第三十話「竹中風薫の衝動」
雨が降っている。それも嫌に湿っぽい。
天気が悪い日は、気分がどうも優れなくて好きじゃない。
風薫の部屋の前に行き、一声かける。
「風薫、いるか?」
障子の木枠を軽く指で叩く。しかし、返答はない。
着替え中でないことを祈りつつ、障子をゆっくり開けてみる。
しかし、そこにも風薫の姿はなかった。
「……おかしいな」
トイレにでも行っているのだろうか。
一刻も早く話したいことがあるのに。
このまま待っているのは気が進まない。
とりあえず、風薫が見つかるまでその辺りをぶらつくことにする。
アヤメの部屋を通り、湯屋の前を通った。
しかし、どこにも彼女の姿はない。
少し不安になりながら、敷地内を練り歩く。
靴を履いて、庭の辺りに出てみる。
面積の広い池に、あちこちに乱立する灯籠らしき石塔。
そして、その池の中心部。
中洲となっているような地点に、彼女の姿があった。
空を見上げて、風薫は何かを考え込んでいる。
その端正な顔に、一滴づつ雨粒が滴っていく。
「よお、風薫」
「あ、どうしましたご主人様」
「こっちのセリフだよ。そんなにずぶ濡れになったら風邪引くぞ」
「大丈夫ですよ。後でちゃんと湯浴みをしますから」
風薫は屈託なく笑う。
そう、こいつはいつも笑顔を絶やさない。
無邪気な顔を見ると、敵意すらも消滅してしまう。
「なあ……風薫」
「はい」
「お前、俺と会うまではどうしてたんだ?」
「……え」
俺の問いかけに、風薫の表情が曇る。
ポツポツと、滴る雨が妙に感傷的だった。
「どうして、そんなことを訊くんですか?」
「お前ってさ、危なっかしいよな」
有耶無耶にされる前に、話題を切り替える。
俺に有利な流れになるように。
少女は喋ることに関しても鬼才を持っている。
そんな彼女に尋問まがいの事をするのだから、邪道を持って話すしか無い。
「危なっかしい? そんなことはないですよ。
むしろ、その言葉はご主人様にこそ向けられるものだと思います」
「そういう意味じゃないんだ」
「じゃあ、どういう意味なんですか?」
俺と少女の間に軋みが生じる。
風薫は、自分の腹を探られ始めていることに、気づいている。
それは多分、俺に知られたくない、こいつの陰だ。
俺があえて訊かなかった、詮索しなかった部分。
そこに、今になってから探りを入れる。無論、いい気分はしない。
「お前さ。一度でも心から笑ったことがあるか?」
「いつも私は笑ってますよ?」
「それは外面だけだ。
人を騙そうとするときに被る偽物の顔。見抜けないと思ってたのか」
そう、こいつが何かを隠していることは、何となく分かっていた。
しかし、紫に言われるまで、それが危険なことだと気付かなかった。
「どうして、そんなことが分かるんですか?」
「詐欺師だからな。
人一倍誰かを騙してるから、他人の嘘にも敏感なんだ」
「……そっかぁ、気付いてたんですね。
悔しいな、バレないように、上手く隠してたんですけどね」
空を見上げて、風薫は自嘲的にぼやいた。
多分、アヤメは気づいてなかっただろうな。
こいつは、無垢で無邪気なはずなのに、己を偽る方法を熟知している。
それはきっと、凄惨な過去が生みだした産物なのだろう。
「ご主人様、殺意を持ったことはありますか?」
「あるな、常に殺意で満ちてるよ」
即答した。親父という存在がなければ、こんな歪んだ感情を持つことはなかった。
俺は今でも、母さんを死に追いやったあの男を許せない。殺したいほどに。
俺の負の感情を肌で感じたのか、風薫は満足気に首肯する。
「そう、殺意というのは誰でも持ちうると同時に、特別な感情なんです」
「……何が言いたい?」
「でも、私にとって殺意というのは、特別じゃないんです」
俺を見据えて、風薫は言った。
誰かをこの世から抹消したいという負の感情の極地――殺意。
それは、特別なものではないのだと。
「私はですね、少し異常なんですよ。
敵意を向けられたり裏切られたりすると、すぐに殺意が湧いちゃうんです」
「……それは」
「誰かに叩かれた、殺したい。
誰かに反論された、殺したい。
誰かが私を冷遇した、殺したい。
好きな人が私以外の人と親密にしている、殺したい――
私は常に殺意で満ちています」
風薫は、悲しそうな目をして言った。
あまりにも常軌を逸した告白。
人間としての倫理が、崩壊している。
「風薫、お前――」
「そう、私はこういう人間なんですよ。常に半着火状態の火薬。
この戦国の世で生きるには、あまりに致命的な欠陥なんです」
先ほど、紫は風薫を『いつ爆発してもおかしくない』と評した。
それが人を形容する言葉かと憤慨しそうになった。
しかし、どうやら的を射ていたらしい。
まさに、少しでも衝撃を与えたら爆発する――爆弾。
「……でも、アヤメと闘った時。
あの時は、殺意なんて見せてなかったじゃないか」
「ああ、それはご主人様がいたからですよ」
「俺が?」
「はい。私を拾ってくれた恩人の望まないことを、したくはなかったんです」
俺がいたから、暴発しなかった。つまり、俺がいなければ?
あの極限の状態で、風薫がアヤメを組み伏せた時、どうなっていたんだ。
考えるのも恐ろしい。
木刀をアヤメの首に突きつけた段階で、殺す準備が整っていたのか。
でも、それでも――
「そんな気遣いができるんだから、お前は欠陥製品じゃないよ」
「優しいですね、ご主人様は」
クスクスと、肩を震わせて笑う。
傍から見ればおかしくて笑っているように見えることだろう。
だが、これは違う。
人間が会話で追い詰められた時、とっさに出る防衛反応だ。
核心を守ろうと、笑ってごまかそうとする、人間特有の弱み。
「でも、ダメなんですよ。今も正直言って、刀を抜いてしまいそうな状態なんです」
「その刀を抜いて、どうするんだ?」
「独占欲。それだけ言っておきます」
ああ。さっき言っていた、殺意が湧く条件。
それに、俺も引っかかっているのか。
どれだろう、どれが風薫の琴線に触れているのだろう。
「ご主人様が他の人と楽しそうに話しているのを見ると――
胸がムカムカして、やるせないんです。全身が疼くんです」
ああ、そんな理由で俺に殺意が湧いていたのか。
俺がアヤメや紫と話す――それだけで心が穏やかじゃなくなる。
戦国の世で生きるには、致命的な欠陥。
風薫は自分のことを嘲るようにして、そう言っていた。
しかし正直言って、たとえ太平の世でもその異常は大きなハンデとなるだろう。
それ程までに特化しすぎた、殺人衝動。
「ご主人様が私の物じゃないことなんて、分かってるはずなのに。
そう言い聞かせて必死に抑えているんですけど、いつかは爆発してしまいそうで……」
害を被った勢力や人物は、確かにたまったものではないだろう。
二度と危険因子が入らないように、大名たちは馬鹿げた懸賞金を掛けてまでして、風薫を殺そうとしている。
でも、それは違う。違うだろう。
本人は必死に抵抗しているんだ。
異常な衝動を抑えこもうと、必死に頑張っているんだ。
それをサポートもしてやらず、危険だからといって処分しようとするのは、あまりにも酷すぎる。
そんな手法で追い込むから、自分の本性を隠して生きなければいけなくなるんだ。
今の風薫のように。
それが悲劇だということが、今まで風薫の周囲にいた人間には分からなかったのか。
俺は汚い手を使うのは好きだが、外道な手を使うのは大嫌いだ。
吐き気が込み上げる。
だから俺は、そんな勢力とは違う。
だから――
「いいよ、爆発しろよ」
「……え?」
「爆発して炎上しても、俺がその火を消してやる。
だから、自分から目を背けようとするな」
他人に嘘をついて、その上自分に嘘をついて、何が残るというのか。
自分に立ち向かう力が足りないなら、誰かに頼れば良い。
少なくとも、今の風薫は一人ではないのだから。
「本当に優しいですね、ご主人様は。
そんな甘い考えじゃ、寝首を掻かれてしまいますよ」
「お前に掻かれても恨まないよ」
嘘だけどな。正味は誰にも危害を加えられたくない。
しかし、こいつが一人前の人間になれるなら、それも悪くない。
俺だって一人前なんて言えたもんじゃないけどな。
――私たちは半人前の幸せしか持っていない。しかし皆が一つとなった時、幸せは一人前となる。
誰の言葉だったか、綺麗ごと過ぎて笑えそうだ。
でも、まんざら間違ってはいない。
一人が嫌だからつるむんだ。
一人じゃ出来ないから誰かに頼るんだ。
それを責めることは、絶対にしてはならない。
「……じゃあご主人様、一つ昔話をしていいですか?」
「ん、ああ」
「これを話すと、本当に心に火が付きそうなんですけど――」
「構わない。お前がどんな過去を背負ってても、俺は今の風薫を信じる」
「……そう、ですか」
俺が自信を持ってうなずいてやると、風薫は安心したように息を吐いた。
決意を込めた瞳のまま、口を開く。
そこから出てきた話は、少女が奴隷になって詐欺師に拾われるまで。
それまでの凄惨な過去を綴ったものだった。
少女の不安定は、ある男の死から始まる――




