第三十四話「竹中風薫の納得」
風薫は過去を語り終えると、静かに目をつむった。
しかし、その姿は痛ましい。
俺たちの身体は、すっかり雨に濡れてしまっていた。
まったく、何のために風呂に入ったんだか。
「それが、お前の過去か」
「はい、嘘偽りのない、私の全てです」
断定系なのに、風薫の語調はどこか弱々しい。
俺の表情を伺うようにして、涙を溜めた目で見てくる。
「風薫。言っちゃ悪いんだが、それを聞いて俺は何をすればいいんだ?」
「……ぁ」
俺の突き放すような言葉に、風薫の肩がビクンと震えた。
そして、なぜか許しを請うような低姿勢になる。
何も悪いことはしていないだろうに。
「お前は『私は精神が不安定で、すぐに殺意が沸く危険人物です』ってことが言いたかったんだろ?」
「……はい」
「返事はいいんだよ。で、俺は一体何をすればいいんだろうな」
絶対に、こちらからは踏み込まない。
この少女は――風薫は、あまりにも他人との付き合いが下手だ。
俺から解答を示せば、その能力は伸びないまま。
こいつは全てのボーナスポイントを振り切ったように超越した少女だが、その処世術を知らなかったからこそ、こうして苦しんできた。
だから、ここは風薫の意思を聞くべきなんだ。
「……です」
「何? 聞こえない」
「ご主人様のそばに、いたいです」
喉から声を絞り出すようにして、風薫は嘆願してきた。
涙なのか雨なのかよくわからないが、風薫の形の良い顎からは水が滴っていた。
「……すぐ暴れだす上に、人を信じきることがでない、中途半端な私ですけど――
ご主人様のそばにいたいんです」
あまりにも悲痛な頼み。
自分を理解してくれるかも知れない人に、嫌われたくない。
そんな思いで心が張り詰めているのだろう。
俺がこいつの過去を聞いたから、始まった軋み。
形だけでも、こいつが幸せになるように嘘をついてやるのが、詐欺師の愛情というやつなのだろう。
だが、俺はこいつをダメにしたくない。
詐欺師として、最後まで試させてもらう。
「それを俺が許すと思うのか?」
俺は、拒絶とも取れる答えを返した。
すると、風薫の表情がさらに曇る。
確実に、今こいつの真鍮には殺意が湧いていることだろう。
しかし、彼女は悲哀じみた顔をして、それを抑えようとする。
「……あはは、ダメですよね。当然ですよ。
こんな爆弾、欠陥製品を、誰も抱えたくないでしょうから。仕方ないです」
――パァンッ
乾いた音が、時の止まった庭にこだました。
発生源は、風薫の頬だ。
手加減すること無く頬を打った俺の右手は、彼女の頬以上に赤く腫れ上がっていた。
「俺が今、なんで叩いたのか分かるか?」
「…………」
分からないらしい。
それもそうだ。当然だ。
もし俺が風薫の立場だったら、理不尽な攻撃だと判断してやり返すことだろう。
しかし、風薫は俺の顔を小動物のような眼で見るだけで、何も反抗しようとしない。
「お前はよく自分を爆弾呼ばわりするよな。何でそんなことをするんだ」
「……決まってるじゃ、ないですか。
我慢の限界が来ると、周りを巻き込みながら壊れていくんです。
それを爆弾と言わずに、何と言うのですか?」
「……お前はな。自分のことを特別視しすぎてる。
確かにお前の能力は異端だ。軍略もできて剣術も出来る。
その上、内政や計略もお手の物。傍から見れば、気味が悪いにも程がある」
「そうでしょう? だから――」
「だけど風薫はその前に、まだ二十歳すら迎えてない、弱々しい女の子なんだぜ。
お前は天才の前に少女。少女の前に竹中風薫なんだ」
その言葉に、風薫の眼が丸くなった。
俺が何を言っているのか、ゆっくり咀嚼しながら考えている。
「爆弾なんて言うけどな、それは皆がそうなんだ。
我慢が限界を超えれば、だれだって爆発する」
「でも、私は度が過ぎていて……」
「そりゃそうだ。人より数倍自分を抑圧してるんだからな。
そんなお前が、人一倍爆発力があるのは、当然のことなんだよ」
イメージ的には、指で押したゴムボール。
外からの衝撃を内部に貯めこんで、その分だけ跳ね返す。
しかし、風薫の場合は、ゴムボールが限界を迎えるまで、我慢をしてしまう。
「お前はな、遠慮し過ぎなんだよ。
美徳とも言える『遠慮』に『謙遜』。
でもそれは度が過ぎれば『抑圧』に変わるんだ」
そんなことすら、少女は教えられていなかったのか。
今になって、男を死滅に追いやった疫病に腹が立つ。
なぜ少女が成熟し切る前に、孤独にするような運命を強いたのか。
しかし、形なきものを責めても意味がない。
「自分の欲を隅に追いやって、他人のために生きる?
お前は聖人君子なのかって話だ。そんな生き方をすれば、発狂するに決まってる」
「……だったら、私は――」
「お前はな、心の持ち方を少し間違えただけなんだ。
人はそれを『欠陥』とは言わない。やり直しの効く『失敗』って言うんだ」
俺の言葉に、風薫は段々喜色が明るくなってくる。
この顔を、もっと見たい。
しかし、ここで彼女が答えを見つけられなければ、何の意味もない。
「なあ風薫。ここに最高の切れ味をもつ小刀があるとしよう。いいな?」
「……はい」
「これを使った人間が、大量の殺戮を犯した。
この時悪いのは小刀か。それとも、小刀を握る手か」
「……後者です」
「分かったらいいんだよ。
もちろん、自分が犯したことを後悔するなとは言わない。
だけど、これからの行いで、他人はもちろん、自分を幸せにできるってことを、忘れないでくれ」
「…………」
「返事は?」
「は、はいっ」
恐らく、こいつにとっての歯車が狂ったのは、半兵衛が頼んでいた後見人が死んだ時から。
人との付き合い方、そして自分の闇との向き合い方を知らなかった少女は、悲惨な人生を歩んできた。
だったら、ここでその歯車を上手くはめてやるのが、俺の役目だ。
「じゃあ、もう一回訊くぞ。お前は俺に、何をして欲しいんだ?」
「……だったら。こんな私でも、そばにいても良いですか?」
「言葉遣いに遠慮を感じる。もっと欲に訴えかけろよ。やり直し」
遠慮は抑圧へと変わり、その心を病ませる。
水を溜めすぎた浴槽が澱んでしまうように、人の心も乱れてしまう。
だから、少なくとも俺の前では、こいつが自分を開放できるようになってほしい。
「……ご主人様の、そばにいたいです。いさせて下さい」
「もちろん。俺も風薫がそばにいてくれると嬉しい」
「……ありがとう、ございます」
そのまま泣き崩れて、その場にへたり込んでしまう風薫。
初めて本当の意味で、こいつは理解してくれる人を得た。
少女が救われるのなら、俺はそれでいい。
手を差し出してやると、風薫は無視して俺の胸に飛び込んできた。
仕方がないので、彼女をあやす。
その背中を撫でながら、俺は微笑む。
それは変哲のない少女の、儚げな背中だった。
俺は風薫が泣き止むまで、ずっとそばにいてやった――
◇◇◇
時刻は分からない。
だけど、多分0時を回った頃だと思う。
俺はゆっくりと自分の部屋から出ていき、角の部屋を訪ねた。
障子を指で叩き、中にいる人間の有無を確かめる。
「む、伏見春虎か。入ればいいぞ」
その言葉を受けて、障子を開け放つ。
すると、そこには油を燃やして書物を読んでいる、紫の姿があった。
「やれやれ、一体何の用だ。
こんな時間、それも私一人の状態の所を狙われてしまうとはな。
いよいよ貞操が危ないかもしれない」
「言ってろ、年増」
その言葉に、紫は青筋を立てた。
二十歳ぴったりの少女に対して言うべきことではない。
だが、今の俺は心中穏やかではなかった。
「お前、風薫を殺す気はなかっただろ」
俺の問いに、紫は意味深な笑みを浮かべる。
書物を読むのをやめ、俺の方を向いた。
「おや、どうしてそう思う?」
「気付かないと思ってたのか。
書物を俺が読むように、あんな無防備な状態で置いてたんだろ?」
「ふむ、凡愚にしては鋭いな」
人を喰ったような顔で、紫はくつくつと笑う。
この女の思惑を崩そうと、風薫と向き合ってきたというのに。
どうやら、俺は紫の手の上で踊らされていたらしい。
「竹中風薫はムラがあるとはいえ、圧倒的なまでの高戦力。
いくら危険だとしても、お前のような存在がいれば暴走はない。
それを知っていて、貴重な才能を殺すわけがないさ」
よくもまあ、そんなことを言えるもんだな。
何が『あの女は、一刻も早くこの世から消さねばならない』だ。
性格の悪さが底知らずじゃねえか。訴訟もんだ馬鹿野郎。
「おや、怒っているのか?」
「いいや、騙されたのは俺の不明が原因だ。
恨みなんてないさ。だけど、わざわざ俺をけしかけた理由を聞きたい」
あそこまで手の込んだ芝居を打って、風薫と紙一重の会話を強いてきたんだ。
そこには、それなりの理由と思惑があるはず。
「なに、あの女の唯一の弱点であるムラを無くそうとしただけさ。
これからは一人の戦力も惜しいからな」
「どういう意味だ?」
そう言うと、紫は俺に近づいてきて、手を握ってきた。
また良からぬことを考えているのかもしれん。
今度は思い通りに行くと思うなよ。
などと、勝手な妄想をふくらませていると、紫は真剣な表情で言った。
それは、今までの平穏な時間に終わりを告げる、決定的な宣告だった。
「毛利が、動き出した」
「……ッ!」
――毛利。
それは、この宇喜多と敵対している勢力にして、中国地方の覇者。
同時に、俺が現実に戻るために行かないといけない出雲を、支配下に置く大大名だ。
それゆえに、俺が絶対に立ち向かわなければならない存在。
「近々、毛利が大量の兵を動員するという報告が入った。これからは血なまぐさい戦争が続くぞ」
俺に覚悟があるのかを、見据えてくるような視線。
だが、俺の考えはこの世界に来て以降、全く変わってはいない。
握っている手に力を込めて、俺は挑発的に微笑んだ。
「上等だ。俺は絶対に元の世界に帰るんだ。
そのためなら、どんな障壁だろうとぶち破ってやる」
俺には甘屋の発明品に加えて、職業柄の口先がある。
そして、アヤメに風薫と、信頼出来る仲間もいるのだ。
今さら恐れるものなど、なにもない。
「よろしくな、紫」
「ふん、脚だけは引っ張るなよ」
小憎らしいことを言って、紫も手を強く握ってきた。
さあ、次の目標は毛利家か。
完全な状態になった風薫も加えて、宇喜多家の総合力は高い。
未だ底の知れない宇喜多日和さんの最高潮を拝む時が、ついにやってきたようだな。
さて、俺のために消えてもらおうか。
少なくとも、そっちがやる気なら、こっちは殺す気で挑むだけだ。
俺はただならぬ闘志を胸に秘めて、毛利の領地を睨んでいた。




