成湯月は立っていた。
密集していた所を爆心地として、圧倒的な遠距離射撃による蹂躙。
数多の兵が死に行ったその中心地で、岩成湯月は立っていた。
「……まだだ、まだ私は死んでいない。
この魂続く限り、上様に代わって敵を討つ!」
ボロボロの身体だが、彼女は一回も膝を屈していなかった。
君主の栄華を極めるため、身を粉にしてでも敵を打ち払う。
武士の鑑のような気品を放つ湯月を見て、アヤメは溜め息を吐いた。
これが、足利の武将。その気高き精神は、他の勢力を圧倒するものがある。
アヤメは自嘲気味に「辛いにゃ」と呟いた。
誰に向けての言葉だったのか。その答えを出すよりも早く、アヤメは飛び上がっていた。
未だ炎が舞い散る橋の向こう側に、木の葉のように着地する。
すると自然、岩成湯月とアヤメが向き合う形となる。
「まだお前の名前を聞いていにゃかったな。
そこまでの執念も珍しい。私にお前の名を聞かせてくれ」
「……名乗るような名は持っていない。
だが、言い惜しむような名も持っていない。
私の名前は岩成湯月。この身体朽ち果てようとも、魂は上様のもとに……!」
悲壮とも言える決意を眼に、湯月は抜刀した。
アヤメも幻術を使うのをやめ、爪を出して構えをとる。
「悪いが、こっちも負けられにゃい」
「私とて同じ事だ。この戦を上様に捧ぐ。いざ――参る」
地獄の業火が支配する平野で、アヤメと湯月が相対した。
どちらも譲る気はない。
強靭な精神力を持つ湯月は、意地だけで立ち上がっていた。
圧倒的な力を持つアヤメは、春虎のことを思いえがいて、爪を操る手に力を入れる。
そして、湯月が動く。
右側面から迂回し、火縄銃を構えつつアヤメに迫る。
だが、アヤメはバク転と跳躍を繰り返して照準をずらす。
石山城から溢れてくる幻術の源――霊力を体に溜め、指先に集中させる。
その指を湯月に向け、幻術を発動した。
「――縛レ」
「縛られぬッ!」
気合の一声とともに、湯月は掛かりつつあった金縛りを打ち払った。
強靭な精神によって、幻術を正攻法で無効化したのだ。
深手を負ってなお覇気を出す湯月を見て、アヤメは素直に驚いた。
「にゃっ!? ……どんにゃ精神力をしてるのにゃ」
湯月は幻術を練り上げた直後の隙を狙って、火縄銃を構えた。
幻術の多用で、アヤメは少し体勢が崩れている。
先ほど行った大人数への幻術。
いくら依り代を使って負担を減らしたとは言っても、その細身に蓄えられた霊力は枯渇しかけていた。
同時に、アヤメはその弾を避けるだけの回避力を、残していなかったのだ。
「――もらった!」
闘気のこもった声とともに、火縄銃が爆音を発した。
種子島から死を招く弾丸が射出される。
動きやすくするために軽鎧しか着ていなかったアヤメは、少し慌てた表情になった。
この弾が直撃すれば、致命傷は免れない。
だが、幻術を使った代償が未だに響いていて、逃げることができなかった。
――結果、アヤメの胸元に銃弾が直撃した。
凄まじい質量がたたきつけられ、アヤメの身体が宙を舞う。
そして、火の粉が舞い散る草原に背中から落ちた。
「やったかッ!」
今のは、確実に致命傷。
どんな化物だろうと、心の臓に種子島を打ち込まれて生きていられるはずがない。
確信して、湯月は火縄銃をしまいかける。
だが、彼女の目が見開かれる。
倒れこんで反動が冷めやらぬ間に、もうアヤメは立ち上がっていたのだ。
被弾した位置を感慨深げに眺め、感心したように声を出す。
「さすが春虎だにゃ。
これが言っていた発明品の効果か。大したものだにゃ」
「な、なぜ生きている! 貴様! またしても幻術か!」
「いいや? もう幻術を使うだけの力は残ってないにゃ。
というより、普通の戦いなら私の負けだった。
ただ、これは尋常にゃらざる戦い。
まあ、軽鎧を春虎に強化してもらっていにゃかったら、おそらく死んでただろうにゃ」
「……意味の分からぬ世迷言をッ!」
会話を断ち切るようにして、湯月はもう一発火縄銃を打ち鳴らした。
すると、穿つように空中を疾走する弾丸が、アヤメの腹部に到達する。
柔らかく薄い軽鎧を、弾が打ち抜き致命傷を与える――
その手応えに、湯月は甲冑を震わせて勝利を確信する。
今度こそ正面から決まったのを見て、安心したように吐息を漏らした。
だが、今度ばかりは、アヤメも慣れたものだった。
一瞬にして身体をねじり、衝撃だけを背後の空間に受け流した。
軽鎧に着弾した弾丸が、ポトリと音を立てて地に落ちる。
鎧は全く傷ついておらず、アヤメに痛そうな様子もない。
「……な、なんだというのだ!
その鎧も、それを持っていた春虎という男もッ!
貴様らは、全員が全員、異形の化物なのか!」
「酷いことを言うにゃよ。私はそうだとしても、春虎たちはれっきとした人間にゃ。
あと、私を化物呼ばわりするんだったら、公平な戦いをしてもらうと思うにゃよ。
――三流武士」
「がぁああああああああああああああ!」
激昂の声とともに、湯月はアヤメに切り込んだ。
例え負けることになろうとも、将軍に仇なす者は捨て置けない。
最後の討ち入りを果たそうとした刹那――湯月の首を銃弾が貫通した。
それはアヤメが放った物でもなければ、宇喜多の軍が放った物でもない。
現に、予想外の乱入にアヤメは目を見開いて驚いていた。
まったく感知できない射程外からの――狙撃。
場外からの凶弾が、最後の誇りを貫こうとしていた岩成湯月に、致命傷を与えた。
地面に倒れ伏した彼女は、呼気の漏れる喉元を抑えながら、絞りだすように声を発する。
その声はひどく惨めで、先程までの気勢が嘘のようだった。
「……ぁ、何だ、これ。まさか……撃たれた?」
一拍遅れて、自分の傷口を手で確認する。
人間の急所である首を、完全に撃ちぬかれていた。
少し的を外したのか、即死には至らなかったが、もはや生き残れる可能性は、ない。
そのことに気付いた湯月の声に、涙が混じる。
「ここに来て……こんな所で。
……私は、役に立たずに……死ぬの……か?」
その眼からは、いつの間にか雫が流れ落ちていた。
熱い衝撃が残留し、走馬灯のようなものが網膜に焼き付く。
彼女は元々、将軍の傍に控える近衛兵だった。
将軍が一番気にかけてくれていた側近でもあり、その信頼は厚かった。
しかし、文史派の人事に従って、今回この決戦の先鋒に回った。
将軍の傍を離れるのは、正直言って嫌だった。
だが、天下統一を決定づけるこの戦で、将軍の役に立てるのなら。
あの人を利用しようとする人間たちから、彼女を守ることが出来るようになるのなら。
命を賭けてでもやり遂げようと思った。なのに――
「いや……だ。いやだよ。
私はまだ……動けるんだ。ほら、まだ、大丈夫なんだ。
……こうやって、刀を握って……上様の、お役に――」
その瞬間、脇差に手を伸ばそうとした細い手を、邪悪な弾丸が通過した。
黒い絶望が皮膚を蝕み、骨を食らって地面を焦がした。
二度目の狙撃を、その身に受けたのだ。
そして、銃弾が飛来してきた方面から、忍び装束に身を包んだ影が出てきた。
辛辣な声を発して、血に転がる湯月を見下す。
「うるせえな。捨て駒はさっさと死に絶えろよ。
あのお猫様も言ってんだろうが。
お前みたいな武力一辺倒の馬鹿は――大人しく死ねってな」
月の光に照らしだされた、その姿。
引き締まった身体は武人を思わせ、目に宿る冷たく静かな闘志は、暗殺者を思わせた。
その相貌は見とれるほどに風流で、剃り残したひげを撫でる手には、大ぶりの火縄銃が握られている。
好青年といえば聞こえはいいが、慈悲の感じられない言葉を聞いては、何も信じられなくなりそうだった。
彼は口元を醜悪に歪め、先ほどの戦いを嘲笑する。
「名前なんか名乗っちゃってさ、俺を笑い殺してーのか。
誰も覚えねーっての。お前みたいなどこにでもいる、女の名前なんざよ」
「き、貴様は……雑賀衆の……」
「ああ? 知ってるのか。俺も有名になっちまったもんだな。
そうですそうです、私が雑賀衆で唯一疫病を逃れた生き残り、鈴木善條です、ってか? 笑えねえよ、白けちまうわ」
茶化しながら愛銃の調整をする男。名を鈴木善條というらしい。
ひどく濁った双眸からは、一片の気合も感じられない。
ただ単純に、そこにあるのは純粋な虚無と殺意。
それらに従って、鈴木善條がすることは唯一つ。
黒光りする銃口を彼女に向け、その引き金を引こうとするだけだった。




