第五十一話「急転直下」
アヤメの健脚があってのことか、俺たちは日が暮れる前に、出雲大社から離れた川に到達していた。
その三角州の中央で、俺を降ろす。
「川か。旭川の方が大きいけど、ここも綺麗だな」
「にゃ、お前は備前の生まれだったかにゃ。
違う世界から来たんじゃにゃかったのか」
「いや、備前は元の世界における俺の出身地なんだよ。
そこにある旭川はいいぞ。
時期になったらアサリが取れるし、その川があるお陰で滅多に取水制限がないんだ」
最近はゴミの不法投棄が増えてるのが残念だけどな。
でも、地形は少し違っても相変わらず旭川は綺麗なのだ。
この川も、現代になっても尚流れ続けているのだろう。
「というより、お前は何で旭川を知ってるんだよ」
「あそこは私が修行をしていた場所なのにゃ!」
胸を張りながら、アヤメはいそいそと足袋を捲くっていく。
あれは確か、備前に来るときに俺が買ってやったやつだな。
それを脱ぐってことは泳ごうとでもしてるのか?
今は冬がほど近い晩秋だぞ。
しかも、出雲大社の近くの川で泳ぐつもりかこいつは。
「この時期に泳いだら風邪を引――」
「静かにするにゃ!」
俺が言い切りよりも早く、アヤメが手で制してきた。
真剣な眼差しで、川の水を見つめている。
伝ってくる汗を拭い、緊張を隠せずに唾を飲み込んだ。
まさに最終決戦に挑む闘士のような、並々ならぬ雰囲気を醸し出していた。
アヤメは息を整えると、ゆっくりと水に足を近づけて行く。
すり足で近づいていき、前に出した左足で入水を試みる。
いざ足先に水が触れようとする。そして――
――チャプッ
「うにゃぁああああああああああああああ!」
「何がしたいんだお前は!」
足が水に接触した瞬間、恐ろしく怯えた声を出した。
急いで後退り、傍観していた俺の方に突っ込んでくる。
「助けてくれにゃぁああああああ!」
「何から助けろと!? てか待て落ち着け。
怪我人である俺にボディアタックはやめるんだ」
死の制止も虚しく、混乱状態のアヤメは俺に助けを求めて飛びかかってきた。
足だ。足を狙われるとマズい。
重傷の酷い部位にタックルでも受けた日には、確実に悶絶する。
とっさに身体を丸め、足を内側に折りたたみ、衝撃を受けないようにクロスアームブロックを完成させた。
さあ来るがいい。たかが小娘のタックルだ。
ここまでの防御を敷けば何を恐れることがある。
完璧な布陣で守りに入った俺に、アヤメが接近してくる。
俺が抱きとめることでも期待しているのか、ダイビングしながら両手を広げていた。
このまま直撃すると深刻なダメージを受けるので、身体を少し横移動させる。
――しかし、これがマズかった。
中途半端に避けたせいで、アヤメの広げた手に反応することができなかった。
俺の鉄壁のガードをかいくぐり、アヤメの腕が首に直撃した。
絵に描いたような一撃必殺。
グキリ、と絶望的な音が体内から響いて来る。
それはまさしく、プロレス技におけるラリアットだった。
「ぐぁあああああああッ!」
「にゃにゃっ!? どうしたのにゃ春虎!」
心配するように俺の顔を覗きこんでくる。
ガクンガクンと俺の体を揺らし、意識を確かめてきた。
いや、失神してはないけどさ。死ぬかと思ったよ。
「もう少し力の差を考えろ。虚弱体質な俺に少しは気を遣ってくれ」
「はぁ、ダメな奴だにゃ。
そんなことで、よくこの世界で生きてこられたにゃ」
「それは俺も思うけど」
ちょっと油断してたら屋が降り注ぐ修羅の世界だもんな。
俺みたいな平和ボケが生きていられる所じゃない。
てか、良く考えたら、最初の絶体絶命はお前が招いたんだっけ。
別に気にしてないけどさ。
俺もいい加減大人だから、過去のことなんて一々引きずらないけども。
ブツブツ文句を言う俺を見て、アヤメはヤレヤレといったポーズを取った。
「私がいないとダメな奴だからにゃ。
嫌で嫌で仕方ないけど、この私が面倒を見てくれるにゃ」
「そいつはありがたい。お前の力を借りることは多いからな。
そう、具体的に言えば、悪いが肩を貸してくれ」
とりあえず、悶絶状態から回復する。
両足――特に右脚の侵食が早いな。
このままじゃ、腰に到達しそうだ。
神在月までは持つと思うが、身体が消えかけて行っている感覚はどうも好きになれない。
夕日が登りかけた空は、チロチロと陽炎が輝いていた。
アヤメはその光景を感慨深く眺める。
「にゃあ、春虎。お前の世界でも、旭川は流れているのかにゃ」
「ああ、旭川は岡山が誇る一級河川だ。
ものすごい昔から、変わらず岡山で水をたたえてるよ」
「――つまり、たとえ備前の地が焼けようと、時が数百年流れても、そこに旭川はあり続けるということかにゃ」
「まあ、そういうことだな」
当たり前のことだ。
だが、アヤメにとってみれば、その事実は特別のようであったようで。
俺がうなずいて肯定すると、彼女は少し決心じみた表情を浮かべた。
そのまま冗談なしの瞳で、俺の顔を覗きこんでくる。
「と言うことは、私の一族が備前に根を張れば――
たとえ永劫の時が経っても、春虎に会うことが出来る。そういうことでいいのかにゃ」
「……え」
ああ、こいつが何を言いたいのか分かった。
それは奇しくも、風薫と似通った思考。
たとえこの世界で俺達の関係が発展することはなくても、違う世界――俺の世界でまた逢うことが出来る。
そういう理屈だろう。
だけど、それは願望が入りすぎてて、論理的じゃない。
確かにここは俺の世界から数百年昔の世界だ。
でも、それ以上に次元を隔てている。
疫病でほとんどの男が死滅した戦国時代。
残念だが、俺の世界から歴史をさかのぼっても、この世界に辿り着くことはないだろう。
――だけど、だからこそ、こいつらは一縷の望みに賭けようとしてるんだ。
何かの手違いで、あるいは何かの必然で、俺の人生とこいつらのカケラが、交わる時が来るかもしれない。
きっと、あり得ないほどに低い確率。
だけど、信じていればいつかは奇跡が起こるかもしれない。
神様の気まぐれで世界が動いてるなんてトンデモ理論を聞いた後だからか、それすらもあり得ることであるかのように感じてしまう。
信じる者は救われる。それは戯言だ。
信じても、すくわれるのは足だけ。
分かっていても、こいつらのカケラとまた出逢う可能性も、否定しきれることではない。
――だから
「信じれば、きっと叶うはずだよ」
「簡単に言うにゃあ。
何かを一途に信じてる人間が救われた話なんて、一度も聞いたことがにゃいんだけども」
「なら、人間じゃなくてもいい。
お前は猫の遺伝子を受け継ぐ女の子なんだからな」
「むぅ、せめて春虎には人間扱いしてもらいたいにゃ」
「そうだな。でも確かに、人間が救われることは少ない。
お前の見聞だと、誰も救われたことがないんだっけか」
「そうにゃ。必死に何かにすがって信じても、必ず夢は破れてしまう。違うのか」
「違うな。今まで誰も救われた人がいないんだったら、お前がその『一人目』になればいい」
「……にゃ」
俺の言葉が予想だったのか、アヤメは反論する言葉を失った。
その代わりに、『……一人目。一人目ににゃる』と自己暗示でもしているかのように、俺の言葉を繰り返している。
そうだ、俺の持ってる武器は、誰かを陥れる『詐欺』なんかじゃない。
もちろんそういうのもあるけど、俺は誰かを幸せにすることができる『口先』を持っているんだ。
あとは頭のイった発明品。自慢にもならないが。
残った全ての時間を、持てる力すべてを持って駆け抜ける。
それが、この世界で出会ってきたこいつらへの最高の挨拶になるのだろう。
「元の世界に帰っても、私のことを忘れるにゃよ」
「忘れねえよ。こんなキャラの立ったバカを忘れるわけがないだろ」
「きゃら? 悪口かにゃ」
「褒め言葉だよ。お前と出会えて、嬉しかったってことだよ」
「むぅ、それは私の台詞にゃ。
お前と会ってなかったら、いつまでも悲しみの中で惨殺を繰り返していたにゃ」
アヤメの指は細く綺麗で、か弱気な女性を思わせる。
しかし、その指から生えた爪は、今までの苦しみを表すかのように赤く染まっている。
もちろん、これはペイントや化粧なんかじゃない。
消そうと思っても消せない、人の命の上に立つことを覚悟した証だ。
これを背負って生きて行くことが、死人への鎮魂歌であり、彼女の定められた運命なのだろう。
でも、それは決して哀しいものじゃないと思う。
だって、こいつの顔を見てると、そんな負の感情なんて消え去っていくからな。
直情的な性格だけに、倍の喜びが顔に出るのだろう。
「春虎。帰るのが仕方にゃいのはわかるけども。
あの軍師や君主、あと鎧を着た重臣には挨拶をしなくていいのかにゃ」
ああ、紫と日和と風鈴か。
思えば、あいつらにも相当世話になったからな。
風来坊である俺を迎えてくれた宇喜多家の面々に、別れの一つでも言っておくべきかも知れない。
よく考えたら、あと数日は猶予があるんだし。
俺がそんな事を考えていると、川の土手から大きな声が聞こえてきた。
「そこの胡散臭い男と猫耳の方! 紅葉さまが呼んでおられます」
それは奇しくも、神道なのに式神を使いかけた巫女の声だった。
胡散臭い男なんて形容をするなんてあんまりだが。
まあ、実際人相がいいとは思えないからな。
初対面で嫌悪感は持たれたことがあっても、好意を持たれたことは少ない。
「何だよ、至急の用なのか?」
「至急も至急! 来ないようであれば、殴って蹴って吊るして裂いてすり潰してでも連れて来いとのお達せです」
「どんだけ急いでるんだよ……」
とりあえず、必死であることは伝わった。
しかし、俺の予感と経験則から言って、こういう時に出てくる話にはロクな物がないんだよな。
アヤメに半ば担いでもらうような形で、出雲大社へと身を翻した。
本殿近くの小さな小屋に案内され、巫女は用済みとばかりに去ろうとした。
「……パシリみたいな役回りだな」
「何かおっしゃいましたか?」
「イイエ、ナニモ」
「紅葉様に手を出せば、こうなりますので」
首のあたりで親指をひっくり返し、横にスライドさせる。
日本古来にして現代でも使われる伝説のジェスチャー『クビ』である。
この世界に切腹や斬首という概念があるので、あんまり笑える話じゃない。
「あんなちんちくりんに手を出すかよ。杞憂もいい所だ」
「むぅ……信用ならんが、まあいいだろう」
そう言って、神経質そうな顔を背け、出雲大社の施設の方へ歩いていった。
案外俺は、潔癖っぽい人に好まれにくいのかもしれないな。
他に原因があるようにも思えるが。
「入るぞ」
一言だけ確認し、戸を開ける。
すると、そこでは思いっきり爆睡している巫女様がいた。
俺の天敵になりうる性悪巫女2号・紅葉さんである。
暖炉近くで布をかぶり、よだれを垂らしながらスヤスヤと寝ている。
その姿を一瞥し、後ろにアヤメがいることを確認し、俺はゆっくりと紅葉に近寄った。
無防備な寝顔に、マジックで落書きでもしてやりたい衝動に駆られたが、あいにくペンの類は持っていない。
とりあえず、舐めきった態度を反省させるべく頬を引き伸ばしてみた。
さすがは少女のほっぺただ。弾力と伸縮性が半端じゃない。
張力が限界に達して、ギリギリと音がしてきそうになった。
そこまでしてやっと、少女はその目を開いた。
「いふぁい、いふぁいのじゃ」
「イー・ファイ? ああ、中国にいそうな名前だよな」
「そういう意味ではない! 痛いのじゃバカモノ!」
手足をばたつかせて逃げようとする紅葉。
手を邪険に払われてしまった。
近くにあった茶に口をつけ、紅葉は間断なく話を切り出す。
先ほど俺が働いた無礼の借りを返せるとばかりに、意地の悪い笑みを浮かべる。
「喜べ、汝にとって最悪の事態になったぞ」
「どうした? 賽銭箱が盗まれたか」
「ふふふ、軽口を叩けるのも今のうちよ。
本当なら、汝はここで歯噛みして悔しがる場面なのじゃがな」
「どういう意味だよ」
もったいぶっているのが気に入らない。
年上の人にそれをされるのも嫌だが、年下にそんな態度を取られたらもっと腹が立つ。
俺の器の小ささに驚き慄くがいいわ。
俺の不遜を咎めるように、紅葉はジト目を向けてくる。
そして、ついに核心を突く本題へ切り込んだ。
奇しくもそれは、可能性としては理解していても、絶対に起きてほしくない――最悪のイベントだった。
「足利家が、宇喜多の本拠地である石山城に迫っておる」
天下の将軍家が、ついに動いた。




