第1章 (1)
その女性を初めて見たのは、岩崎邸の居間だった。
岩崎氏の長男清志君が誘拐され、犯人より身の代金の受け渡しの書簡が投げ込まれたのだ。
そこで我々、巴探偵社に依頼が舞い込み、岩崎邸の全員を居間に集めたのだ。
「それで、警察に連絡は入れられたのですか?」
この男は、藤田剛。冷静沈着で度胸もある、信頼出来る俺の片腕だ。
「いえ、警察にはちょっと…。出来れば、あなた方の手で解決して頂きたいと…。」
テーブルの上には俺の、『巴探偵社 所長 西園寺歳文』と書かれた名刺が置かれている。
その名刺を弄りながら、汗を拭き拭き、岩崎氏が説明する。
探られると、不味い事でもあるのだろう。
其れにしても、我が子の命よりも、己の対面か。
「犯人に、心当たりは?」
「それは…。」
有り過ぎて、分からないといった所か。
応接セットには我々の他、憮然とした本妻と、泣き崩れる妾である母親が座る。
「承知しました。それでは、私共で全て対処させて頂きます。」
「ちょっと待てよ、藤田。この脅迫状には、身の代金は女が持って来いと書いてあるんだぜ。」
そう声を掛けたのは、川崎真吾。腕と度胸は人一倍の、俺の腐れ縁の幼なじみだ。
「所長、如何いたしましょう?」
「そうだな、うちには女性捜査員は居ない事だし、こっちで誰かに出て貰うしかねえんじゃねえか?」
部屋に集まった者達が、一斉にざわめく。
「あたくしは、嫌ですわよ!」
本妻が、汚らわしいとでもいう様に、ハンカチーフで口元を押さえながら言い放った。
「わ、私が…私が…」
と、母親が岩崎氏に懇願する。
「申し訳ありませんが、貴女には無理でしょう。とても冷静な行動はとれそうに無い。」
そう説く藤田に、力無く頭を垂れる母親。
「誰か、清志の為に行ってはくれないかね?」
再びざわめく室内。
岩崎氏は、10人程いる女中の一人一人の顔を見た。
「お願い!どうか、清志を、清志を…」
母親も泣きながら、懇願する。
気まずく押し黙る女中達。
「だから、女性捜査員置こうって言ったじゃねーか。」
「今此処でその様な事を言っても始まらん。」
「さて、どうしたもんか…」
と、俺が腕を組んだ時、
「あの…、私が参りましょうか?」
後列端にいた女中が、名乗りを上げた。
再びざわめく室内。
「行ってくれるかね?」
岩崎氏は、女中に走り寄り手を握り締めた。
年の頃は20歳そこそこ。
取り立てて言う程の美人では無いが、大きな瞳が印象的な娘だ。
「いいのか?身に危険な事が及ぶかもしれねぇんだぞ。」
「はい。」
そう答えた、曇りの無い真っ直ぐな瞳。
「分かった、それじゃあんたに頼もう。岩崎さん、金の準備を頼みます。」
「分かりました。明日の昼までには。」
受け渡しは、明日夕方6時。
それまでに俺達は準備をしなければ…。
「それでは、また明日伺います。」
岩崎氏と打ち合わせを済ませ邸を出る時、玄関まで見送りをたその女中に俺は答うた。
「あんた、名前は?」
「…市村…市村桜と申します。」
そう答えると、また真っ直ぐに瞳を返した。
「さてと、どう思う?」
車のハンドルを切りながら真吾が訪ねる。
「商売絡みなのか、ただの金目的なのか、どちらにしても犯人の詮索無用ってのが気にいらねぇ。」
「一応探ってみるか?」
「あぁ、頼む。」
「あいよ。」
面白い遊びを見つけた様に、真吾は鼻歌混じりにハンドルを操った。
「所長、内部に手引きした者の疑いも捨て切れぬのでは?」
「あの本妻か?あれにゃ、そんな度胸ねぇよ。」
「では、雇用人は?」
あの場で見る限り、怪しい素振りを見せた者は居なかった。
「あの娘は?」
「あぁ、可愛かったよな?あの娘。俺、あの洋装の女中って好きなんだよ。」
「あれは、ハウスメイドというのだ。」
「へぇ、よく知ってんなぁ、藤田。」
「常識だ。」
危険と知りつつ名乗りを上げるのは、見上げた忠誠心だと思うが、彼女の反応は確かに符に落ちない点もあった。
声に…あの瞳…曇りは無かったが…。
「どう思う、藤田。」
「あの対応、一介のメイドにしては、肝が据わり過ぎかと…。」
「そうか…。彼女に関しては、その場の行動如何で対処する事にしよう。」
「了解しました。」
俺達の「巴探偵社」は、上野にある。
途中、調べ事のある真吾を下ろし、藤田の運転で俺達は戻って来た。
以前は、英国の貿易商が使っていた自宅兼事務所は、全てが西洋風な佇まいだ。
ドアに取り付けてあるベルが鳴ると、しばらくして割烹着を着たキヨが顔を出した。
「お帰りなさいまし、坊ちゃま。」
「あぁ、今戻った。」
「只今、戻りました。」
キヨは俺の乳母で、齢60を越している。
男ばかりが住むこの館の一切を取り仕切っているが、最近歳のせいか時々辛そうだ。
何度か女中を雇ってみたが、この館にはどうも長居が出来ない様だ。
キヨに原因が有る訳では無い。
原因は、男共に有るのだが、それは致し方ない。
「それでは、明日の準備を…」
それから、俺達は準備に追われた。
その間も、ふとした事でもたげる彼女の顔。
何故気になる?
名乗りを上げたからか?
以前、どこかで見かけたか?
しかし、記憶の糸を手繰り寄せても、その顔は出て来なかった。
翌日、昼過ぎに岩崎邸に出向く。
岩崎氏は、約束通り金を用意し、旅行鞄に詰めてあった。
市村桜は、真吾が期待したメイド姿では無く、グレーのツイードのワンピーススーツを着ていた。
恐れる様子も無く、慌てる様子も無く、静かなものだ。
時間が迫り、俺達は車に乗り込む。
取引場所の廃工場は、ここから車で一時間程の所にある。
車に乗り込むなり、藤田は、彼女に探りを入れ始めた。
出身地、以前の勤め先、岩崎邸に雇用された経路、どれを取っても不自然な所は無い。
ただ一点を除いては。
「お前、恐ろしくは無いのか?」
「はい?」
また、真っ直ぐに見つめられ、俺の方が視線を外した。
「今から行く場所には、命の遣り取りがあるかもしれねぇ。銃だって、ぶっ放されるかもしれねぇんだぞ?」
「そうですね…。」
そこで初めて、彼女は視線を落とした。
「怖くはねぇのか?」
「全く怖く無いと言ったら、嘘になります。でも、皆さんの事を信じていますから。」
真吾がヒューと口笛をならし
「いいねぇ、『信じてる』。いい響きだ!俺は好きだぜ。」
と、喜ぶ。
驚いて目を見開く、後の二人。
先に口を開いたのは、藤田だった。
「何故、初めて会った俺達に向かい、信じていると言える?何を根拠に…」
いつも冷静な藤田が、いつになく狼狽えている。
「さぁ、何故でしょうねぇ?」
その様子が可笑しかったのか、彼女も笑いだす。
運転席では、真吾が大爆笑していた。
俺は、苦虫を噛み砕いたように一人ごちた。
「お前等ぁ、気ぃ引き締めて行けよ!」
廃工場に着いた時には、辺りは夕闇が迫っていた。
市村桜を指定された工場の中央に立たせ、俺達は打ち合わせた位置に配置を完了する。
ほどなくして、車の止まる音が。1台?いや2台か。
猿ぐつわを填められた少年を囲む様に、3人の男達が現れた。
男達の手には銃が握られ、その内の一丁は少年に向けられている。
「金は?」
「ここに有ります。」
「見せろ!」
彼女は旅行鞄を開け、中の札束を見せる。
「よし、持って来い!」
「坊ちゃまを離して下さい!」
「何だと?」
気色ばむ犯人に、彼女は毅然として言い放つ。
「坊ちゃまを、離して下さい!」
リーダー格の男が隣の男に顎をしゃくって指示を出す。
指示された体の大きな男は、太い腕で少年の肩を掴み、銃を突き付けたまま彼女の元までやって来た。
彼女は、犯人を睨み付けたまま少年を奪い、素早く猿ぐつわを解いてやる。
「…っ、さくらぁ、さくらぁ!」
「大丈夫ですよ、坊ちゃま。よく頑張りましたね!どこもお怪我は、ありませんか?」
少年は被りを振りながら、彼女にしがみついて泣きじゃくる。
不意に、少年を抱きしめていた彼女を、男が後ろから羽交い締めにする。
「兄貴ぃ、こんなに簡単に金が取れるなら、この女とガキで、もっと金引き出せるんじゃねーか?」
「止めておけ。」
しかし、大きな男はそれを無視して、
「それにこの女、ちょっと可愛いしよぉ、俺好みだ。」
そういうと、彼女を床に組み敷いてしまう。
彼女の名を呼び続け泣きじゃくる少年に、
「坊ちゃま、逃げて下さい!」
そう、抵抗しながら彼女は叫ぶ。
こういう展開になるとは、迂闊だった。
俺は、離れた位置に居る藤田に指示を出し、リーダー格の男達の対処に当たらせ、床に転がる二人の所に走る。
「おい、何やってんだ?」
そう言うと、男ね体を蹴り上げて彼女を救出する。
彼女は素早くその場を離れ、少年と壁際に引いた。
「何だ、テメェは?!」
向けられた銃を蹴り飛ばし、俺はそいつの眉間に銃口を当てる。
「大人しく金だけ持ってかえるなら、見逃してやろうと思っていたのによ。」
「ほぅ、そうなのか?」
不意に背後で、撃鐵の上がる音と共に男の声が聞こえた。
「くっ!」
新手か?
此方は3人、相手は4人、どうする?
その時、
「動かないで!」
彼女が叫ぶ。
少年を後ろに庇い、さっき俺が蹴り飛ばした銃を構えて、新手の男の背後から狙いを定めていた。
「ほぅ?」
新手の男は、銃を構えたまま振り返り、彼女に迫る。
まずい!
彼女の元に向かおうとした俺を、大男が阻む。
「逃げろ!」
じりじりと追い詰める男の顔が月明かりに照らされる。
「叔父さん!」
「高明様!」
少年と彼女が叫ぶのは、同時だった。
藤田が睨んだ通り、内部に手引きする者が居たか。
「何故です?」
しばらくの沈黙の後、銃を構えたまま彼女は問う。
「何故かだと?清志、強欲なお前の父親は、全てを自分の物にして、身内である俺でさえ切り捨てようとしたのだ。俺の事業も、お前の父親にことごとく邪魔をされてしまったのだよ。」
「でも…それでも、坊ちゃまを誘拐していい理由にはなりません!」
「言うな、小娘。お前、あの家の使用人か?女の身で銃など、止めておけ。お前に扱える代物では無い。」
そう言って、高明と呼ばれた人物が近づこうとした時
『ガーン』
彼女の銃口が火を噴いた。
その場の全員が固まる。
高明の足下から煙が上がっていた。
「お前っ!」
明らかに焦りを表した高明に、彼女は目の前まで詰め寄り、銃口を胸に押し当てた。
「この距離なら、外しません。」
「くそっ!」
高明も彼女に銃を突き付けた。
「そこまでだ!高明さんよぉ、俺達はあんたのお兄さんから、犯人の詮索無用って言われて来てるんだ。あんたが此処で引くなら、俺達は何も無かった事に出来る。しかし、これ以上事を起こすなら、それ相応の覚悟をしてもらわなきゃならねぇ。」
しばらくの沈黙。
彼女と高明の対峙は続く。
「どうするよ、高明さん?」
不意にガッと音がして、彼女が崩れ落ちる。
高明が銃尻で、彼女のこめかみを殴りつけたのだ。
そして、
「お前達、引き上げるぞ!」
そう言うと、忌々しげに金も取らずに仲間を連れて引き上げてゆく。
「大丈夫か?嬢ちゃん?!」
真吾が彼女を抱え起こす。
痛みと目眩で顔をしかめながら、彼女が最初に吐いた言葉は、
「坊ちゃまは?」
だった。
「大丈夫だ。緊張の為、気を失っているがな。」
清志を抱きかかえた藤田が答えると、彼女は安心した様に
「良かった…」
と呟いて笑った。
「全く無茶しやがって!殺されるかもしれなかったんだぞ!」「でも、助けて下さったでしょう?」
「ぐっ!」
ちげーねぇと笑う真吾を睨み付け、俺達も廃工場を後にした。