第三十一話「竹中風薫の過去」
暗い夕暮れ。
部屋の中には、少女と一人の男がいる。
男は酷くやせ細っており、歳にそぐわない皺を刻印のように刻みつけていた。
あまりにも壮絶な闘病が、彼の体を蝕んだのだ。
元来身体の弱かった所に、肺結核と謎の疫病。
天から与えられた能力を十分に発揮できないまま、男は床に臥していた。
その男の名は竹中重治。通称半兵衛。
先の疫病で家臣団や君主が急死する中、彼は国を守ろうと必死に努力していた。
楽しく兵法を語り合っていた友人が次々と死んでいく。
彼の眼は、疲れに満ちていた。
布団に寝ている彼のそばにいるのは、一人の少女。
竹中風薫だ。この時の風薫はまだ10歳程度。
半兵衛が子供を授かっていなかったので、竹中家の跡は彼女が継ぐことになっていた。
それはあまりにも重い責務。
しかし、精神的に早熟だった彼女は、自分の運命を見定めていた。
「風薫、そこにいるのか」
「います」
「私の姿を見てどう思う?」
「二度と朝日を見られぬ身体かと」
「……はは、正直だなお前は」
半兵衛は力なく乾いた笑いを上げる。
やせ細った手で、風薫の頭をくしゃくしゃと撫でた。
重治は優しく嗜めるように、これからの指針を示す。
「武士は常に学ばなければならない。風薫、私が残した書物をよく読むようにな」
「昨日で半分終わりました」
「……はは、相変わらずお前は末恐ろしいな。撃剣の稽古も欠かさないように。
師範代に後のことを任せてあるから、きちんと奥義を受け継いでくれよ」
「一昨日で免許皆伝をもらいましたが、まだ奥義があるんですか」
「…………」
重治は、一瞬身震いした。
一揆を鎮圧した時に拾った娘が、まさかここまでの才を秘めているとは思わなかった。
だからこそ、最後まで余すことなく、自分の兵法を受け渡したかった。
しかし、重治が今までに習得した軍事と内政の妙技を、風薫は人間離れした速さで覚えていく。
その鬼才振りを見て、重治も後悔は消えた。
今はただ、この体を蝕む激痛と、別れたいだけだった。
この少女に、一つの忠告を与えて。
「いいか、風薫。これだけは自覚しておけ。――お前は危うすぎる」
「……危うい?」
それは、これから先に他の男にも言われることになる言葉。
この傑物は、使い方によっては国を大国に導き、失敗すれば国を滅亡へと追いやるだろう。
それが分かっていた重治は、呻くようにしながらも声を出した。
「私が死んだら、お前は鞘のない抜き身の剣になってしまう。それが一つだけ気がかりだ」
「……精進します。心配しないで下さい」
「なあ風薫。才能を持っている人間が、他人から一番向けられる感情はなんだと思う?」
その問いに、風薫はしばらく考えこむ。
天上を眺めて、自分なりの答えを導き出そうとする。
そして、緩やかに少女は口を開いた。
「……恐れ、でしょうか」
「外れだ。やはりお前は危なっかしいよ。
人は純粋に恐怖なんてものを持ってくれない。
そこにあるのは、恐れを圧倒的に上回った嫉妬だ」
――嫉妬。
才能を誰よりも持ったがために、誰からも拒絶される。
人は自分の下を見て優越感に浸る傾向にある。
そんな人間の中にこの少女を晒せば、国が揺らぐことだろう。
しかし、身体に力が入らない今では、それが分かっていても止められそうに無かった。
だから、今のうちに選択肢を与えておく。
少女が自分の人生を歩めるように。
「風薫、お前はこれからとんでもない失敗をするだろう。
周りを巻き込みながら、全てを壊しながら」
「……? はい」
「その時、責任を感じて自害するもよし、図太く生きて才能を発揮するもよし。
お前の自由だ。お前の人生なんだからな」
風薫はコクリコクリとうなずきながら、父親の言うことを書物に書き留めていった。
その書体は、少女らしからぬ達筆だった。
「ただ、いつかお前は自分を許容してくれる鞘を見つけるかもしれない。分かるか? 鞘だ」
「私を刀に見立てた時、その方が鞘になるということですか」
「そうだ。鞘は刀を休ませ、その清純な輝きを保たせる。
そんな奴に出会うことができるのなら、私に気がかりはもう何もない」
もっとも、こんな化け物じみた能力を持つ少女を懐に入れたがる人間なんて、一人もいないだろうが。
重治はそう思ったが、口には出さなかった。
いずれ、少女が自分で気づくこと。
中途半端な回答を与えても、困惑するだけだろう。
うつろな目をする重治は、雲をつかむかのように手を伸ばした。
「……悔しいなあ。いつか見た、夢の通りになればいいのに」
「夢、ですか」
「ああ。そこでは私がある人物に誘われていてな。
断っても断っても勧誘しにくるから、その猿みたいな御仁について行ったんだ。
そしたらその方は八面六臂の大活躍。
その横で、私も高らかに笑っているんだ。その私は実に楽しそうだった」
それは、妙に現実じみた夢だった。
まるで、今ある現実こそが、誰かに見せられている夢なんじゃないか――そう思うほど。
「――我、夢に胡蝶なるか。胡蝶の夢に我なるか」
枯れた喉で、重治はつぶやいた。
いつか見た夢の続きに没入したいのか、その目を緩やかに閉じていった。
ひぐらしが鳴き、各国で騒乱が始まる頃、一人の英傑が芽を出さずして死を迎えた。
言われたことを書き留め終わり、風薫はゆっくりと筆を置いた。
「お疲れ様です、父上」
慈愛に満ちた表情で、彼の死を看取った。
時を同じくして、少女の鞘がこの世から消滅した。
そしてこれから、地獄が始まる。
◇◇◇
竹中重治という巨星が堕ちて数年後。
風薫の立場は苦しくなっていた。
気味が悪いほどに何でもできる万能武将。
それも、齢10の少女がだ。
兵法を修めて武芸十六版を習得する小娘――そんな存在、迫害される対象以外の何物でもなかった。
重治はそのことを見越して、後見人を立てて風薫を預けていた。
その甲斐あって、彼女が周囲の家臣から疎まれることはなかった。
しかし、その後見人までもが疫病に倒れると、いよいよ彼女は嫉妬の雨に晒されることとなった――
「……痛っ」
「邪魔だ小娘。謹慎を食らっているはずだろう、こんな所をうろつくな」
「でも……今人手が足りないと聞いたので、微力ながら力になれることがあるかと……」
「ないッ! 皆無だ。とっとと消え失せろ!」
米を徴収する現場に、風薫は立っていた。
今しがた通過した斉藤家の女武将は、風薫を唾棄するような目で見ていた。
なぜか仕事を任されず、君主からは『無期限の謹慎』を命じられる始末。
風薫はこの頃になって、重治の言っていた言葉を思い出した。
しかし、思い出しても、どうすれば良いのかが分からない。
残された書物や秘伝書を吸収したは良いが、処世術だけは誰からも教えられていなかった。
無論、重治が後見人に頼んでいたのだが、その後ろ盾が亡くなった今、残ったのは膨大な力を持つ未熟な少女だけ。
圧倒的知識と武力はあれど、致命的に経験が足りない。
こんな危ない存在を、君主も使いたくなかったのだ。
「……何で、こんな目に」
風薫は、一人で空を仰いでいた。
何とか信頼を得ようと働いても、全て制止されてしまう。
手綱の取れない大馬は、どこに行っても重用されない。
そのことを、最近になってようやく理解し始めていた。
仕方がないので、風薫は家に帰っていた。
一人で書物に向かい、自分を理解してくれる人をずっと心待ちにしていた。
――そんなある日、風薫はある役職に任じられた。
15を過ぎたばかりの少女に与えられた仕事は、『米蔵の守備』だった。
初めての仕事に、風薫は二つ返事で了承した。
初めて自分の能力を、自分を認めてくれた。
胸の中は充実感と期待に満ちていた。
しかし、はしゃぐ少女を見て嘲笑う家臣たちの存在に、この時点では気付かなかった。
「娘、米の管理はできているか」
「はい、大丈夫です。米1つ分まで確認して、損失はありませんでした」
「……気味の悪いやつ。
よいか、もし米倉の管理すら出来ないようなら、腹を切ってもらうとのお達せだ」
「き、厳しくないですか?」
「不平があるなら解任しても構わんが」
「いえ、やります」
「分かれば良い、口答えは二度とするな」
今日も、米倉に兵糧が担ぎ込まれてくる。
すっかり夜も更けたが、勘定が残っている。
もくもくと、自分に与えられた仕事を微塵も間違えず、達成していた。
職務を終わらせて家に帰る。
家路についた時には朝日が上っていたこともあった。
それも当然、本来なら数十人がかりで行う仕事を、少女一人に押し付けていたのだから。
――その夜明け
「おい、小娘ッ!」
「は、はい? 何でしょう……」
「貴様、欲に負けて兵糧を横流ししたな?」
「……え」
早朝に叩き起こされ、風薫は重臣に怒鳴り散らされていた。
その重臣の話によると、風薫が溜め込んでいた兵糧を、闇商人に売っていたというのだ。
しかし当然、全く見に覚えがなかった。
「そんなこと、しませんよ」
「証拠は上がっているんだッ!
商人の部屋から貴様への買取証明書が見つかった。
近隣の農民も、貴様がその闇商店に出入りしていると証言している」
「……そんな」
無実なのに、完全に追い詰められてしまっている。
こんな、勝手な捏造によって。
管理ができなかっただけで、腹を切らされる。
ならば、こんな悪行を働いていたと誤解されてしまえば?
無論、死罪は免れないだろう。
その時、風薫は気付いた。
自分を取り巻いていた家臣の嘲りの目も、君主が近頃彼女を冷遇していた理由も。
同時に、少女の胸に湧いてくるものがあった。
それは、溶かした鉛のようにドロドロで、何よりも黒い感情。
自分の立ち位置を理解した途端、凄まじい衝動が彼女を襲った。
「……そうだったのか。バカらしいなぁ」
「黙れッ、弁明は城で行うんだな。さぁ、来い!」
その瞬間、風薫の手が腰の物体に伸びた。
それは、武士が携帯している殺傷武器――脇差。
刀身を滑らすようにして鞘にこすりつけ、鮮やかな抜刀を行う。
その刃は重臣の腹から胸にかけてを、大きく斬り裂いた。
「……ひぅッ!?」
声にならない悲鳴を上げ、重臣の女はのたうち回る。
身体からこぼれ出る血潮を、絶望的な目で見ていた。
しかし、風薫はその姿を見て、更に眼光を鋭くさせる。
「この茶番は、誰が仕掛けたんですか?」
「き、貴様……ッ! こんな事をしてただで済むとッ!?」
「うるさい」
返す手で、重臣の肩口を深く斬り裂いた。
それも、失神できないように調節した力の具合で。
目をむいて苦しむ女の胸を締め上げ、風薫は問いを続けた。
「この件の黒幕は誰ですか?」
見当違いのことを答えたら、今度こそ殺す。
そんな意思表示を見せて、風薫は女の襟元に力を加えた。
「……と、殿様だよ! 危ない種は今のうちに摘むべきだとッ!」
「ああ、そうですか。
日和見主義の君主にしては、ずいぶん手荒なことをするんですね。
しかも、小娘一人に対して」
胡乱な目をして、風薫は切っ先を鞘に戻す。
そして、その瞳は君主が鎮座する城を向いていた。
「な、話したから。もう勘弁してくれッ!」
涙と涎をまき散らしながら懇願する重臣を、風薫は冷たい目で見つめる。
風薫が処刑されることを分かっていて、陰謀に加担していた女。
風薫の内心に渦巻く感情が、それを思い出して再び暴れ狂った。
ゆっくりと、風薫は重臣を地面に下ろす。
すると、女は苦しそうに咳をしながら、風薫に背を向けた。
その瞬間。
――ヒュカッ
鋭い剣閃が、重臣の背中を横一文字に薙いだ。
脇差ではなく、大振りな日本刀で。
今度こそ、致死傷を浴びた女は、声も出さずにその場で絶命した。
それに目もくれず、風薫は城を睨みつける。
「……奪うには、人手が足りませんね。
あの方は私を米泥棒にしたいようでしたから、乗ってあげましょう」
そう言って、風薫は米倉に戻る。
そこで持てるだけの兵糧を台車に載せ、走りはじめた。
行き先は、モノさえ貰えれば動く野武士集団。
目標は、自分を破滅に追い込もうとした君主。
風薫の胸中は、殺意の炎で燃え盛っていた。




