第三十二話「竹中風薫の暴走」
――天守閣
「殿、一大事にございます!」
「何だ騒がしい」
座り込んだ妙齢の女性――斉藤道三の親類にして斉藤家当主・斉藤天馬はあきれたような声を出した。
小姓と碁に興じていた所に、家臣がいきなり怒鳴りこんできたのである。
そして、息も絶え絶えに、家臣は大声を上げた。
「奇襲にございます! 今この城は、軍勢によって攻撃を受けております!」
「馬鹿なことを言うな。旗印なぞどこにも見えないというのに。
兵がいきなり湧いて出たとでも言うのか」
「……真にございますッ。あれをご覧ください!」
家臣が指さした先には、燃え上がる城下町の姿があった。
つい先程まで温和な街であったのに、ここまで民衆の叫びが聞こえてくる。
その上、耳を澄ますと、聞こえてくる音があった。
兵が行軍したり鼓舞をするときに用いる、太鼓の音。
それが徐々に、この天守まで近づいてくる。
絶望にも聞こえるその音。
確実に斉藤家の太鼓ではない。
つまりは、何者かが悪意を持って行軍してきているということ。
姿の見えない軍勢が、この城に接近してきている。
「一体何が起こっているのだ!」
「情報が分断されており、何もつかめませぬ。
殿、しからばここは天守に兵を集め、最後まで抗戦するべきかと……」
「ふざけるなッ! お前は私に死ねというのか!?」
「しかし……民を救わぬことには――」
「放っておけ! 民が死んでも私には傷ひとつ付かぬ!」
そう言って、風雅は碁を蹴散らしてふすまを開けた。
そこに一切のためらいはない。
君主が民を見捨てて一人で逃げようとしている。
そのあまりに無様で滑稽な姿に、配下は何も言えなかった。
今はただ、燃え盛る城下に背を向けて、君主についていくだけだった。
◇◇◇
天守を飛び出た天馬は、小姓に馬を出すように指示を出した。
その時、ある違和感に気づく。
なぜ、ここまでの緊急事態なのに、配下が誰も集まってこない。
朝も早いとはいえ、ここまで誰も来ないというのはおかしい。
現に、自分のもとに来たのは、危機を知らせた武官一人。あまりに不自然だ。
しかし、その理由がわからぬまま、天馬は地を踏んで小姓を急かしていた。
「早くしろッ! 追いつかれてしまう」
馬小屋に怒鳴りちらし、小姓が出てくるのを待つ。
だが、頼みの小姓がなかなか出てこようとしない。
しかも、返事すらもしないのだ。背中に嫌な汗が伝う。
するとその時、馬小屋から声が聞こえてきた。
「……な、貴様! 何を、ぐわぁああああああああ!」
聞き慣れた小姓の声。
しかし、それは人が死の時に発する絶望の声だった。
馬小屋の戸口から、赤い液体が滴り落ちてくる。
そして、小姓の血液を大量に浴びた少女が、馬小屋から歩いて出てきた。
血に濡れた少女は、まさに死神のよう。
殺害衝動に満ちた手は、今にも刀を抜きそうなほどに怒りで震えていた。
「おや、思ったよりも出てくるのが早かったですね。ご自分の命が、そこまで大切ですか」
日本刀を携えた――竹中風薫。
年端もいかぬ少女が、己の小姓を斬り殺した。
こんなのっぴきならない緊急の事態のさなかでだ。
その事態に、天馬は憤慨した。
「この存亡の危機に、よくもふざけた真似をしてくれたな!」
「存亡の危機? 城下町で祭りをしている程にのんきな国なのに。
どうしてそんなに慌てているんでしょうね」
「ま、祭だと!?」
「ええ、民衆が突発的に開いたものですけど。
この早朝ですので、斉藤家の人もまだ寝ていて、止めるに止められないでしょうけどね」
口元に手をやり、風薫は笑いをこぼす。
少女の挙動は、落ち着いたものであった。
しかしその反面、天馬は自分の失態に気づいていた。
よく思い出してみれば、先程の阿鼻叫喚にも似た叫びは、絶叫ではなく祭りに喜ぶ声。
誰も天守閣に来ないのも当然。
この国は別に、どこの軍隊にも攻めこまれていないのだから。
つまりは、この少女にはめられた。
少女が張り巡らした術に、完全に引っかかってしまったのだ。
「――な、ならば、先程の太鼓は!?」
「ああ、野武士の方にやってもらいました。
軍勢が来たという偽伝を流したのも、彼らです」
その時、天守閣の茂みから何人かの女が姿を現した。
汚い格好だが、その両手には見事なバチを握っていた。
この少女は、自分を外におびき出すために、このような策をめぐらしたのだ。
そして、こうもノコノコと出てきてしまった。
「な、何のためにこんな事をッ!?」
「逆に聞きたいですね。なぜ私を処刑しようとしたのかを」
「……ッぐ」
その言葉を受けて、息が詰まってしまう。
同時に天馬は、この少女への多大なる恐怖を感じた。
最初は、風薫のあまりにも卓越した才能に嫉妬したのが始まり。
少女が竹中家を継いで以降、『斉藤家に神童あり』という噂が駆け巡った。
しかし、最初は自分の陣営に有能な武将がいることを喜んでいた。
そして、斉藤家はその勢いのままに他国を侵略していく。
総大将を天馬が担い、目がさめるような活躍をする。
だが、人々は、『斉藤家に明君』ありとは言わなかった。
ただひたすらに口を揃えて、『斉藤家に神童あり』。
自分がひたすらに努力して結果を出しても、さらなる能力で功績を上げる風薫。
その姿に、憎しみを覚えていくのはそう遅いことではなかった。
「……貴様は、邪魔なんだ。この斉藤家は、私のものなんだ。
なのに愚民どもは馬鹿みたいに口をそろえて、『竹中風薫は天下の奇才』などとのたまうッ!」
「それはあなたが無能だからです」
きっぱりと、風薫は言った。己の君主に対して。
己を殺そうとした人間に対して。無能だからそうなるのだと、完全に切り捨てたのだ。
下らないことで時間が潰れたと、風薫は辟易したようにため息を付いた。
「話はそれだけですか?」
「こんのっ……貴様ぁッ!」
怒りのあまり、天馬は懐刀を抜いた。
君主が直接戦闘をしようとしているのを見て、家臣も刀を抜く。
まんまとおびき出されてしまった。
自分の年齢の半分にも満たない少女に。
そのふざけた事実に、天馬は頭に血が上ってしまっていた。
ここで引き返して天守に逃げ込んでいれば、まだ望みがあったかもしれないのに。
いや、それすらもあり得ないのだろう。
背中を向けたところで、この殺意の塊から逃げきれるはずもないのだから。
危険な火薬袋に火を付けてしまったのは、他ならぬ斉藤天馬。
妄執の復讐鬼と化した少女を鎮火しようと、天馬は意気込んでいた。
「うぉぉああああああ!」
家臣が正眼の構えから、風薫に向かって斬りかかる。
所詮は自分よりも圧倒的に体格の劣る少女。
小細工をさせなければ、押さえ込めるはず。
しかし、それは少女に対しての場合だ。
竹中風薫は、常識の通じる相手ではない。
形容するならば、少女の皮をかぶった羅刹。あるいは鬼神。
常識で測れない圧倒的存在に、通用するはずがないのだ。
家臣の猛進は、下から跳ね上がるようにして伸びてきた斬撃によって、容易に打ち止められた。
右腰から首にかけてを、少女の日本刀で切り裂かれる。
あまりにも流麗な切っ先。痛みを感じることもなく、家臣は絶命した。
それに目もくれず、風薫は君主の姿を見据えた。
己を殺そうとした人間。
風薫の瞳に宿った光は、殺意一色に染まっていた。
その眼を見て、天馬は完全に無謀だったことを悟る。
この少女を、処分しようとしたのが間違いだった。
その結果が、これだ。
「……ま、待て! 分かった、私が悪かった!」
「何が悪かったんですか?」
「もう不遇に扱ったりしない!
褒賞を与えて、居城もくれてやろう! だから、だから――」
「――死ね」
往生際の悪い君主に対して、風薫が言い放った言葉は、わずか二文字だった。
――『死ね』。
それは、殺意を鎮める唯一の方法。『殺害』につながる呪詛の言葉。
風薫の日本刀が視界に入った瞬間、斉藤天馬の意識は途切れた。
汚れた日本刀を拭い、納刀する。
その時、連絡をしていた本命が、はるか向こうの山から姿を現した。
すべてを飲み込むような圧倒的な軍勢。
もちろんそれは、斉藤家の兵ではない。
むしろ、斉藤家に破滅をもたらす存在だった。
「――やれやれ、恩を売れていれば良いのですが」
返り血を滴らせながら朝日に映える少女の姿は、どこまでも妖しかった。
同時に、少女が己の中に眠る衝動に気付き初めたのも、この時である。
――この事件は、通称『美濃謀反』。
重臣らが一切死ぬことなく、君主が抹殺された前代未聞のクーデター。
この後、斉藤家の混乱の隙に乗じて、足利家が斉藤家を滅ぼすことになる。
そのきっかけを作ったのが一人の少女だということは、ここから更に数年後、近畿地方一帯に轟くようになる。
なぜなら、この国で発生した事件が、他の国でも起きるようになるのだから。
――5年間。
その間に、『斉藤家』・『畠山』・『六角』・『北畠』・『朝倉』・『浅井』の勢力が滅亡する。
末世を思わせる激動の中心にいたのは、やはり一人の少女だった――
足利家にとっては幸運をもたらす天使。
しかし他の近畿の大名にとっては、悪魔以外の何物でもなかっただろう。
自分を認めて欲しいという少女の願望と、爆弾を抱えたくないという勢力の本音。
その両者の食い違いは、決定的だった。
5年間もの間、近畿地方の勢力図をかき回した暴走。
しかし、竹中風薫の暴走は、ある勢力に仕えようとした時、終わりを迎える。
少女の火を最後に強制鎮火した勢力。
それは、竹中風薫を利用して近畿一帯を制圧することになる、天下の将軍家――足利だった。




