現実は浮き足に迫ってくる
生徒会長が煙草を吸っていた。
昨日のことだ。たまたま用があって入った旧校舎の教室で机の上に座り、浮いた足を揺らしながら、鼻歌を唄っていた。
―わたしが煙草を吸っていたら、おかしい?どうして駄目なの?―
愛らしさと美しさを兼ね備えた会長の上目遣いで、何人の男が恋を知ったのだろう。
すべての生徒からの尊敬と羨望をほしいままにするこの人のために、屋上から飛び降りた人間がいるなんて噂が流れたのもうなずける。
―未成年だから。じゃないですか?―
僕はそう答えた。
各委員会の委員長を集めての半年に一回の定期会議。
風紀委員委員長としては、昨日のことはけして見逃せない行為だが残念ながらそこまで仕事熱心でない僕は、ただひたすら会長を見つめながら、時間が過ぎるのを待っている。
発言を引き出し、まとめあげ、皆を納得へ導いている。
けして、傲慢さを見せず、その柔和な微笑みは妬みも嫉みも良くない噂もすべて包みこむ。
―あなた、明日も来る?―
そう聞かれて、はい、と答えてから家に帰る途中に犬の糞を踏み、そして美緒と咲に会った。二人はすぐに由紀とも打ち解けてくれた。由紀もお姉さんが二人もできたと、喜んでいて、妹の内気さを心配したシスコンの懸念は杞憂に終わった。
咲が何かと由紀に抱きつくのには、由紀も最初かなり戸惑ったようだが、次第に慣れていったみたいだ。
でも、もしかしたら言葉の通じない二人にとって一番打ち解けるのに良い方法だったのかもしれない。寝る前に美緒が、かなりかしこまって由紀のことを抱きしめたときは咲と二人で大笑いした。
もう由紀は小学校から帰ってきている頃だろうか。
小学校と言っても普通の学校ではない。耳の聞こえない子供のために設けられている学校だ。
家との距離も歩いて五分もかからない。まぁ、だから由紀は家にいるのだが。
それに、今日は家に美緒も咲もいるからなにかと安心だ。
ただ、今日はなるべく早めに帰らなければならない。しかし、会長とまた話がしたい。
どうしたものかと思いながらも、とりあえず、はやくこの会議が終わってほしいと時計を睨んだ。
「会議が終わったら、すっとんでいっちゃうんだもの。わたしまで急いじゃったわ。」
少し息を切らしながら、小さく肩を上下させているだけで、こんなに愛らしい人がこの世にいるとは驚きだった。
「素直な人は魅力的だけど、女を急がせる男は嫌われるよ。」
そう言いながら、会長は昨日座っていた机に座り、また浮いた足を揺らしながら煙草に火をつけた。
髪を耳にかける仕草が見られたことに満足することにして、話を切り出す。
「すいません。実はもう帰らないといけないんです。」
大きな目をさらに大きくしながら僕を見つめて、煙を吐き出し、その柔和な微笑みを会長は浮かべた。
「煙草を吸う女は嫌い?」
表情にも声の感じにも特に変化は無かった。ただ足の揺れが止まっている。
「いや、実はこの後妹と買い物に行く約束をしていまして、今日委員会の会議があるなんて知らなかったものですから。」
「買い物って、こんな時間から?」
「買い物って言ってもショッピングじゃなくて、一週間に一回スーパーに食材を買いにいって一緒に夕飯を作る約束をしているんです。その日が今日なんですよ。」
「妹さんって、その…手話を使う…」
会長にしてはめずらしく歯切れの悪い言い方だった。
「あの、ごめんなさい。一度あなたと歩いてる所を街で見たことがあるの。」
「いえ、かまいませんよ。妹は耳が聞こえないんです。どこかにでかける機会も少ないのでスーパーに買い物なんていう味気ない物でも結構楽しみにしているんですよ。一回すっぽかしたら、しばらく無視されちゃって。」
会長をまえにして妹との惚気話をするなんて、間抜けで情けない気もしたが、それよりも会長が僕のことを前から知っていたというのに驚いた。
「味気ないなんてことないよ。とても素敵なことだと思うな。そういうふうに何気ないことを大事にできるのはとても大切なことよ。それで、約束の時間には間に合いそうなの?」
携帯電話を取り出し時間を確認する。本当はそんな必要はない。
「走れば何とか間に合いそうです。」
会長は煙草を携帯灰皿で潰すと、鞄の中にしまった。
「じゃあ急がなきゃ。さあ、走りなさい。男の子。」
いつもの柔らかい微笑みとは違うすこし悪戯っぽい笑顔。
走る前にその笑顔で動悸が激しくなってしまう。
「ねぇ、明日もくる?」
教室を出ようとドアを引いた時に、聞こえた声はすこし甘味を帯びていた。
「明日は土曜日。休日ですよ。」
教室を後にして、もしかしたらあれはデートのお誘いだったのではないかと思ったのは、しばらく走ってからのことだった。
それでも、まあいいかと思う。
会長は笑っていたし、足も小気味のいいリズムで揺れていたから。
ちなみに大遅刻をしたにもかかわらず、ニヤついて帰ったため、由紀は盛大に拗ねたが、美緒と咲のおかげでなんとか、機嫌をなおしてくれた。
結局、買い物には四人で行くことになった。
美緒と咲は覚えたての手話や、思いついたジェスチャーでなんとか意志の疎通を図っている。おもしろいことにうまいこと二人の言いたいことが、由紀に伝わっている。
由紀もそんな二人に嬉しそうに手話を教えている。
よく一晩でこれほど仲良くなったものだ。
スーパーににつくと、由紀と咲が二人でお菓子売り場に走って行ってしまった。
美緒は隣にいる僕を見て、顔をこわばらせる。さっきまでの笑顔は、どうやら由紀と咲と一緒にお菓子売り場に行ってしまったらしい。
「俺たちも、お菓子売り場にいこうか。」
やはり、美緒が僕個人に本当に心を開いてくれるのは、まだ時間が必要だろう。
それが当然だ。
「私たちも行くんですか?」
たとえうつむいていたとしても、顔をあげて人の顔を見て話そうとするのは彼女らしいなと思う。
「うん。たぶん大量にお菓子持ってくるだろうから。いつもだったらそんなこと許さないんだけど、今日ばっかりはねぇ。」
「ああ、なるほど。」
やっと少し表情が柔らかくなった。
「あいつ、こんなことでも結構楽しみにしてるからさ。それに今日は二人と一緒に来られると思ってたから。余計にね。」
そう言いながら、美緒がすでに持っている買い物かごを持とうとするが、なかなか離してくれない。
「由紀ちゃん。玄関の近くでずっとうろうろしていたんですよ。かわいそうでした。」
「二人がいてくれて助かったよ。本当に。」
まだ離してくれない。
「でも、少しわかります。由紀ちゃんが楽しみにしている気持ち。全然『こんなこと』じゃないと思いますよ。」
今日このことをいわれるのは二度目だ。
―彼女たちの父親が蒸発したのよ―
昨晩の電話越しの母の言葉を思い出した。
―何気ないことを大事にできるのはとても大切なことよ―
美緒がそうであるように、会長にもそう思う理由があるのだろうか。
考えすぎだろう。そう思うことにした。
もう、かごを美緒の手から取ることはあきらめた。結果的にいえば由紀と咲が、かごいっぱいにお菓子を入れたせいで、食材の入ったかごを僕が持つことができたからむしろ良かった。
由紀の肩をとんとん、と叩きこちらを向かせる。
「由紀。悪いんだけど今日買った食材は明日使うことにしよう。昨日のカレーがまだ残ってるんだ。だからそのカレーでカレーうどんにしようと思うんだけどいいかな。だから夕飯を作るのは今日と明日も手伝ってくれると嬉しい。」
僕の使う手話を美緒と咲がみているのがわかった。なぜか咲は小さく拍手している。
「わかった。」
由紀はうなずきながら、胸にあてた手を下におろした。
「カレーうどんかぁ。楽しみだな。」
「本当になんでも作れるんですね。」
ちょうど生のうどんにしようか、冷凍のうどんにしようか迷っているところで、携帯に電話がかかってきた。
「隼人。今ひとりか?」
父はまずそのことを確認した。
「いや、今四人で買い物しているとこだけど。」
おそらく一人の方が良かったのだろう。だからといって嘘をつく理由もない。
「そうか、今日は金曜日だったな。でも良かった。ちゃんと仲良くやってるみたいじゃないか。」
「まぁ、由紀のおかげだけどね。」
「そうだろうな。」
本題に入る前に、先に行っていてくれと由紀に伝える。
由紀は二人の手を引いて行った。由紀は僕の意志を感じ取ってくれたのだろう。
「今、皆と離れたよ。それで、どうしたの。」
「すまんな。今日の夜には一旦帰るつもりだったんだが、そうもいかなくなった。」
離れて見える三人は楽しそうに何かを話している。
「正直、こっちも混乱している。いずれ、二人にも話さなければならないが、まずはおまえに話しておこうと思ってな。」
電話の向こうの父はきっと、今まで僕が見たことのない顔をしているのだろう。電話越しにでも焦りが伝わってきた。
「いいか。よく聞けよ。美代子さんがいなくなった。」