第3章(2)
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事務所の薬箱を開けながら、俺は頭の中を素早く回転させていた。
市村が事務所に入って来て、俺の向かいに座る。
「手を出せ。」
おずおずと出す手を取る。
脈が早く、掌にはジットリと汗をかいている。
傷を消毒しながら、目線を上げずに話す。
「…市村、今度少し時間を作って貰えるか?」
「私も、藤田さんにお願いがあります。」
「何だ?」
「お父様に、ご連絡を取って頂けませんか?」
「?!」
「市村が、是非稽古をつけて頂きたいと。」
「先程の話、我が父の事だったのか?」
「はい。」
「それでは、その折に、俺の質問にも答えて貰いたい。」
「何でしょう?」
「…魔女について。」
「……わかりました。」
数日後、俺は出掛ける用事がてら、彼女を小太刀の稽古に送ると所長に話し、車で実家に向かう。
「ただいま戻りました。」
「お帰りなさい、剛さん。市村さん、いらっしゃい。」
母が、俺達を迎える。
「ご無沙汰致しております、時尾様。」
「さあ、どうぞ…。先にお着替えになる?あの人は、道場で待っているから。」
「はい。」
そう言うと、別室に彼女を通した。
「母上も、彼女をよくご存知なのですか?」
「以前、2度程お見えになった事が有るのですよ。」
「彼女は、一体…。」
母は、眉根をよせて静かに言った。
「それは、ご本人と父上にお聞きなさい。」
「失礼します。」
袴に着替えた彼女は、髪を高く結びつけ、凛とした佇まいになった。
俺は、彼女を道場に連れて行く。
「失礼します。父上、市村桜さんをお連れしました。」
道場上座に座った父の向かいに、市村は進み出て手を付いた。
「ご無沙汰致しております。斉藤さん。」
「…その名前で呼ばれるのは、久し振りだ。変わり無い様だな、市村。」
その遣り取りを聞いて、予想はしていたものの大きな衝撃が走る。
俺の父は、以前警官隊に居たが、それ以前幕末には新撰組隊士として名を馳せていた。
三番隊組長といえば、居合いの達人、維新の志士を大勢手に掛けたが、鳥羽伏見の戦いで会津に組みし、官軍に敗れた後は会津藩お預かりとなった身だ。
斉藤一という名前は、新撰組に居た時に父が使っていた名前。
その名前を、市村は言った。
今から50年近く前の筈。
「今日は、お預かり頂いていた小太刀を、お返し頂きたく参りました。」
「稽古も所望だったな。」
「はい、お願い致します。」
父は、用意していた小太刀を市村の前に置く。
市村は、それを腰に差し、スラリと抜くと父と対峙した。
掛け声と共に、市村は父に向かう。
キンッという金属音が何度か交わされ、父が市村を力で跳ね飛ばした。
息と体制を整える市村に対し、父は刀を鞘に収め、低い体勢を取る。
あの構えは!
間合いを見ていた市村は、再び掛け声と共に突っ込む。
銀色の光が弧を描き、ギンッ!という音と共に市村の小太刀が吹っ飛び、彼女の喉元に刃が掛かる。
新撰組三番隊組長、斉藤一の抜刀術。
未だ衰えを知らぬその技に、俺の背中は汗で濡れる。
まるで、自分が対峙している様だ。
父は刀を収め、市村も飛ばされた刀を収めて座る。
「ありがとうございました。」
「いい立ち会いだった。」
「斉藤さん、私の腕は…。」
「心配するな。相変わらず、曇りの無い剣だ。」
「良かった。しばらく手にしていなかったので、不安だったんです。」
そう言うと、汗を拭い彼女は笑う。
いつも事務所で見せるのとは違う、少女の様なその笑顔に、俺は見取れていた。
「その小太刀を手に取ると言う事は、現れたという事か?」
「はい。実際に小太刀を使う事にはならないと思いますが、この小太刀も又、私の心の支えですから。」
「そうか…。市村、剛と同じ所に居るのだと聞いたが。」
「はい。藤田さんには、お世話になっております。」
父は、俺の方に視線を移すと、
「剛、立ち会いなさい。市村、見取り稽古をするといい。まだ、腕が痺れるだろう。」
「ありがとうございます。」
それからしばらく、俺は久々に父と立ち会った。
幼い頃から稽古を付けて貰っていたとはいえ、この人の剣には到底及ぶものではない。
父の剣は、竹刀よりも真剣、実戦で力を発揮する。
それを、いきなり真剣で立ち会いだと?
有り得ない…。
「今日は、お前の方が心に乱れがある様だな。」
「申し訳ありません…。」
父は、小太刀用の竹刀を持って来ると、市村の前に置いた。
「普段の稽古は、剛に付けてもらうといい。真剣と言う訳にも、いかないだろうからな。これを持って行け。」
「ありがとうございます。」
稽古が終わり、彼女が着替えている間、俺は父に問いただした。
「父上、彼女は一体…。」
父は、腕を組み静かに目を閉じて言った。
「…お前も、先程の会話を聞いて、薄々は理解出来たのではないのか?」
「しかし、いくら何でも…。」
「彼女に…話を聞くのか?」
「市村は、答えてくれると言いました。」
「…そうか…。」
深いため息を吐くと、居住まいを正し、父は言った。
「話を聞くのは構わん。ただ、他言無用だ。お前の仲間にもだ。彼女は、紛れもなく誠の旗を掲げた、新撰組の隊士だ。その秘密を他言するとなれば、私が容赦はしない。」
そして、いきなり抜刀すると、切っ先を俺の喉元に当てたまま言った。
「彼女には、果たす事がある。その思いだけで、今迄生きてきた。」
本当に、斬り殺される様な威嚇に、俺のこめかみから汗が流れ落ちる。
「…。」
やがて刀を収めると、
「剛、市村を守ってやれ。絶対に死なせるな。」
と言った。
後ろで扉を開ける音がする。
「剛さん、市村さんがお待ちですよ。」
と、母が声を掛ける。
父に一礼すると、母と共に道場を出た。
「…殺されかねない威嚇でしたわね。」
「見ておられたのですか?」
「市村さんの事になると、未だに血が湧くのでしょうね。」
「どういう事です?」
「父上の、昔の想い人ですょ。多分、間違いありません。」
そう言うと、母はコロコロと笑った。
「では、昔の恋人…?」
「いいえ、父上の片思いでしょう。市村さんは、気付いてらっしゃらないから、剛さんもそのつもりでね…。」
「…。」
今日は、とんでも無い事を、山の様に知ってしまう日になるらしい。
座敷には、市村が静か座り、俺を待っていた。
「待たせて済まない。」
「いえ。」
母が座を外すと、俺は口火を切った。
「俺が、父の息子だと、いつ気が付いた?」
「初めから、お名前も存じておりましたし、お父上の若い頃に瓜二つでしたので…。」
「…。」
「それに以前、此方にお伺いした時に、お会いしました。お忘れだと思いますが…。」
「いや…。」
俺には、朧気ながら記憶があった。
彼女がまだ寝込んでいた頃、持っていた懐中時計を見て、幼い日の記憶が蘇った。
家に来宅した女性に、庭で遊んで貰った記憶。
彼女の懐から取り出した時計を見せて貰った俺は、粗相をして落としてしまった。
落ちた拍子に蓋が開き、文字盤の硝子にヒビが入っている事に驚き青くなった。
父や母の怒り声が響く中、彼女はふわりと俺を抱き寄せたまま優しく言った。
「驚きましたね坊ちゃん。大丈夫ですよ。この時計は、元々壊れているんです。」
「本当に?」
「はい。だから、気にしないで下さい。」
子供ながらにその優しさが嬉しくて、自分から抱き付いた。
顔は、はっきり覚えていない…だが、母とは違う、いい匂いがした…。
「藤田さん?」
「いや…、先日言った、魔女の話だが。知っているのか?」
「はい。」
『魔女伝説』…誠しやかに流れるその話は、どこからともなく上流階級の中で広まっている都市伝説。
この世には、永遠に歳を取らない美女が居る。
夜な夜な人の生き血を啜り、変わらぬ美貌を保ち続けている…という吸血鬼の話だ。
「あの魔女とは、お前の事か?」
「噂の元は、私かもしれません。かなり脚色されていますが…。」
そう言うと、クスクスと笑った。
「吸血鬼というのも?」
「脚色ですょ。」
「何時からだ?歳を取ることが無くなったのは。」
「多分…明治の御代になって、直ぐ位だと思います。」
「何故だ?どうして…。」
「わかりません。」
「!?」
「私にも、解らないのです。」
「…。」
「年を取らないというのは、やはり気味が悪いですからね。奉公先も3年から5年で変わらないといけませんでした。何十年も空けて同じお屋敷に勤める事もありましたが…それにしても、先日のキヨさんには参りました。」
と、子供の様に笑った。
「西園寺の伊豆の別邸に居たというのも、お前なのか?」
「そうです。」
「所長や真吾とも、会った事があるんだな?」
「えぇ、可愛かったですよ、お二人共。」
俺は顔をしかめて、こめかみを揉んだ。
父上、もしかしたらバレるのは時間の問題かもしれません…。「誰か、人を探していたのか?」
「…はい。」
「…敵か何か、いわくのある人物なのか?」
「…。」
「俺は先程父より、お前を守る様に言われた。絶対に死なせてはならぬと。」
「…。」
「相手は誰だ?誰から、お前を守ればいい?」
「…。」
「市村!!」
「…ご勘弁下さい。そればかりは…。」
そう言って、彼女は深々と頭を垂れた。