第五十六話「完成されし幻術・前編」
――石山城の正門。その直前にある大橋付近。
封鎖された門を通り過ぎ、足利軍は唯一残っている橋の手前に布陣をしていた。
陣で腰を据えている三好凱菜と松永氷華に変わり、指揮をしている岩成湯月。
彼女は今、混乱の最中にいた。
「こらお前らッ! 戻れ! さっさと橋を渡って堀を埋め立てろ!」
「ダメです! 逃げ戻ってくる兵と突撃する兵がぶつかって、指揮系統が乱れています!」
「くそっ、こんな狭い傾斜道に大軍を布陣させたのがまずかったか……!」
本来、足利家の重要な戦で指揮をとるのは、陣で休んでいる三好と松永である。
しかし、何故かあの二人は「将軍を警護する」と言って、大軍の指揮権を岩成湯月に与えてしまった。 それも、本来将軍を護衛していた姫武将を押しのけてまでその任に就いたのだ。
腹黒い連中なので、何かを仕掛けようとしているのかもしれない。
だが、今の敵は目の前にある石山城だ。
本隊の指揮を取る岩成湯月は、多少の用兵の心得はあるものの、数万単位の兵を動員するのは初めてのこと。
それに加え、何故か渡り切れない橋があいまって、大軍がほとんど機能していなかった。
一つの橋を残して、全ての進撃路を退路ごと断ち、大軍で城内に引きこもっている宇喜多軍。
この広くもなく攻めるところが少ない石山城は、大軍で攻めようとすると、混乱を招く一方だった。
「落ち着け! 一旦兵を下がらせて陣形を組み直せ!
島津の輸送路は完全に断ち切っている。焦ることはないッ!」
言葉を必死にかけ、少しづつ混乱を収束させていく。
兵数自体は大きく勝っているため、無理に勝ち急ぐことはない。
それに、こちらは海路と陸路の両方から補給線を確保している。
時間はかかるが、無理をせずとも籠城戦を選べる余裕はある。
ただ、いたずらに兵を消耗してしまうことだけは、なんとしても避けたかった。
そう思っていた矢先――
「伝令! 播磨の陸路にて大岩が発生し、補給隊が足止めを食らっています!」
「なんだと!?」
「播磨の一部の豪族が蜂起したようです! 陸路からの補給線の半分が断たれました!」
「……ぐぅ、統治の甘さが招いた失態か。
上層連中が怠けているからだろうに。だが、まだ大丈夫だ。
そろそろ瀬戸内の海路を使った補給隊から、大量の兵糧が届くはず。
それが到着したら、士気を回復させて一気呵成に攻め落とすぞ」
この日の本の南部で、伊達が奮戦していることは知っている。
だが、向こうで戦っている足利軍とて脆弱ではない。
こちらが兵を送らずとも、引き分け以上には持ち込むだろう。
だから、勝ちを焦って兵の損失をすることだけは避けたい。
根が慎重である岩成湯月は、そのように思っていた。
まずは眼の前の戦いに集中するべき。兜を刀の柄で叩いて気合を入れ直すと、大声を飛ばして鼓舞を開始した。
「後から兵糧が来る! 今はただ、眼の前にある敵を蹴散らせ!」
「うぉおおおおおおおおおお!」
「足利将軍に恒久の輝きをッ!」
「足利将軍に、恒久の輝きをぉおおおおッッ!」
「進めッ! おそらくは乱波の術によって、橋に細工をされているのだろう!
だが、そんな小細工ごときで、我らが足利軍は止まらない!
いざ、敵の御首を頂戴せよ! 長槍隊、突撃を開始するんだ!」
「せいやぁああああああああ!」
喉が干上がるほどに、必死の声を出す岩成友通。
呼応して、兵たちは雪崩のように橋に迫っていく。
乱波が何を仕掛けてこようとも、この戦局は容易に変えられるものではない。
そう確信して、猛進する兵士たちを見つめる。
だがその瞬間、橋の向こうから誰かが現れた。
夜空に輝く月の光に、煌々と照らしだされたその肢体。
迷いを捨て切った眼光は純粋な敵意に満ちており、同時に慈しむような優しさを持っている。
金色の短髪から顔をのぞかせる猫耳。
そして、動きの邪魔をしない軽鎧の裾から見える獣の尻尾。
彼女が生粋の人間でないことは、外見から容易に判断できた。
ただ、陣中からその姿を認める岩成湯月には、その少女が宇喜多側の誰かであることくらいしか分からなかった。
もう少し近づけば将の顔も分かりそうなものだが。しかし、総大将が先鋒に出向くのは愚策だ。
それが分かっているのか、橋の前に佇む少女は涼しげな顔をしている。
橋を渡ろうとする兵士たちを見つけると、彼女は意地悪げに微笑んだ。
「ここは、一人たりとも通さないにゃ」
そう言って、彼女は跳躍する。
整備されている橋をわざわざ一足で飛び越え、向かい来る兵士の手前に着地した。
まさに、猫を思わせるしなやかさ。
「死にたい奴から来いよ。旭川を血で染め上げてやるにゃ」
殺気に満ちた雰囲気を、惜しむこと無く放出している。
見ているだけで魂を八つ裂きにされてしまいそうな重圧感。
兵士たちの足が一瞬止まる。だが――
「何を止まっている! 見たところ守兵はその女一人!
蹴散らして城内に雪崩れ込むのだ!」
兵士たちの後ろから飛んできた声によって、兵は一斉にその少女に槍を向けた。
少しでも有利な陣形を取ろうと、岩成湯月は用兵の妙を発揮する。
「密集しろ! 『八重桜の陣』で圧殺してしまえ!」
その指示を耳にした兵が、手慣れたように陣を組み直す。
すでに鋒矢の陣という、ただでさえ突撃向きの陣形を取っていたが、この地形において更に有効な形に切り替えた。
修練を積んだ兵たちは、みるみる内に一列に並び、層を作るかのように密集し始めた。
ちょうど橋の幅と同じだけの幅まで一列に並び、幾重にも列を重ねることによって、強力な突破力と継続的な攻撃を生み出すことが可能。
足利の指揮官が得意とする、攻撃的な陣形だ。
「よし、整ったな。いざ突撃ぃッ!」
「うぉおおおおおおおおおおおお!」
「足利将軍万歳! 足利将軍、万歳ッ!」
荒れ狂う闘牛のように、兵士が突進を始めた。
すさまじい質量が、荒波となって少女に迫る。
その細身では、あっけなく踏み潰されてしまうだろう。
だが、この状況においてその少女は――冷たく笑っていた。
「にゃはっ!」
迫り来る兵士たちに背を向け、少女はいきなり退却を開始した。
脱兎のような勢いで橋の寸前で踏み切リ、城側の端に一足飛びで到達する。
挑発じみた表情をしながら、こちらに振り向く。
「ここまで来いよ。そしたら遊んでやるにゃ」
あまりにも意味の分からない、少女の奇妙な行動。
その姿を見た岩成湯月は眉をひそめた。
「……何だ? 何のつもりだ」
まさか、罠でも張り巡らしているのだろうか。
だが見たところ、橋には何も仕掛けられていない。
ここから見える石山城の門上や櫓には、兵の姿も見受けられない。
隠れている可能性もあるのだが、小規模な櫓から放てる矢の量などたかが知れている。
だから、岩成湯月にはその少女の行動が何なのか、心底理解できなかった。
普通、橋を残しておくとしても、いざとなったら敵兵ごと燃やせるように油を染み込ませておくなどをするのだが、その様子も見受けられない。
本当に、見える限りでは何も仕掛けていないのだ。
「……見える限りでは、か。
だが、妖怪のたぐいでもあるまいし、人を化かすことなぞ……」
そこまで独りごちた時、頭の中の違和感に気づく。
いや、違和感と言うよりも、眉唾ものの情報だ。
この兵を貸し出された時に、松永氷華から妙なことを聞いたのだ。
『やあ、岩成湯月殿。石山城の攻略は君に任せる』
『お任せください。この湯月、命果てようとも上様のために戦います』
『心意気は結構。しかし、油断はできない。
確かに宇喜多の兵は我らよりも脆弱だ。だが、宇喜多の将となれば、話は違ってくる』
『……竹中と黒田の二枚軍師ですか?』
『いいや、違うね。確かにそれもあるけど』
『ならば、魅力によって凄まじい統率力を発揮する宇喜多日和でしょうか。
あるいは、戦場に死の音を響かせるという花房風鈴』
『全然違う。拍子抜けもいいところだよ、岩成湯月殿。
そんなずさんな諜報では、いつか足をすくわれるぞ』
『……では、宇喜多家には誰がいるというのですか?』
『教えてあげよう。一人は男である伏見春虎。
こいつは信じがたい噂で満ち溢れてるから、確かな情報は私でも知らない。
だけどもう一人――決して無視できない人間がいるんだよ。
かつて戦国大名を震撼させた幻術士の一族でさ』
『……幻術士、ですか』
『そう、その女こそ――』
あの時、足利家きっての野望家はなんと言っていたか。
それを思い出した刹那、背中に電流が走り抜けた。
「……まさか」
陣幕を蹴散らし、足利の軍を再度確認する。
全く何の仕掛けもないように見える橋を、大量の兵士が渡ろうとしている。
橋の反対側にいるその少女。
暗闇でよく見えないので、目を細めてその容貌を確認する。
その時、月光が戦場を照らしだし、橋に佇む少女の姿を浮き彫りにした。
ようやく岩成湯月は彼女を視認する。
明らかに人間ではない異形の少女。
幻術によって産み落とされた幻術の申し子。
向かってくる兵を無言で見つめるその少女は、口の端を釣り上げて笑っていた。
それを見た瞬間、岩成湯月は叫んでいた。
「渡るなぁああああああああああああああああああああああああああ!」
「――奇策の始動にゃ。発動しろ、『空間結界・惑いの橋』」
少女が両手を天に突き出し、幻術を発動した。
すると、いきなり石山城へと続く橋が変色した。
古くなった木の茶色から、地獄へと誘う真紅の色へと。
しかし、興奮した兵士はそれに気づかない。
対岸にいる少女に走りこんでいき、ついにその橋を踏む。
――だが、橋を渡ろうとした兵士は、そのまま姿を消した。
後続の兵が次々と橋に足を踏み入れる。
すると、次の瞬間には絶叫を伴ってどこかへと消滅する。
その光景を陣から見た湯月は、吃驚の声を上げた。
「――なッ!?」
兵が次々と消滅していく。あり得ない。
何かが起こることは予想できていた。だが、これは明らかに常軌を逸しすぎている。
「何の悪い夢だ、これは……」
勇猛果敢な足利兵が、橋である場所に足を置いた瞬間、次々と消えてしまう。
よく耳を澄ましていると、派手な水音がこだましてくる。
全ての絶叫は、橋の下あたりから聞こえてきているのだ。
その瞬間、湯月は理解した。
そう、橋を渡ろうとした兵士が、全員橋から転落しているのだ。
「……ありもしない橋を、幻術で見せているのか」
このままではまずい。
突撃命令を出したために、異変を感じた兵が危険を察知しても、後続に押し出されて橋から落ちてしまっている。
鋒矢の陣よりも密集度の高い『八重桜の陣』。
それがここに来て裏目に出たのだ。
「……こちらの形成する陣を読んでいたのか。
おのれ黒田紫。おのれ竹中風薫……!」
おそらく、こちらの用兵技術を完全に見切っているのだ。
だからこそ、たった一人を橋の上に置いて、挑発するなどという策に出た。
まさか橋が偽物だとは思うまい。敵に奇っ怪な力を使う者が本当に実在するとは、誰も思うまい。
だが、それらはすべてあの軍師と策士の狙い。
完全にはめられてしまっている。しかし、まだ被害を抑えることはできる。
湯月は馬を引き立て、小姓に出陣の下知を出した。
「私が出る。お前らも叫んであの突撃を止める努力をしてくれ。
このままでは数万の兵が全員転落してしまう」
「はっ!」
返事を聞いて、小高い丘を一気に駆け下りる。
裾には大型の火縄銃。自慢の馬を駆り、一瞬にして橋の前に到達する。
この最終決戦で勝ちを拾うため、彼女は咆哮を上げた。




