第ニ話「ここはどこだ」
「……つつっ」
暗転した視界が、正常に戻る。
薄手の学生服に染みる冷風が、ここが屋外であると強制的に認識させてくれる。
「どこだよ……ここ」
俺は周囲を見渡して呆然とする。
薄暗い周辺には木が乱立しており、一目でここが森だと分かった。
……俺の近所に、こんなもののけ姫みたいな森が存在していただろうか。
それとも酔いの延長線上か。いや、ビール一本じゃ酔わないんだけど。
「真っ暗だし……明かり無いし。ライターか何かなかったっけ」
胸ポケットを探り、学生服に縫いつけた尻ポケットをまさぐる。
確か尻ポケットに入れていたと思うが……あ、あったあった。
100円ライターを引っ張り出し、点火しようとする。
――ガチンッ、ガヂンッ。
しかし、いくら指を滑らせても一向に火は着こうとしない。
「くっそ、……油が切れてる。昨日買い足しとけば良かった」
ライターを買う金を惜しんで趣味の本(戦国かたろぐ7月号)を買った俺が言うのも何だが、ここまで火付け道具如きにコケにされるのは腹が立つ。
この……役に立たないライターめがっ。
苛立ちのあまり投げ捨てようと思い切り振りかぶったが、思い直してポケットに再収納した。
油を入れればまだ使える。貧乏人根性がしっかりと染み付いていて悲しかった。
しばらくして、闇夜に眼が慣れてくる。
すると、天上に昇る月の存在に気がついた。
はて、先ほど家に居た時はまだ夕方だったはずだが。
今の暗空には、ほぼ完全たる月光が煌煌と上っている。
案外気絶している間に、とっぷりと夜が更けたのかもしれない。
考えうる可能性を考慮すると同時に、辺りの散策を開始した。
すぐに脱出可能な森なのなら、さっさとタクシーでも拾って帰ろう。
ビバ自宅、自宅こそが俺の安息地だ。
――しかし、突如轟いてきた怪音で、俺の甘い考えは吹き飛んだ。
「……ルル、グルルルルルウッ……」
「ん?」
向こうの茂みから、どう考えても人間が発するものではない、ワイルド低音ボイスが聞こえてきた。
まさか、猪か?
成長している奴だったら本格的にまずいんだが。
陰から聞こえてくる呻きで、その生物の存在位置を把握する。
すると、枝葉が引き千切られる音と共に、唸り声の持ち主が姿を現した。
繁茂する植物を蹴散らし、俺の行く手を阻む。
体長は一メートルと少し。
高い身体能力を誇るかのように凛と伸びた四肢が目に付く。
灰色に染まった体毛は、生態系の上位に君臨する覇者である印のようでもあった。
大きく裂けた口からは、肉を寸断する鋭利凶器――犬歯が顔を覗かせている。
輪郭のぼやけた状態では、確実に野犬と見紛うであろう生物。
しかし淡い月光に照らされた今では――そして少しなりとも動物図鑑を眺めた事がある俺には、その生物が何なのか見当が付いていた。
「……ニホンオオカミ、だよな」
「グゥルルルルル。ヴォオー……」
ニホンオオカミ。
現代では見ることが出来ない絶滅種。
はるか昔に死亡が確認されて以来、生きた個体を確認することが不可能となった凶悪野生動物である。
その狼は、涎をまき散らしながら俺を睨み付けている。
どう見ても、捕食対象を見つけた肉食動物の佇まいだ。
「おいおい、落ち着けって」
「グルワアアァウウウルルル!」
俺は興奮を止めさせようと声を発する。
しかし、狼はさらなる雄叫びを上げて牙を剥き出しにした。
ずいぶんな興奮状態のようで、あやす事は不可能のようである。
なるほど、なかなかのピンチだ。
ここがどこだかも分からない混乱状態の上、こんな肉食狼に出くわしてしまうとは。
だが、ここでみすみす殺されようとは思わない。
「……喰われるのは御免だ」
逃走を図るのは、たぶん不可能。
人間が全力で走っても、出るスピードはせいぜい時速20km強。
それに対して、四足歩行の哺乳動物が持つ最高速度は、優に50kmを超える。
背を見せた途端、後ろから飛びかかられてご臨終だろう。
こんな山中で死んだら骨すら拾ってもらえなさそうだ。
冷や汗を流しつつ、俺は親友の贈答品に手を掛けた。
それはすなわち、常に身に着けているからこそ、ここで使用が可能な物品――スタンガンだ。
これは渦に運ばれる時に身に着けていた、数少ない便利アイテムの一つ。
この一見普通に見えるスタンガンのグリップには、『アマヤブランド』と焼きゴテで刻印されている。
『アマヤブランド』の名が付く物品は全て、科学力の粋を集めた逸品たちだ。
ちなみにこの発明品を提供してくれてる開発主は、あのイケイケ発明家娘・甘屋茜だったりする。
俺が悪徳政治家や医師等から絞りとった金を注ぎ込んで、その金を使って甘屋が発明をする。
発明家と詐欺師の連携プレー。
この社会的に終わっている流通によって、アマヤブランドは成り立っているのだ
そして、今俺が持っているスタンガンの柄にも、当然アマヤブランドの文字が。
となると当然、この所持品も例に漏れず、ただのスタンガンじゃない。
市販品――つまり普通のスタンガンが持つ電圧は、精々5万ボルトだ。
そして電流は10ミリアンペアを大きく割り込む。
しかし、今俺が手にしているこのスタンガンは、最高電圧38万ボルト。
更に最高電流30アンペアと、もはや護身道具とは言えない凶器と化している。
人が死に至る可能性も否定出来ない、所持すら禁止された立派な武器だ。
「アマヤ研究所開発の殺人道具だ。
どれだけ貴重な動物だろうと、俺は自分の命の方が惜しい。死んでも恨まないでくれよ」
俺は免罪符のように、過ちを予め告げておく。
この狼が死んでも、俺は責任なんて負いたくない。
責任を負う事は、もう二度としたくないんだ。
謝罪をして蛮行に走る――それは、己の自尊心と矜持を保つための、弱者の行動である。
それくらい、自分でも分かってはいるが、やめることが出来ない。
だから俺は自分が自分で許せなくなる。
――さて。そんな精神論はともかく、今の問題はこの狼だ。
俺は絶望的なまでに体力がないので、自分から飛び込んで闘うような真似はしない。
ジリジリと後ずさりながら、狼と距離を置く。
「……無傷で切り抜けたいなら、こっちも使わないとダメか」
俺はもう一つの発明品を使おうと、ポケットに手を入れる。
取り出したのは、肘の辺りまで伸びた手袋。
無論、ただの手袋ではない。
ゴムと対斬撃素材を配合した、親友自慢の逸品である。
これを装着すれば、スタンガンの電流が間違って逆流しても、死ぬことはない。
その上、狼の爪牙を無効化し、奴の攻撃力を無にできる。
莫大な資金を注ぎ込み、甘屋に無理を言って創らせた物だけあって、その性能は遥かに高い。
異常なまでに締め付けが強いため、長時間付けられないのが難点だが、そこはご愛嬌。
俺はその手袋を装着し、スタンガンを握りしめた。
「詐欺師だからって戦闘力が皆無だと思うなよ、駄犬」
「ヴオォオオオオオオオオ!」
左腕を突き出し、狼が喰らい付きやすい位置で固定する。
こうしていれば、獲物を狩りたいという本能に負けて攻撃をしてくるはず。
野生動物でも理解できる、簡単な挑発だ。
すると予感は的中。
本能のままに、狼が奮然と飛びかかってくる。
目標はどうやら、俺の左腕のようだ。
俺の身体を食い破ろうと、細い左腕に噛み付いてきた。
しかし、勢いはそこまで――緊密に編み込まれた素材が、牙の進撃を殺す。
「……ヴオォオ?」
よし、上手く引っかかった。所詮は獣だ、本能には勝てない。
俺は自由な右腕に力を込め、スタンガンの金属端を狼に押しあてた。
狙いは、神経の中枢部が集まる――脊椎から首にかけての部位だ。
ここを破壊すれば、動物の生命活動は停止する。
電圧・電流のレバーを最大限まで押し上げ、スイッチを指先で弾いた。
――バヂヂィイッ!
目の前で、すさまじい火花が迸る。
網膜が焼き切れそうになる程の熾烈な雷光が、狼の全身を駆け巡った。
「ヴゥ…………ォオ」
一瞬にして、肉が焦げた匂いが辺りに充満する。
焼肉なら何でもいけると自負しているが、さすがに狼の肉は無理だ。
それに、焼け方があまりに汚い。
雑食主義の甘屋に食わせても、吐き出すほどの異臭だよこれは。
しばらくして、焦げた狼の牙が手袋から外れた。
すると、威圧感の失せた体躯が、地にずり落ちる。
汗を拭い、俺はスタンガンを冷却するため、本体を土にあてがった。
赤く灼けた金属部分が土を焦がし、その温度を放出していく。
「ふぅ……何で絶滅した生物が普通に存在してるんだよ」
すでに心臓が停止していると思われる狼。
その身体は電流の残滓によって痙攣していた。
「……うわぁ。動物愛護団体が見たらなんて言うかな。……まあ緊急事態だったし、見逃してくれ」
ひと通り拝み、死体に一礼する。
化けて出られても困るので、後処理は念入りに。
それから俺は、ふと天空を仰ぎ見る。
どこまでも広がる暗夜を眺めていると、ここが俺の場所ではないような――錯覚かも知れないが、ここは俺が来てはいけなかった場所であるような――そんな気がした。
「甘屋の開発品がなかったら死んでたかもしれないし……。何でこんな危険な目に遭わなきゃいけないんだよ」
俺はため息混じりにつぶやき、スタンガンを懐にしまう。
まだ少し熱が残っていたようで、服越しに熱が伝わってくる。
このスタンガンは、一度使ったら2時間は使えない。
開発担当の甘屋によれば、時間を置かないと放熱が追いつかなくて、その状態で電流を流すと暴発する恐れがあるらしいのだ。
是非とも説明してくれた甘屋に実演して欲しかったのだが、あの時はにこやかに微笑んで断られたな。
強力である代償をこのスタンガンが持っている以上、更なる接敵は避けたい所だ。
そう思った。いや、そう思っていた。
後ろから声が聞こえるまでは。
「おや――先客が居たか。むぅ、私が狙っていたんだがな。
……諦めるには惜しいし、奪い取るか」
それも、今度ばかりは獣の声ではない。
流水のように爽やかな、女性の声だ。
どうやら、このまま森を抜け出すことは難しいようだ。
なかなか思うように行かない境遇に、俺は再び溜め息をついた。