第5章(2)
彼女の口からくぐもった叫び声が発せられ、俺達を跳ね飛ばし体を反らせる。
「ちゃんと押さえてろ!縫う時は、こんな物では無いぞ!」
医者の怒号が響く。
俺達は、気合いを入れ彼女を押さえ付ける。
彼女は、一針縫う毎に呻き、玉の汗を流し、喘いだ。
俺達は、押さえ付けながら彼女を励ました。
「気ぃ失っちまった方が、楽だろうに…。」
「それは、無理だな。痛みで引き戻される。終わる迄、地獄の苦しみだ。」
「地獄の苦しみの後には、天国が来るんだよな?トシ。」
「…そうだな。」
「聞いたか?桜!お前、また事務所で一緒に働けるぞ!」
「それは…!」
「所長、市村は、我々と一緒に事務所に居る事が幸せだと、俺も思います。」
「変わったお嬢さんだ。こんな傷だらけになる職場、私だったら願い下げだがね。」
医者は、一針一針縫いながら言った。
「ほら、桜に約束してやれよ、トシ!」
「所長!」
「あぁ…」
そう言うと、俺は彼女の耳元で囁いた。
「お前の居場所は、俺達の…いや、俺の所だ。戻って来い、桜。もう、何処にも行かせねぇ。」
痛みに耐える彼女の右手が、俺の手を握り返した。
彼女は3時間激痛に耐え、そのまま昏睡状態に陥った。
「先生…。」
「後は、彼女の気力と体力の問題だが、先程話した精神的な問題は、正直彼女が目覚めてみないと、何とも言えんな。」
「そうですか…。」
「それより、君の足の傷も縫ってしまおう。その方が治りが早いからね。」
「先生、俺も…」
「麻酔無しで縫ってくれなんて、言わないでくれよ。あんな事は、もう懲り懲りだからな!」
「…わかりました。」
俺が麻酔から覚めると、枕元で真吾が大いびきで寝ていた。
「…うるさいぞ、真吾…。」
その声を聞き、藤田が覗き込んだ。
「お目覚めですか?所長。」
「あぁ、良く寝た気がする…。」
「半日、寝ておられました。」
「そうか…お前達も、帰って休んでくれ。俺はもう大丈夫だ。」
藤田は、ちらりと真吾を見て、
「そうさせて頂きます。事務所も片付けなければなりませんし。」
と言った。
「あぁ、悪いが頼む。…彼女は?」
「此方に…。」
と、藤田がカーテンを開けると、隣のベッドに桜が寝ていた。
「医者から、モルヒネを投与するか、相談がありました。」
「モルヒネか…量は?」
「市村の場合、かなりの量を入れないと効果は無いとの事です。」
「だが、常習性が残ると?」
「はい。」
「…苦しいだろうが、止めさせるべきだろうな。」
「彼女には酷ですが、俺もそう思います。」
「わかった、その件は俺から話しておく。」
藤田が真吾を連れ帰った後、俺はベッドから起き桜の枕元に座った。
うつ伏せになった彼女は、息が荒く玉の様な汗をかいていた。
傷の為に熱が出ているのだろう、俺は濡れた手拭いで顔や身体を拭いてやる。
全く無茶ばかりしやがる。
まぁ、お前の無茶は、今に始まった事じゃない。
最初は、俺の周りをチョロチョロしていただけだったのに、何時の間にか俺の心に住み着きやがった。
殺伐とした日々の中、お前の笑顔が俺の、俺達の心の安らぎだったな。
あの頃、流山で近藤さんを失って、宇都宮の戦いで俺が無茶をしたばかりに、お前の背中に最初の傷を作っちまった。
あの時も、足を負傷した俺を庇ったんだったな。
俺が療養から会津の前線に戻る時、お前を離しときゃ良かったんだ。
だが、近藤さんを失って、俺はどうしようもない心の渇きを、お前の存在で満たさなければ、前に進めなかった。
白河、会津、仙台そして蝦夷まで、お前は歯を食いしばって付いて来た。
蝦夷で、流石に先が無いと思った時、鉄之助と一緒に落ちさせるつもりだったんだ。
蝦夷の遅い桜の時期だったな。
窓を開けると、満開の桜が咲き乱れ、部屋の中にも桜の花びらが舞い込んでいた。
お前は、泣いて泣いて…一晩中俺は抱き締めて、来世で必ず一緒になろうと約束し、俺の小太刀、堀川国広を与えて金打を打った。
決戦最後の朝、鉄之助と共に落ちたと思っていたお前が現れた時には、正直驚いた。
あの朝の俺の覚悟を、お前は直ぐに見抜いて、背を向けて時計を巻く俺の背中に抱き付くと、帰りを待っていると言った。
だが俺は、お前の言葉に何も返してやる事が出来なかった。
一本木関門で俺の腹に風穴が空いた時、俺は自分の思い通りに生きた、良い人生だったと思ったんだ。
心残りは、あそこに残したお前を、また泣かせちまう事だけだった…。
夏の終わり、俺達は事務所に帰って来た。
秋が深まっても、彼女の意識は戻らない。
正確には、起きて生活出来る様にはなっていた。
だが、意識が飛んでしまっていた。
何を見ている訳でも無く、何を話す事も無く、ただ幼女の様に、俺の姿だけを追っていた。
「入るぞ、トシ。」
そう言ってズカズカ入って来た真吾は、俺達の姿を見て呆れた様に
「また、抱いて寝てたのか?」
と、溜め息をつく。
ベッドに横たわる俺の胸には、桜が寝息を立てていた。
「こうやってないと、落ち着かないんだ。」
昼間は、俺が見える所に居るだけで安心する様になったが、夜になると俺を探し回り、おれの懐に入り込む。
1人で寝かせると、一晩中震えて翌朝には錯乱状態になる。
あまりに率直な感情に最初戸惑ったが、今では同じ部屋で過ごす様にしていた。
「しかし、これがあの桜かと思うぜ。」
真吾がニヤリとと笑う。
「確かに、意識が戻ったら、絶対に見せてくれない姿だな?無意識ってなぁ、恐ろしいもんだ。」
俺は、桜の髪を撫でながら言った。
「お前、楽しんでないか?」
「あぁ、こんなに率直に俺を求める事なんざ、今だけだろうからな。恋人と娘を、同時に持った気分だ。」
「…本当の意味で、抱いてやって無いんだろ?」
「馬鹿やろぅ。俺は、幼女をいたぶる趣味はねぇよ。それに、こいつには待たせちまったからなぁ。今度は、俺が待つ番だと思ってな。」
「はっ!とんだマゾ野郎だぜ!」
「ぬかせっ!」
と、2人して笑い合う。
真吾に頼んだ彼女の調査は、正直驚くものだった。
調査出来たものだけで10件の屋敷で、短期間の奉公を続けていた。
記憶が戻った今となっては、意味の無い調査を、俺は打ち切らせた。
真吾は、例の魔女伝説は、実は桜なのではないかと、瞳を輝かせて興奮していた。
もしかしたら、伊豆に居た姉やも、彼女かもしれない…。
「で、どうなんだ?意識の方は?」
「時々、目の奥で、何か光る時がある…。以前に比べると、少し笑う様にもなって来た。」
「そうか、少しずつ前進してるならいいんだ。」
「あぁ、お前達にも負担を掛けるな。」
「なぁに、藤田だって心得てる。心配するな。」
その時、
「…ぅ…ん…」
桜が目覚めそうだった。
「トシ、ちょっと俺と代われ。」
そう言うと、真吾は俺をベッドから引きずり出し、桜の隣に寝そべって、その身体を抱いてやる。
こいつは、昔からこんな悪戯が好きだ。
やがて、目を開けた桜に、
「おはよう、お姫様。今、お目覚めかい?」
と、聞いた。
しばらくじっと真吾の顔を見ていた桜の目に、みるみる涙が溢れる。
「わっ、わ、悪かったって!冗談だから!」
「幼女に冗談なんか、通じるか。馬鹿。」
そういうと、俺は桜に顔を見せた。
「悪かったな、桜。俺は、ここに居る。」
俺の顔を見る桜の目に、チカチカと光が見えた。
俺が、そっと抱いてやると、その胸に飛び込み、声を上げて泣き出した。
「わっわっ、どうしたらいい?」
と、慌てふためく真吾。
確かに、今迄声を上げて泣くなど、激しい反応はしなかった。
「確かに、いい刺激にはなったみたいだな。」
「大丈夫なのか?」
「あぁ、2人にしてくれるか?」
真吾は、そっと部屋を出た。
なおも声を上げて泣きじゃくる桜の耳元で、俺は囁き続ける。
「桜、桜、落ち着け。あれは真吾だろう?」
「…。」
「夕べから、お前の側にずっといたのは俺だから、心配するな。」
少しずつ声が小さくなる。
「愛してる、桜、ずっと一緒だ…愛してる。」
これまで何百回と言ってきた呪文。
この言葉が一番桜を落ち着かせるのを、俺は知っている。
「…。」
泣き止んだ桜が、じっと俺を見つめる。
俺を見上げる目に、焦点を合わせようとする。
俺は、彼女の唇を覆った。
差し込んだ舌に、彼女が答えた。
「!」
俺の腕に力が入る。
唇を離し、彼女の耳元で囁く。
「桜、桜、目覚めたのか?」
「…ひ…じ…西園…寺…さ…ん…。」
「桜っ!!」
俺達は、長い長い別離の時を埋める様に、唇を重ねた。
2人揃って事務所に出た俺達を、真吾と藤田はとても喜んでくれた。
真吾は、俺の判断が正しかったと彼女を抱き上げた。
藤田は、流れる涙を隠そうともせず、喜んでくれた。
久々に彼女に淹れてもらった日本茶を啜りながら、思い出話しが次々と後を絶たない。
「市村、我が家で話した事を覚えているか?」
「はい。」
「あの時、父はお前を守れ、死なせるなと言った。あの時俺は、誰か敵から守るのだと信じ込んでいたが…。」
「…。」
「あれは、お前自身から、お前の命を守れという事だったのだな?」
「宇都宮で私が負傷した後、斉藤さんにお会いした時、酷く叱られました。もし、私が死んでしまったら、副長がどんな思いをなさるか考え無かったのかと。私は答えました。命を懸けて守りたいものがあるなら、私は自分の命を厭わないと。」
「…やはりな。」
「とても叱られましたけど、斉藤さんは言って下さいました。自分が側に居る限りは、副長の為にお前の命を守ってやると…。」
「…。」
「藤田さん、ありがとうございます。」
「いや…。」
「それは、藤田がトシと桜の為に、頑張ったって事だよな。」
と、真吾が藤田の背中をバシバシ叩いて言う。
「…あぁ。」
藤田は、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。