第二十一話「親父の幻影と同行者がまた一人」
空間に展開するタイプの幻術――つまり結界などを展開しようと思えば、何か大きな存在を依り代にしないといけないらしい。
多くの場合、その空間において一番存在感が大きい物体が選ばれるのだとか。
「それが、この木なのか」
「はい。恐らくこの木を依り代にして結界は張られています。
アヤメさん、間違いないですね?」
「そうにゃ。ここから幻術の源を感じるにゃ」
幻術の源ねえ。何にも感じないんだけどな。ただでかい木がそこにあるだけだ。
ぼんやり大樹を見上げていると、風薫が咳払いして話しかけてきた。
「ご主人様、一つ忠告しておきます。
今から行う作業によって、私たちは命を落とすかも知れません。それでもいいんですね?」
「アヤメを助けられるんなら、何だってしてやるさ」
俺は即答する。初志貫徹、すると言ったらするのだ。
確固たる覚悟を示すと、風薫が指を立てて説明を始めた。
その横で、アヤメが熱心に聞き耳をたてている。猫耳がピクピクと動いている。
正直、たまりません。
「それでは、まずアヤメさん。
この幻術に注がれた力を、私たちの精神に移してもらえますか?」
「『幻術の転移』にゃか。それくらいできるにゃ」
「これから私達の心に、この山を覆うほどの莫大な力を持った幻術が入ってきます。
これを打ち破れば結界は消えますが、精神が壊れて死ぬかもしれません」
「上等だ。少なくとも幻術なんかに惑わされるほど、俺の精神はやわじゃない」
強がりもいいとこだけどな。
人一倍心に傷が入っているため、少なからず耐性はあるはずだ。
「では、アヤメさんお願いします」
「……にゃ」
アヤメが大木に手をかざし、何かをつぶやく。
すると、大木から嫌な気配が流れだしてきた。
猛烈な風が、俺達の横を通り抜ける。
――するとその瞬間、俺の視界が紅色に染まった。
「……ぐっ!?」
目を閉じても、瞼の奥で浮かび上がる。
どうやら、幻術が流れこんできたようだ。
俺は錯乱しないように、拳をぎゅっと握りこむ。
『……とら』
目を閉じて強く気を保っていると、脳内に響くような声が聞こえてきた。
その声は、ひどく聞き覚えがある。
俺がかつて殺したいほど憎んだ、誰よりも近しかった人だ。
『……るとら。……春虎』
はは、なるほど。幻術ってのは、随分性格が悪いらしい。
よりにもよって、こいつを精神に投影してくるのか。
真っ赤に染まった視界に、ある男が映り込む。
濁った瞳に、顎の骨が外れているのかと錯覚するほどにニヤけた面。
何度見ても胸糞が悪い、俺の親父だった、
『……俺はな、お前を置いていくつもりはなかったんだよ』
黙ってくれ。
俺の人生をねじ曲げたあんたから、受け取る言葉なんて一つもない。
『……知ってるぞ。俺が出ていった後、母さん、首を吊ったらしいな』
知っているなら、口に出す必要はないだろうに。いちいち癪に障る。
それに、その無機質な面をやめろ。見ていて殴りたくなる。
『ああ、そりゃそうだよな。
俺の稼ぎに頼って主婦やってた母さんが、耐えられるわけがなかった。
急に借金背負って一人になるなんて現実を、認められるはずがなかったんだ。
はは、本当に悪いことしたなあ。
預金も財産も、全部俺が持って逃げたんだから』
その言葉に、懐かしくも思い出したくない記憶が鮮明に浮かんでくる。
俺が中学生の頃か。
家に帰ってみれば、電灯から何かがぶら下がっていた。
ゆらゆらと、壊れたメトロノームのように、不規則に揺れていた。
その下には、書いている時に流した涙でろくに読めない、遺書が置いてあった。
そこには、見覚えのある母の字で、たった一文だけが書かれていた。
――責任果たせなくて、ごめんね
責任。親として、子供の世話を最後まで見られなかった事に対する謝罪か。
あの人は、最期までそんな事を考えてたんだな。
『……そして、お前がたどった道が詐欺師か。
そうだよな。一人で生きていくには、非合法な道しかなかったもんな。
だが、決して一般人からは搾り取らず、罪深く地位ある者達からだけ搾取する。
一見正義に思えるその行動――だけどさ、それは致命的なまでに間違ってるよ』
ああ、俺のことに口を出す気か。
だけど親父、お前に言われることはなにもないんだ。
俺は母さんの出来なかったことを、責任を果たすということを、受け継いでるだけなんだから。
『でもまあ、しかたがないよな。蛙の子は蛙。
お前はさ、結局変われないんだよ。
俺と母さんの血が入ってる限り、お前は変われない。
それくらい、今までの人生でわかってきただろ?
だったらさ、そんな道、投げ出しちまえ。
責任を投げ出してしまえ。それが一番楽な生き方なんだ』
責任を投げ出す。もう諦める。
確かに、その選択肢を選ぶのが一番楽なんだろう。
なるほどな、親父。よく分かったよ。
あんたは、自分が楽になりたくて、他の誰かを見捨てたんだな。
そうやって人を裏切って、今ものうのうと生きてる、と。
「なあ、親父」
『どうした? 愚息よ』
「俺はさ、あんたみたいに利口じゃない。
損な道を選んだり、意地で物事を決めたり、そういうことばっかりやって失敗してきた」
『そうだろう? なら――』
「だけどさ親父。俺は今まで、この道を選んで絶対にしなかったことがあるんだ。
全てを投げ出したあんたに、その答えがわかるか?」
『…………』
「わからないよな。
俺はさ、どれだけ失敗してきても、苦しくて死にそうになったりしても、後悔だけはしなかったんだ。全てを屁理屈で説明して逃げ出したあんたに、それが出来るか?」
『……詭弁だ』
「詭弁で結構。こうやって、俺はまた失敗するんだと思う。でも、今の俺は一人じゃない」
そうだ。現実での俺は一人に等しかった。
気の良い後輩もいたが、何でも話せるような間柄じゃなかった。
むしろ、心配なんて掛けたくなかったし、俺のやってることも知られたくなかった。
「だけど、この世界に来て、一つ気付いたんだ。
一緒に何かを出来る仲間がいることが、こんなに楽しいってことに」
『……孤独を貫いてきたお前が、一緒に何かを、か。
だが、お前はそれでいいのか?』
「分からない。だけど、ほっとけない奴ができたんだ。
俺が一緒にいられる限り、そいつらの面倒を見てやりたいんだ。
もっとも、そんな偉そうなことを言えるほど、俺は大層な人間じゃないんだけどさ」
むしろ、俺が守られてる立場じゃないかな。
この山に入って以降、俺の役の立たなさっぷりは目に余るものがある。
目の前にいる親父は、納得がいかない顔をしている。
親父が出ていった時の俺と、今の俺があまりにも違うからだろう。
『面倒を見て、守るのが――仲間』
「そうだ。勝手に付いてきた奴と、俺が付いて来いって言った奴の二人がな。
頑張りすぎてて止めたくなる策士もどきに、不安定で見てられない半獣。正直言って、退屈しないよ」
武士・疫病・策士・半獣。
元の世界じゃ考えられないような概念の中に、俺はいるんだ。
困惑でいっぱいだし、心細さで心が折れそうだけだ。
でも、それでも親父にとやかく言われることなんて、一つたりともない。皆無だ。
「親父、もう取り返しがつかないかもしれないけど……
ていうか、幻影だから何の意味もないと思うんだけど――
一つだけ言わせてくれ。あんたに言いたいことがある」
揺らぐ視界の中に、幻術によって浮かび上がる親父。
生気のない瞳が、卑しく細まっていく。
『なにかな、負け犬』
「俺は確かにあんたの息子だが、性根は母さん似らしいな。
意地は悪いかもしれないが、あんたほど毒はない」
『……言いたいことが、それか?』
「ああ。正直言って、今のあんたに言うことは何もない。
ただ――死んで母さんに謝れってことだ!」
一足飛びで、親父に殴りかかる。
親に殴りかかるなんてとんだドラ息子だが、親父に俺を糾弾する権利なんてない。
俺もまた、母さんに会わせる顔なんてないのだけれど。
守って――あげられなかったからな。
そんな俺の面を見て、親父は狂ったように笑い始めた。
『……惑えよ、迷えよ、狂い泣け。
その血が流れている限り、お前は一生負け続け――』
る。言い切る前に、俺の拳が親父に直撃した。
殴り方の作法なんて知らないので、力任せの一撃だ。
渾身の一閃が親父の頬をひしゃげさせる。
「そうだな。じゃああんたは、一足早くここで負けとけよ……!」
もっとも、既に数年前に負けてるあんたには、釈迦に説法もいいとこだろうけどな。
殴打してめり込んだ鉄拳を、更に押し付ける。すると急に、親父の姿に異変が起こった。
親父の輪郭がぼやけていく。
ゆらゆらと、蜃気楼のように形をなくし、視覚の中から溶けてなくなる。
視覚を支配していた幻影が撤去され、視界が元に戻った。
むせかえるような緑の匂い。日の沈んだ闇夜に、多くの木が乱立している。
なんだろう。急に左手が痛くなってきた。
先程幻影の親父をぶち殴ったほうの腕だ。
不審に思って見てみると、血が流れていた。
「……は?」
視線の先には、突き出してきている樹の枝。
幻術の依代にしていた大木が持つ枝を、正面から殴ってしまっていたらしい。
拳に樹の枝が突き刺さり、どくどくと血が流れている。
なるほど、どうやら親父を殴打するのは間違いだったらしい。
さすが親父、あんたの言ったことが早速的中したよ。
いきなり選択肢を間違えた。あんたみたいな人間、殴ろうとしなけりゃよかったよ。
心が急に浮き足立ってくる。
だが、脳に伝わってくる激痛が、俺のテンションアッパー化を阻害した。
「……はは、痛えよ」
「……何をしてるんですかご主人様は」
「自分から怪我をすることが分かっている物を殴るにゃんて、気色悪いやつだにゃ」
実に冷ややかな声が背後から聞こえてきた。
振り向くと、そこにはピンピンしている風薫と、多少憔悴しているものの、人を小馬鹿にする元気が残っているアヤメの姿があった。
どうやら、彼女たちも幻術を打ち破ったらしい。
「失礼なことを言うな。これは新しい拳法を編み出そうとしてたんだ」
「お前みたいにゃのが拳法を閃いても、二秒でひき肉にゃんだが」
相変わらず辛辣なことを言う。
この分じゃ、果心居士も口が悪かったんだろうな。
「風薫、これで結界は解けたのか?」
「私達に移ってきた幻術を打ち破ったため、完全に呪縛は解除されました」
一仕事を終えたように、風薫は汗を拭う。
しかしまあ、アヤメと激戦を繰り広げてた割には、ずいぶんと回復が早いな。
やはり策士は半端じゃない。いや、いろんな意味で
「良かったなアヤメ。これで自由じゃないか。
もっとも、俺の近くから離れたら怒るからな。しばらくは経過観察だ」
山里に降りて殺戮ヒャッハーでもされたら申し訳が立たない。
いやまあ、そんなことはしないだろうけど。
「にゃ、私もお前から離れるつもりはにゃいにゃ」
「は?」
「恩を感じてるってことにゃよ。
それを返し切るまで、絶対お前から離れにゃいにゃ」
「……そいつは、どうも」
なんだ、ずいぶんと律儀じゃないか。
精神が落ち着いてないと危惧してたんだが、これなら別に監視なんてしなくても良かったな。
でもまあ、本人が付いてくるっていうんだから、止めないけどさ。
「そういえば、名前……」
「名前?」
ポツリと風薫が呟いた。その言葉に、俺とアヤメは首を傾げる。
名前? 名前とな。
「いや、ご主人様の名前、まだアヤメさんは知らないんじゃないですか?」
「ああ、そうだったけか」
「そうえいば……そうだにゃ」
なら、アヤメは今まで俺のことをなんて呼んでたんだっけか。
確か、『お前』だったかな。
……今思えば、何の捻りもないな。そりゃまあ当然なんだけどさ。
興味深げにアヤメが見つめてくるので、とりあえず名前を名乗った。
「俺の名前は万事院田吾作。よろしくなアヤメ」
「……ご主人様ー」
俺が偽名を名乗ると、すぐさま風薫が横槍を入れてきた。その目は酷く冷たい。
うーん、相変わらず嘘がつけないな。
これでは、もし二択の尋問を迫られた時、俺に為す術がないじゃないか。恐ろしいなその特技。
てか、俺が偽名を口にした瞬間、アヤメも眼が冷たくなったぞ。
読心術じゃないだろうけど、野生の勘で見破られたのかもしれない。
……詐欺師の天敵ばっかじゃないですか。敵じゃなくてよかった。
「ああ、本名は伏見春虎。
名字にも下の名前にも愛着はないから、適当に呼んでいいぞ」
「にゃ、それじゃ『お前』にするにゃ」
「何のために名乗ったの俺!?」
結局呼び方が変わらないんじゃ意味ないじゃん。
俺がすぐさま不平を言うと、アヤメはくすりと笑って声を出した。
「冗談にゃ。春虎、これからよろしく頼むにゃ」
「あいよ」
俺たちは一度大きく頷き、森の出口に向かって歩き始めた。
やはりアヤメは外の世界に出てみたいらしいので、俺と同行する流れになる。分かってたけど。
何か持っていく物はないのかとアヤメに訊いてみたが、彼女は首を横に振るだけだった。
俺の後ろをひょこひょこと付いてくるだけで、特に気にしていない。
……果心居士、娘に嫌われてるな。
険しい獣道を下山しながら、俺は苦笑していた。
――それにしても。
無意識に出てしまった言葉で、俺の内面が何となく知れた。
『名字にも下の名前にも愛着はないから』
いやまあ、下の名前は母さんも一緒に決めてたらしいからまだいいけど。
名字なんて大嫌いだからな。
親父の血を引いてるってことがモロバレなので、あんまり好きな名字じゃない。
「……やっぱ俺、親父が嫌いなんだよな」
「え? 何か言いました?」
「いーや、何でもない」
親父のことを考えるのはやめよう。鬱になる。ハゲる。
この山を抜ければ、京都から完全に出ることができ、中国地方への道が広がる。
同行者も一人増えたことだし、用心棒の心配はなさそうだ。
目指すのは変わらず出雲。
性格のいい巫女さんがいるといいなあ。
余談だが、こんな下らないことを考えていたため、沢に足を滑らせて坂を転げ落ちてしまった。
そこは職人が泣いて喜ぶ漆が一面に広がっていたようで。
それに気付いた瞬間、急に嫌な汗が吹き出してきたのは言うまでもない。
……俺、漆アレルギーあるんだけど。
あまりの圧倒的な漆攻めに、失神しそうになったのである。
結局、アヤメが引きずり上げてくれたんだけどさ。
煩悩はだめだよな、やっぱり。




