第十九話「ある少女が一人になるまで」
山賊の出る山中に、ある男がいた。
男の名前は果心居士、幻術を使役する幻術士だったそうな。
彼は自分の欲望のままに人を陥れ、人間を苦しませてきた。
その冷徹な悪逆行為は、彼が飽きるまで続いたそうである。
だがある日彼は、己が経験したことのないものがあることに気付いた。
すると、何でも思うがままにしてきた彼は、その行動をすぐに実践する気になったらしい。
すなわち、自分の遺伝子を後世に残す繁殖行為。
しかし、それを実行する途中で、彼は選択肢を間違えた。
彼の冷徹な心が、こうささやいたのだ。
――ただの子供じゃつまらない。もっと、人に真似できないやり方にしよう。
その誘惑に負け、彼は生まれ持った幻術で、幻ならざる『半獣』を創った。
猫と交わることによってだ。
精神と意識の操作によって、身体面にも異常を発生させることが出来る幻術。
彼はその使い方を誤ったのだ。
一年後、猫を母体としてある少女が生まれた。
だがしかし、果心の遺伝子が強すぎたようだ。
少女が普通の人間と違うところは、若干の見た目と身体能力だけだった。
彼はその少女にアヤメと名付け、自分の跡継ぎとしてかわいがった。
それはもう、普通の親子よりもべったりだったそうな。
だが、彼はそこで一抹の疑問を覚えた。
自分の悪ふざけによって生まれた少女は、何も悪意を覚えず、無邪気に『お父さん』と呼んでくる。
どうしてこの娘は、自分を恨まないのだろうか。
稀に入り込んでくる山賊を見て、自分が普通の人間でないことには気づいているはず。
なのに、娘は何も訊いてこない。
今までに腐った性根の人間を混乱に陥れてきた彼は、その少女が向けてくる親愛に苦悩したそうな。
その時、人を幻術で再起不能にして嘲笑を繰り返してきた幻術士は、初めて後悔した。
自分の行動を、恥じたのだ。
他人に悪意を叩きつけてきた分、反対に家族には愛情を向けられたはず。
それを自分は『ただの子供じゃつまらない。もっと、人に真似できないやり方にしよう』と、下らない悪意によって拒絶したのだ。
彼は七日七晩、アヤメに出生について、自分の犯した業について、思い悩んでいた。
思い悩まない日は、なかったそうだ。
だがそんなある日、具体的に言えばアヤメに物心がつき始めた時、彼は体に異常を覚えた。
まず、身体に力が入らない。ついで、己の生殖機能が完全に不能になった。
世俗に疎かった彼は、巷を賑わす『奇病』について知らなかったらしい。
――日に日に衰えていく彼の身体。
山に入り込んでくる山賊を追い払うのも苦しくなってくる。そこで彼は思った。
――俺が死んだら、こいつはどうなるんだ。
山賊に遭遇すれば殺され、場合によっては奴隷として売られる。
順調かつ健気に育っていく娘の姿を見て、彼はこの娘だけは守ろうと決めた。
自分の身勝手で生まれてきた子供だ、自分が責任を取る、彼はそう決意したのだろう。
ある日彼は、隣山の山賊集団を壊滅させ、ある儀式を行った。禁術にも近い、幻術の重ねがけだ。
彼はある代償を支払い、この山に2つの結界を張った。
供物を得た幻術は、不可能にも近い奇跡を発生させたのだ。
即ち、結界の創造。
その完成度は、陰陽術の域にまで侵食していて、もはや幻術といえるか怪しいレベルだったそうだ。
その結界によって何を縛ったか。
1つは、『十年間の間山への人・猛獣の立ち入り不可能』。
これは、当時まだ幼かったアヤメを守るためのものだろう。
2つは、『半獣の山外脱出不可能』。
これは物心がついたばかりで、好奇心で山を飛び出しかねないアヤメを縛るための、鎖だったのかもしれない。
個人で行うにはあまりにも大規模な結界によって、彼の身体は更に衰弱していく。
そして、死期を悟った彼はある日、アヤメを呼びつけた。
少女を自分の目の前に座らせて、彼は覇気のない目で語り始める。
『……アヤメ』
『ん、どうしたにゃ』
『……ごめんな』
いきなり、頭を下げて謝罪した。
突拍子な行動に、アヤメの目が丸くなる。
『どうして、あやまるにゃ?』
『本当に……ごめん』
彼は地面に額を擦り付け、必死に謝る。
自分がしたことは、あまりにも重い罪だった。
アヤメに対する罪悪感が、涙となって彼の頬を濡らしていく。
『泣かないでよ、柄じゃにゃいにゃ』
『……はは、そうだな。
なあアヤメ、俺、一つわがまま言うけど、聞いてくれるかな』
『……? もちろんにゃ』
アヤメがうなずくと、彼は遠い目をしてボソリと言った。
『俺さ、長い旅に出るんだ』
『……旅?』
『そう。すごい長い旅だ、もう帰ってこれないかもしれない。
俺が帰るまで、お前はこの山から出られない。我慢できるか?』
あまりにも急な旅立ちの話に、アヤメも困惑する。
彼の目を見つめ、それが冗談でないことを知ると、うつむいてか細い声を出した。
『……寂しいにゃ』
『ごめんな。でも、もう一つわがままを聞いて欲しいんだ。
10年間、お前は危ないことにはならない。
だけど、その後は自分で自分の身を守らなきゃいけないんだ。
――お前にそれが、できるか?』
『……分からにゃいにゃ。
親父が、にゃにを言ってるのか、分からにゃいにゃ』
認めたくない心が、意識と造反する。アヤメは嫌だと言わんばかりに首を振った。
だがその姿を見ても、彼の口調は依然変わらなかった。
『なあアヤメ。
今だから言えるけど、俺は本当にどうしようもないやつだったんだ。
善人を排斥して、悪人に迎合してきた、とんでもない卑怯者だ。
だけど、一つ思ったんだ。今までしたことを反省して、
家族にくらい優しくしてあげるっていう選択肢も、あったんだなって。
だけど俺は馬鹿だから、下らない悪趣味で、お前を……』
彼の号泣は、壮絶なものだったのだろう。
その必死の姿を見て、アヤメも気分が落ち込んでいく。
『……気にしにゃいでにゃ。
親父が言ってることはよく分からにゃいけど、これだけは言えるにゃ。
親父が泣くと、私も悲しくにゃる。だから、泣かにゃいでくれにゃ』
『……そうか、お前はいい子だな。
――じゃあ、アヤメ、達者でな』
そう言って、彼は立ち上がった。
すると、アヤメはすがりつくようにして彼の裾を握る。
震える瞳は、今にも涙を流してしまいそうだった。
『どこに、行くんにゃ……?』
『遠いところだよ。いや、地の獄かもしれないけどさ』
軽口を叩いて、果心居士はアヤメに背を向けた。
その時、彼は最後まで悲哀に満ちていた。
『……アヤメ、本当に、ごめん』
その悲痛な声は、アヤメの心の奥底まで届いたことだろう。
そして彼は、二度と戻らない山を出るために、走って逃げた。
その背中を、アヤメはずっと見ていたそうだ。
ポツリと、風に乗って消える声も、悲壮に満ちていた。
『……私は、一人。世界で……一人にゃ』
誰もいない山中。
闇が支配する中で、少女の味方をしてくれる者は、もう誰もいない。
人にもなりきれず、獣にもなりきれない少女。
果心アヤメは、いつまでもつぶやいていた。
『寂しい……にゃ』
その声が発せられた時、果心居士はこの山にも、この世界にもいなかった。
『一人に……しにゃいで、にゃ――』
そこに残ったのは、半獣の少女一人だけだったのだから。




