クソは何かを連れてくる
平凡な日常の中に起こる変化の兆しなんていうものは、意外と何気ないことなのかもしれない。
例えば、目覚まし時計が壊れたり、そのせいで遅刻したり、一日の時間割を丸々、見間違えていたり、いつも購買で買うあんぱんが売り切れていたり、帰り道で犬の糞を踏んだり…
そのすべてを一日の内に経験した僕の平凡な日常が、ほんの少し、それでも確かな変化を見るのはきっと必然のことだったのだ。
「なんか、臭いよ」
家に帰ると玄関にいた妹がまずそう言った。右足を異様にアスファルトにこすりつけながら歩く僕の姿は滑稽だったに違いないが、どうやらその努力はあまり報われなかったようだ。
「誰か来てるのか?」
玄関には見慣れない靴がいくつか並んでいる。
靴の感じを見る限り何かのセールスに長居されているわけではないようだ。
大人一人に、子供が二人といったところか。
三つの靴の大きさにそう大きな違いは無いが、それぞれ年齢層が出ていた。
「わからない。知らない人。だけどお母さん難しい顔して話ししてる。」
「父さんは?」
「まだ帰ってきてないよ。」
リビングに声が通ってしまうのを控えた方がいいとなんとなく思ったので、声に出さずに手を動かすだけで会話する。妹は、由紀は耳が聞こえない。会話は手話を使う。便利か不便かは別として声に出さずに会話できる。
来客が誰で、話の内容がどんなものにせよ、うんこ臭い靴を玄関に置いておくわけにもいかないので外の庭で洗ってくることにした。由紀も自分の部屋に戻っていった。
サンダルに履き替えて、右の靴だけをもって外に出る。
寒くなってきたこの時季に水を触るのは少々いやだったが、仕方がない。
早く終わらせようと、半ばやけになって洗う。
すぐに臭いの元は落ちた。足を一生懸命こすってきたのは意外に良かったのかもしれない。
「なんだか、結構綺麗になっちゃったな。」
ポツリとでた独り言。
こうなるともう片方も洗わないといけないような気がしてきた。
玄関に戻ってもう片方の靴も持ってくる。
バケツに水を汲み直し、屈みながら同じようにゴシゴシと洗う。
要はバランスが大事なのだ。
靴は二つで一つなのだから。
「その靴お気に入りなんですか?」
突然後ろから声を掛けられて上をみると…パンツがいた。
視線を下におくる。どうやら白いパンツの子がさっきの三足の靴の一つの持ち主らしい。
名残惜しかったが、立ち上がる。
「まぁ、お気に入りというか、ちょっと汚れがついちゃってね。」
背丈、制服、雰囲気。たぶん中学生だろう。最近の中学生はスカートが短い。
垢抜けている感じを抜きにしても、可愛らしい子だ。クラスのアイドルだろう。
男子達はこのスカートの中身に虜になっているに違いない。
「ホントはワンちゃんのウンチ踏んじゃったじゃないんですか?」
きっと初対面の相手との間で、空気を和ますための彼女なりの手法だったのだろう。
今時、本当に犬の糞を踏む間抜けなんているはずがない。
そう、ここ以外には。
「もう、ちょっと待ってよ。ほら、またそんな風にかかと踏んで、ちゃんと履かなきゃ靴駄目になっちゃうよ。」
なんと返答したものかと思っていたところに、もう一人見知らぬ女の子が来た。
物言いからしてお姉さんだろう。そうなんだろうが、しかし対照的な姉妹もいたもんだ。
ひざ下まであるスカート。
長い黒髪を一本に結い、それ以外には何もしていない感じの髪型。
化粧気のない小さな顔には大きな黒ぶちの眼鏡が掛っている。あれじゃ顔に眼鏡がかかっているのか、眼鏡に顔がかかっているのかわからない。
「あっ、こんにちは。あれ、こんばんは…かな?いや、でも…わかんなくなっちゃった…」
午後5時半。微妙といえば微妙な時間。あいさつは大事だ。
でも、今はきっともっと大事なことがある。
「あの…君たちは…お客さん?」
あなた達は誰ですか。
「えっと…なんて言ったらいいんだろう。ちょっと説明するの難しいかも。なんていえば良いと思う?お姉ちゃん。」
「え?私が説明するの。無理だよ。お母さんたちの話し合いが終わらないと、どうなるかわからないもの。」
僕の聞き方が悪かったのかもしれない。なぜここに居るかでは無くて、名前、年齢等の自己紹介を求めたのだが…
「えっと。高橋隼人と申します。花の高校二年生です。」
姉妹の会話の合間を縫って強引に自己紹介をしてみる。
「あっ。あの、原田美緒です。私も高校二年です。」
「原田咲です。中学三年生です。なんで高校二年が『花の』なの?」
若い子なんて嫌いだ。
「隼人。帰ってきたなら、顔見せなさいよ。話があるんだから。」
母親が玄関から出てきて、少し不機嫌そうに言った。その隣に居るのが、原田姉妹の母親か。
きっと真面目に大事な話なんだろう。真剣な内容なのだ。
神妙な顔つきで話し合いが終わった後に玄関がうんこ臭かったら、どんな顔をすればいいのだろう。
いやぁ、帰りにうんこ連れてきちゃった。とでも言って照れ笑いでも浮かべればいいのか。
間違いなく僕の選択は正しかった。だからと言って、うんこ踏んだから洗ってたんだ。しょうがないだろう。なんて言うわけでもないが。
「隼人さん。帰り道にワンちゃんのうんち踏んじゃったんだって。」
…若い子なんて嫌いだ。
「こら、咲。駄目だよ、そんなこと言っちゃ。」
「あぁ、それで玄関が変な臭いがしたのね。ちゃんときれいにしたの?」
誰か、僕の努力を報いてくれ。それか、ここにいる人間の鼻を潰してくれ。
「それで、この、うんこ様に話って何?」
「真面目な話なのふざけないで。」
本当にすいませんでした。もう言いません。
でも、お年頃の女の子二人の前で、叱られる男子高校生の気持ちも少し汲み取ってほしいです。
「詳しいことは、また後で話すわ。ちょっと急ぐの。これから私と美代子さんは出なきゃいけないから。お父さんも私たちと合流することになってるからね。たぶん今日は帰らないと思う。それで、美緒ちゃんと咲ちゃんはしばらく家にいることになったわ。あと悪いんだけど、色々立てこんじゃって、夕飯の準備ができてないの。隼人作ってもらってもいいかしら。」
夕飯のことはわかった。何も問題は無い。料理は得意だ。でも、無難にカレーにしよう。あれなら失敗しない。
いや、そんなことはどうでもいい。
「ひとつ聞いてもいいかな。」
確認しなければならないことはたくさんある。
「明日は平日だけど。それは、わかってるんだよね。」
「急いでるのよ。」
ふざけないで、と言われる前に母の言葉を遮る。
「悪いけど、ふざけてない。」
でも、今はこれだけで十分だろう。事の重大性を図ることができれば、それでいい。
「あなた、私が母親で良かったわね。そういう、ひねくれた質問の仕方はなかなか理解されないわよ。まぁいいわ。そう明日は平日よ。」
まぁ、そういうことなんだろう。どういうことなんだろう…?
わかったのはあまり普通ではないということか。
「わかったよ。車と犬の糞には気をつけて。」
母は呆れた顔で、美代子さんは不安そうな緊張の解けない顔で出ていった。
「なんだか、すいません。ご迷惑おかけしちゃって。」
うつむき気味にお姉さんが話す。
「まぁ、難しいことは飯を食べながらにしよう。」
少し、いやかなり恰好つけて言ってみる。気持ち悪かったかもしれない。
「はい。」
下を向いていた顔が上がって、はじめてその子の笑顔を見た。
なんだ。お姉ちゃんも笑うとかわいいじゃないか。
「ねぇ、隼人さん。何作ってくれるんですか。」
妹の人見知りをしない性格は、この状況のなかで大きく貢献している。
「うん。カレーにしようかと思ってるんだけど。」
玄関に入ろうと歩いていた二人の足が止まる。
「隼人さん。ホントはウンチ好きなんでしょ。」
もしかしたら、自分で気づいていないだけで本当にそうなのかもしれない。
家に入ると、状況に置いてきぼりにされた由紀がちょこんとリビングに座っていた。