第十話「ある少女との出会い」
光が怖かった。
でもそれ以上に、闇が怖かった。
きっとそれは、世界の明るさの話ではなく、人間の内面の話。
人を信じられなくなって、人の光が見えなくなってしまった。
闇は見えているから怖い。光は見えないから怖い。
さて、こんな中途半端な俺は、どうすればいいんだろうか。
◆◆◆
「右手に沿って……だっけか」
神社を降りて、商店街を右側に張り付きながら進む。
炎天下の陽光が、間断なくこちらの体力を奪ってくれる。
しかしまあ、袈裟って意外と風通しが悪いんだな。
こんなにペラッペラなのに。
しばらく歩を刻んでいると、大通りが二股に分かれている地点に辿り着いた。
左の道には先程までと同じ、鍛冶屋や米問屋の店が立ち並んでいる。
香ばしい匂いも漂って来るため、料亭の存在も期待できるだろう。
この騒ぎまくる腹の虫を収めるのならば、確実にこっちだ。
それに比べて右手――大仰な飾り門で仕切られた方の通りは、お世辞にも治安が良さそうには見えない。
聞こえてくる喧騒に耳を傾けてみると、その違いが明らかだ。
「もう一軒行こうやもう一軒……おえぇえ。安酒は辛いなぁ……。
ドブロクで五臓六腑が焼けただれるぅ……」
「おい、具足に吐くなよ! しょっぴくぞ馬鹿」
頭に腰巻を括りつけてふらふらと歩く野武士らしき女、そしてそれを迷惑そうな目で見る衛兵。
二人とも頬が紅潮している辺り、恐らくどこかで一杯引っ掛けてきたのだろう。
その陽気な二人組のすぐ側から、活気付いた商売人の声が聞こえてくる。
「寄ってきてよー、捕虜の武将がまだ余ってるよー。
体力ある小娘はもう在庫が少ないよー。今なら奴隷一匹につき1貫銭だよー」
……ん、何? 在庫?
まさか、人を売ってるのか。
捕虜の武将――打ち破った勢力の武将たちを、商品として並べているのだろう。
つまりは人身売買。
元の世界なら許されざる行為筆頭に値すると思うが、この戦乱の世ではそこまで珍しいものでもないようだ。
しかしまあ、人間を在庫呼ばわりね。
元の世界の常識が抜けてないからか(抜けすぎても困るのだが)、随分と外道な手法を使って金を設けているように感じてしまう。
ああいう輩を見ていると、無責任な腹立ちが湧いてくる。
それは人の道に反した行為だろうと。
まあ俺が言ったらまさしく、「お前が言うな」なんだろうけどさ。
俺は聖人君子でも何でもないんだし、特に言うことはない。ノーコメントだ。
ただまあ、その様子を見て、何となく行くべき道が示されたような気がする。
性悪巫女から頂いたお告げの件もあるし、やっぱりこっちに行くしかないかな。
胃が収縮を繰り返して半泣きになっているが、もう少し食事は我慢してもらおう。
趣味の悪い門を潜り、毒気のある店の前を歩き始める。
やはりというか、男が絶対的に少ないこともあって、奴隷として売られている面持ちも女性ばかりだ。
まだ働けるような年ではないであろう少女から、壮年の女性まで。
老若問わず、商品が陳列している。
ただ、あまり気付きたくもない共通点を発見した。
全員見事に、眼に生気がない。
腐海を眼球の中に飼っているのではないかと思うほど、一様に眼が死んでいる。
まあ、こんな境遇に身を置いたらこうもなるだろう。
俺の場合、一日もせずして気が狂いそうだ。
勝手に感慨深げに納得して、奴隷商の前を通過して行く。
特に面白いこともなさそうなので通りすぎようかと思った時――
俺の足が止まった。
奴隷商店の端にいる少女に、俺の目は釘付けにされた。
歳は俺と同じか、それより下に見える少女が、そこに佇んでいる。
あまり高くない身長がそう見せているのかもしれないが、俺より年上ってことはないだろう。
綺麗な銀髪をなびかせ、凛としてそこに立っている。
幼さの残る愛くるしい顔と、強張っている今の表情が、絶対的な魅力を醸し出していた。
髪の色が特殊なので、一瞬日本人なのか疑ったが、何のことはない。只の美少女だ。
しかしまあ、着ている服が奴隷服であることを除いての話だが。
どうやらあの少女は、奴隷として売られているらしい。
「そこの店主」
俺は出来るだけ声を高く調節して、円満ヅラで微笑んでいる店主に話しかけた。
しかしその瞬間、俺は辟易する。
何故ならば、店頭に突っ立って米団子を頬張る店主は、あまりにも不快な女だったからだ。
目に毒とも言う。
蒸しすぎた菓子パンに脂肪をコーティングしたかのような肥満体型、何の草の汁なのか知らないが、赤い液体を唇に塗りたくっている。
口紅のつもりなのだろうか。
もはやピエロにしか見えない。あるいは某ファストフード店のマスコットキャラクターか。
……それにしても、見ていて気分が悪くなってくる。
店主の横にいる銀髪の少女は、学校における美形生徒会長みたいな風貌をしているのに、この店主はトロールみたいな体型をしていらっしゃる。
西洋の妖怪には詳しくないが、恐らく古文書を紐解いたら確実に『キングゴブリン』みたいな名前で乗っていることだろう。
俺の心中での酷評が聞こえたのか、店主は不快な顔を更に不快にして、辛辣に挨拶をしてきた。
「何の用かしら尼さん? ここはアンタのような職種の人が来る所じゃないわよ。私のような完全完璧完全無欠の傾国美姫が来るところ。道を間違えたのなら帰りな」
……うわぁ、うわぁ。
敵意剥き出しな対応だよ。
不完全不完璧完全崩壊の傾国醜姫なのに、超怖いよ。
しかも何だ、聖職者(格好だけだけど)がここに来たら駄目なのか。
坊さん差別はいただけないな。こっちは一応客なんだぞ。
店長呼べ店長。
「冷やかしじゃないし、奴隷商売に異を唱えるつもりもない。
こうして客として来たわけなんだが、この店では客にそんな対応を取るのか?」
俺は左胸ポケットから取り出した財布から1貫銭を幾枚かチラつかせる。
すると突然、醜い顔を更に歪め、店主は微笑み始めた。
子供が見たら阿修羅の如く泣き叫ぶことだろう。
「これは失礼したわね。尼が奴隷を購入するなんて、考えつかなかったから」
「破戒僧だからな。もはや俗世のことに抵抗はない」
貫禄たっぷりに言い張ってみる。
すると、トロール店長(仮名)も感慨深げに頷いてくれる。
どこに共感できるところがあったのだろうか、謎だ。
というか、俗世のことしか知らない俺が坊さん振るのもどうかと思うけどさ。
「で? どの奴隷がいいの?
この間、足利様が斎藤家を討伐したから、敗残兵や武将が多く入ってるわよ」
「斎藤家? ……マムシがやられたのか」
俺の知っている戦国時代では比較的有名な武将――斉藤道三。通称マムシ。
圧倒的な才覚で油売りから大大名へ成り上がった出世頭だ。
戦争も下手じゃなかったはずだが、天下の足利家に討伐されたのか。
「え、まさかあなた、道三がまだ生きてると思ってるの?」
「へ? いや、死んだのか?」
すると、トロール店長は憐憫の目を向けて来た。
シミだらけの顔を歪曲させ、蔑んでくる。
「何も知らないのねぇ。マムシはとっくに疫病で死んだわよ。
そして家督を継いだ小娘がまあ無能。
そこにいる奴隷に城を奪われる始末よ。全く、斎藤家も堕ちたものよねー」
溜息をついて親指をピッとある方向へ向ける。
そこにいたのは、先程から気になっている銀髪の少女だった。
凛と佇む少女は、何も思考していないのか、只天を睨むようにして遠くを見据えている。
先ほど店長が口走ったことの断片。
城の奪取――聞き逃せない言葉が出てきた。
美濃の国に覇を唱えた斎藤家、そこにいた軍師を彷彿とさせる。
究極的なまでに完成され、軍を率いらせれば敵は皆無。
若くして夭折し、諸将にその死を嘆かれた天才軍師――
「あの男の血縁者……か」
俺の根拠なき呟きに、少女の眼に宿る光が揺らぐ。
そして、俺の方をじっと見てくる。
……真っ直ぐな視線だ。
一切の澱みがなく、こちらの心中を直接覗いているかのような瞳。
しかしその挙動に気付くことなく、店長は毒づくのをやめようとしない。
「こんな小娘にいいようにされる大大名。
一時的とはいえ、あんなのに城を乗っ取られるようじゃ、滅ぼされるのも無理はなかったわよ」
散々に少女を罵倒する巨漢店長。
しかしというか、やはりというか、少女は全く反応しない。
ひたすらに俺の方を注視してくるだけだ。
「……なあ」
口を開いたのは俺。
しかし、自分でも何故口を開いたのかよく理解できなくて、そこで言葉が止まってしまった。
だが、何と言いたかったのかは、自然と脳裏に残っている。
その残滓を手繰り寄せ、俺は続けて口走る。
「辛くないのか?」
俺は店長の身体で半分後ろに隠れている銀髪の少女に目を合わせ、そう告げた。
「…………」
しかし、少女は微動だにせず、無反応を貫く。
「ほら小娘、お客様が聞いてるんだ。さっさと答えな」
「…………」
店長が余計な催促をするも、少女は無視一辺倒。
「小娘ぇ……、いい加減にしな! 一生売られずにここにいる気かい!?
私ゃお前みたいな役立たずをいつまでも手元に置いとくつもりはないよ!」
「…………」
俺を見つめたまま何も反応しない少女に、店長は激昂する。
脂ぎった体を震わせて、怒りを爆発させようとする。
「あんた、いい加減に……」
「もう、いいだろう?」
見かねて俺は口を挟む。
こんな下らないやり取りを見ているつもりはさらさらない。
すると、店長は味方を得たとばかりに、少女を糾弾する。
「ああそうさ、ダンマリの時間は終わりだよ。奴隷は奴隷らしく、訊かれたことに――」
「お前に言ってるんだよ、脂肪ダルマ。俺は今こいつと話しているんだ。
お前は黙ってピザでも食ってろ」
俺が言い終わるやいなや、店長が心外といったように顔を歪める。
まさか自分が責められていたとは思っていなかったようだ。
店長は野太い驚嘆の声を挙げる。
「まさかあんた……女じゃないのかい?」
そう問いかけられた瞬間、つい地声が出てしまっていたことに気付く。
男であることがバレたかもしれないが、俺は大して動じない。
もっとも、顔に出さないようにしているだけだが。
邪魔な横槍も消えた所で、俺は再び少女に話しかける。
「お前、辛くないのか?」
すると、貝のように固く閉ざされていた口に、変化が現れる。
「……何が辛いのですか?」
透き通るような声で、少女は涼やかに答える。
声を聞いたことがなかったというわけではないだろうが、店長も目を剥いて驚く。
「何が辛いって……。ここまで馬鹿にされて、コケにされて、ここまで身を貶められて――どうしてそんな眼ができるんだ?」
輝きを失わない毅然とした少女の瞳。
王者の風格とでも言ったように、絶対的な光を煌煌と宿す。
明らかに、奴隷に身分を置く者に宿る眼の色ではない。
少しの逡巡の後、少女は緩やかに口を開いた。
「父上の、ご遺言ですから」
一陣の風が通り過ぎるかのように、あるいは天上からの賜言であるかのように、少女は気品に溢れた声を出す。
遺言だから――この苦界に落ちても揺るがない。
少女は今、静かに、しかし強かにそう理由付けた。
今は亡き人が残した言葉を頼りに、果たしてそこまで意思を貫けるものなのか。
少女が纏う雰囲気は、どこまでも清廉で、一途だった。
「その父上ってのは――」
俺がその死者の名を問うと、少女は一つ覚悟を決めたかのように凛と屹立した。
鈴の鳴るような声が、鼓膜を揺らす。
「父の名は竹中重治、通称半兵衛。
私はその竹中半兵衛の養子――竹中風薫です。以後よしなに」
銀髪の少女は、胸に手を当て柔らかに微笑んだ。




