第二十三話「閑話・発明少女のナイトメア」
油まみれの手を、綺麗と言ってくれたのは彼が最初だった。
汚いから触らないほうが良いよと言ったのに、頑なに手を離そうとしなかった。
その時涙が出そうなほど嬉しかったことを覚えている。
きっとそれは、初めて私のアイデンティティーが報われた瞬間。
そう、彼は私にたくさんの初めてをくれたのです。
◆◆◆
先輩の救難信号を受けて、バイクをすっ飛ばした瞬間、雨が降ってきた。
しとしとと、古びたヘルメットの隙間を通り抜けて、私の髪を濡らしていく。
――私は、雨が嫌いだ。
雨を見てると、中学生時代の嫌なことを思い出す。
でも、だけど同時に、先輩に出会ったことも思い出すことができるから、思い出自体は嫌いじゃない。
目の前の信号が赤に変わった。
帰宅ラッシュは過ぎたものの、未だ交通量は多い。
ヘルメットの雨よけには、あの日の映像が写っていた。
私が先輩に出会った、あの時を――
『あれ、傘がない……』
中学2年生となって、クラスに溶け込めなかった私は、一緒に帰る友達がいなかった。
嫌に湿った雨が降りしきる中、さっさと帰ろうと下駄箱に来たのであるが……。
傘立てに置いておいたオレンジ色の傘が、どこにも見当たらなかった。
嫌だなあ……あの傘、お母さんが生前に使ってた、私の宝物なのに。
いつも、嫌な雨の日は、お母さんの傘と一緒に登下校することで、この心は安らいでいたのに。
目の前が真っ暗になる感覚と同時に、周りからさげすむような声が聞こえてきた。
『……困ってるよね、あの子』
『バカ、放っといたほうがいいって。
甘屋さん、年上の不良に目を付けられてるんだから』
ヒソヒソと、聞こえるか聞こえないかの音量で、周りの人が私のことを語っている。
私は苛立ちとともに、女の子達を睨んだ。
すると、その密談をしていた女の子達が、蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。
だけど、どうやら私の視線で逃げたわけではないようだ。
その証拠に、女の子たちがいた奥のほうから、見知った顔が歩いてきた。
装飾過多な茶髪に、あちこちに開けたピアスの穴。
不良であることを外観が誇示している、不良男の登場だった。
その数3人。以前から、私に嫌がらせをしてきた人達だ。
『よー、相変わらず気持ち悪りーな。、
変なガラクタ学校で作っちゃってよぉ。今度はここで何してんだ?』
『俺らが壊しても、また翌日作っててよ。
学習能力ねーのかテメー、って感じだよな』
『で、どうしたんですかー?
いつも大切にしていた傘がないとか、そういう状況ですかー?』
何となく、分かってはいた。
こういう時はいつも、この不良たちが犯人なのだ。そうじゃなかったことは、一度もない。
気丈に振舞っていたら飽きてくれるかなと思ったが、それは逆効果だった。
始まりは、私に足を引っ掛けてきたこと。
それでも変わらず過ごしていたら、どんどん行為はエスカレートしていったのだ。
『傘ー? こいつそんなの大切にしてんの? 気持ち悪……』
『言ってやるなよ。こいつにはそれしか友達がいねーんだって』
『まあ、見つからなくてもまた作ればいいんじゃね?
いっつもキショイ機械仕掛けのゴミ作ってるじゃん』
男生徒たちは大笑いする。
もう慣れた光景とはいえ、胸の奥が刺で貫かれたような痛みが走った。
……嫌だなあ。
もう、私に構ってほしくないのに。
謝ってほしいのなら謝るし、金を出せって言ったら出すから。
……もう、私の世界に入って来ないでくれないかな。
理解してくれなくていいから、孤独でいいから、邪魔だけはしてほしくないのに。
『聞こえてマスカー?』
『耳がないんじゃねーか?
補聴器でも作ろうとしていっつもカチャカチャやってるんだろ』
『傘が大切ならさー、持ち主が学校辞めればいいんじゃねーかな。
そしたら出てくるかもよ? 骨が折れて生地が裂けたボロボロの傘がさっ』
最後のセリフとともに、男の子が私の足を蹴ってきた。
どうやら、私が無反応だったことが癪に障ったようだ。
『うぜぇよ、お前』
『おいおい、自殺に追い込むようなことすんなよ。
また新しい的探さないとダメになるじゃん』
『ストックなんてもういないんだからさー。細く長く苛めていこうぜ』
ああ、そうか。
この人達は、別に私が気に食わなくて絡んできてるんじゃないんだ。
単なる、ストレス解消。あるいは、ゲーム。
そんな感覚で、毎日私を苦しめているんだね。なんで、私なのかなあ。
確かに、私は人と違うっていう自覚はある。
伯父さんに憧れて、発明家になろうって夢もある。
でも、だからこそ私は、絶対に諦めることはない。
だけど、もう苛められるのは疲れた。こんなに鬱屈とした状況が続けば、当然金属疲労だって発生する。
もう、疲れたよ。だれか、助けてくれないかなぁ。
他力本願でも、この嫌な連鎖から抜け出したいよ。
『無反応も面白くないので、これからこの傘を公開処刑しまーす』
『……っ!?』
私が何もアクションを起こさないのを見て、不良の一人が傘を取り出した。
鮮やかなオレンジ色、郷愁を誘うその傘は、間違いなく私の傘だった。
男はその傘に力を入れ、へし折ろうとしている。
『いいねいいね、面白そうじゃん』
『や、それだけは……やめて』
『黙っとけよ!』
行為を止めようと身を前に出した途端、不良の一人が私の首を掴んできた。
そのまま、ギリギリと首を圧迫してくる。
……苦しい。苦しいよ。
目の前で、お母さんの遺品を壊されかけて。
首を、折れそうなほど締め上げられて。
……もう、嫌だ。
この状況から抜け出せるのなら、もう苦しまなくていいのなら、悪魔に魂を売ってもいいから。
――だから、誰か助けて下さい。
『へし折りまーす。カウントダウンよろしくー』
『はい、さーん』
『にー』
『やめ……やめてよぉ……』
『いーち』
『参りまーす』
不良の男が、足を支点にして傘に負荷をかける。
ミシ……嫌な音とともに、傘が形を歪めていく。
あれほど綺麗だった傘が、無残なものに変わり果てようとしている。
だが、不良たちはただ笑うだけで、全くやめようとしない。
そして、遂に傘の張力が臨界点を迎え、男が大きく力を入れた瞬間。
――ベキャッ
絶望的な音が、耳に届いた。
なんだか急に、眼から涙が溢れてきた。
大切な物をなくしてしまった。そう思った。
だけどその刹那、それよりも更に大きい音が耳をつんざいた。
『いってっぇぇぇぇえええああああああああああああああ!』
絶叫を上げ、不良の男は傘を中に投げ出す。
それを見て取った瞬間、私は傘をキャッチしようと身体を暴れさせた。
呆気にとられていた男の手はいとも簡単に首から剥がれ、体を滑り込ませることに成功した。
なんとか、傷まないよう傘を掴む。
その傘を掻き抱くようにしながら、何が起きたのか知ろうとする。
見れば、不良男の腕が変な方向に曲がっていた。
どうやら、折れているようだ。
『誰だてめぇ!』
男が一喝した方向には、変な機械が存在していた。
バッティングセンターでよく目にする、あのピッチングマシーンだった。
何故こんなところに野球部の備品があるのか、それは分からなかった。
だけど、再び放たれてきた豪速球がもう一人の男の胸に直撃した時、その操縦者の意図は理解できた。
『この野郎……。てめえか、伏見!』
『そういうお前はアホの武井か。いやー、悪い悪い。
野球部の馬鹿に腹立ってこいつを騙し取ってきたんだけどさ。
性能がどんなものかと思ってテストしてたんだ。あるよなー、こういうこと』
屈託なく笑いながら、その操縦者が姿を現した。
身長は、そこまで高くない。
体重もそこまであるようには見えない。
おそらく、不良が一人で戦っても勝てるくらい貧弱だ。
だけど、その姿はとても頼もしく見えた。
『こんのペテン師がぁっ!』
残った男は、両腕で顔と胸を防ぎながら突撃した。
これでは、直撃したとしても有効打にはならない。
このままでは、明らかに不利な肉弾戦を仕掛けられてしまうだろう。
しかし、彼は落ち着いたものだった。
『売れるかなー、この中古品。
まあいいや。次はフォーク試してみよう』
そう口走った瞬間、不良の男の表情が青ざめた。
フォーク。
野球のおける球種で、急激に落ちる球。
あまり野球に詳しくはないけど、それくらいは分かる。
――フォン
風を切るような音が響いて、球が打ち出された。
最初の予想到達点の高さは顔の位置。
でも、残り5メートルの距離といったところで、急激に落下を開始した。
不良男の顔が張り詰める。
唸りながら疾走する球は、不良男の股間に直撃した。
――ズドン
何かが破砕したような。あるいは何かが終わってしまったような音が響いた。
もう一度言う。
当たった場所は、股間だ。
その部位に130km級の球が直撃した結果になった。
そこに物が当たるのがどれくらい痛いのかは分からないけど、脂汗を掻きながら倒れ伏した不良男を見るに、その痛みは尋常なものではないみたいだ。
『悪い。もうちょっと下狙っときゃよかったな』
十字を切って。彼はこちらにピッチングマシーンを押してくる。
ゴロゴロと、唸るようにしてローラーが回転していた。
当たった場所が比較的浅かった不良男が立ち上がろうとしたのを見て、彼はローラーで轢いてしまった。
重い機器が、不良男の意識を刈り取っていく。
『往復っ、往復っ』
確認のためか、彼は何度も男の上をピッチングマシーンで轢いていった。
しかも笑いながら。
若干の狂気を感じたけど、この状況から助けてくれたという事実のほうが大きくて、そんなことはさほど気にならなかった。
『……あっ、ローラー壊れた。
もう売れねえじゃんこれ……。後で部室に返しとくか』
彼はそのまま去って行こうとする。
追うようにして私は慌てて彼の裾を掴んだ。
『な、なに?』
いきなり掴んだのに驚いたのか、彼は若干冷や汗を浮かべながら訊いてきた。
『助けてくれて、ありがとうございます』
私が必死にお礼を言うと、彼は『テストしてただけだから』と言って首を横に振った。
首元の校章を見る限り、この人は先輩であるらしかった。
『私は甘屋茜です。あの……名前を教えてもらってもいいですか?』
このまま行かせてしまっては忍びない。なんとしても、お礼ぐらいはしたかった。
あの最大級の絶望から、私を引き上げてくれたのだから。
『俺の名前は万事院田吾作』
――ピー、ピー
すると、いきなり私の胸元に入っていた機械が、赤い光を放ちながら鳴り始めた。
その様子を見て、先輩は怪訝な表情を浮かべた。
『今、嘘つきました?』
『なっ……。嘘発見器かよそれ』
私の胸をまじまじと見つめながら、先輩は溜息をついた。
そして観念したように口を開く。
『俺の名前は伏見春虎。てか、お前面白い物持ってるな。
嘘発見器って吸盤みたいなのをペタペタ貼る必要があるはずなんだけど。
それどこで買ったんだ?』
『いえ……これ作ったんです』
『……マジで?』
『はい』
私が自信を持って頷くと、先輩はいきなり鋭い視線を放ち始めた。
何やらブツブツと独り言をし始める。
『……うまく利用すれば…………。
いや、でも凄い才能かもしれんし…………。
……上手く行けば、仕事がはかどる…………』
難しい顔をしながら難しい話の算段を立てているらしかった。
しばらくの沈黙の後、先輩は私に微笑んでくる。
『金があれば、スタンガンとか発信機とか作れそうか?』
『スタンガンなら多分……。
作れない物でも、一回ばらせば作れます』
私が実力を語ると、先輩の眼が子供のように輝いた。
正直、もの凄く魅力的な容貌だ。
『そうか。じゃあ、これから変なこと頼むかもしれないけど。
金を出せば作ってくれるか? 俺はお前の才能に惚れた』
『は、はいっ。私にできることなら』
嬉しかった。
私を助けてくれたというのもそうだし、私の発明を当てにしてくれるという事実も、より一層私を心躍らせた。
この人のためなら、多少無理してでも力になりたい。
――この時そう思ったのだ。
私の返答に満足気にうなずくと、先輩は倒れた不良たちに近づいていった。
その中の首領格、先程武井と言われていた男の元にしゃがみこんだ。
『よう武井。気絶から復帰して早々で悪いが、一つ命令を出しとくぜ。
二度とあの娘に近付くなよ』
『……う、ぐぐ』
先輩が武井という男の頭をはたく。
すると、恨みがましい目で先輩を睨みつけた。
『……伏見ぃ、覚えとけよ。絶対殺してやる』
『ああ、そう? 俺は死ぬのはゴメンなんだよな。
俺に危害を与えかねない奴は、ここで殺しとくか』
そう言って、先輩は武井の懐をまさぐり、ある物を取り出した。
使い込んだ形跡が見られる、折りたたみナイフ。
それをパチンと広げて、先輩は武井の眼前にチラつかせた。
『眼球がなかったら、憎い俺のことも探せなくなるかな?』
『……じょ、冗談はやめろよ伏見!』
『冗談だと思うか?』
『…………わ、分かった』
『何が分かったんだ? 答えろ』
今度は、先輩はナイフを武井の首元に持っていった。
ナイフの刃先をピタリとくっつけると、薄皮が破れて少量の血が流れでてきた。
『もう近づかねえから!』
『誰に?』
『そ、そこの小娘だよ……』
『名前で答えろ。散々苛めてきたんだろ?
名前くらい知ってなきゃおかしいよな』
『…………』
武井は、顔を真っ青にして黙りこんでしまった。
すると、先輩は一つ舌打ちして、男の首元からナイフを離した。
『俺は人のことを言えないから、説教なんてしないけどさ。
だからこそ、俺が言ったことくらい、心に刻みつけて守れ』
『…………』
『聞いてんのか?』
『聞いてる! 聞いてるって!』
『甘屋茜に、二度と近づくな。これを遵守するんだったら見逃してやる』
そう言って、先輩はナイフを窓の外の放り投げた。
武井は、観念したみたいだ。首をもたげ、そのまま動かない。
先輩が窓から空を見上げる。
すると同じように、私も空を見上げた。
濃い暗雲が空を覆っていたけど、先輩と一緒に見ていると、それが満天の夜空よりも美しく見えた。
それはきっと、私の内面が先輩に傾いたからなんだと思うけど。
この日以降、私は苛められくことがなくなった。
同時に、私は一人の詐欺師と出会ったのだ。
この時の出会いは、私に一つの願いを生み出させた。
だけど、その時はそんなことも忘れ、ひたすらに先輩の後ろに付いて行った。
先輩の、役に立ちたいし、危なっかしい先輩を、支えてあげたい。
そうして私は、今日を生きていくのだ。
いつか彼が、その道から足を洗うことを願って――




