第4章(7)
「彼女、藤田の親父さんの家に暫く預かって貰った。」
「そうか。」
「藤田の親父さんがなぁ、桜に約束してたのを聞いちまった。絶対に自分から命を絶つ事を禁ずるってな。」
「…。」
「で、どうしても駄目な時には、自分が苦しまない様に、引導渡してやるってよ。」
「そう言ったのか?」
「あぁ。武士が約束する時の…金打っていうのか?桜と2人でしていた。そうしたら桜、憑き物が落ちた顔して、やっと笑ったんだ。」
「やはり、ずっと…」
「あぁ。考えてたんじゃないか?自分が引導渡してやるって…間違ってるのかもしれねぇが、そういう愛し方もあるんだと思った。ある種、究極の愛の形だな。」
「…そうだな。だが、俺には出来ない。」
「俺にも無理だ。ありゃ、本物の武士だぜ。」
「旧幕軍の生き残りだそうだ。というより多分、新撰組の…。」
「本当かよ!」
「あぁ。」
「俺も、あの人の道場通おうかな…。」
彼女の身体に障害を残し、自害を考えさせ、他人に殺してもらう事で安堵する様な思いをさせて、本当にこの選択が正しい物だったと言えるのか?
だが、今の俺に何をしてやる事が出来る?
俺が出来るのは、この責めを一生背負って行くしかない…。
「なぁ、トシ。」
「ん?」
「お前、前みたいに、腹の中見せなくなったな。」
「そうか?」
「桜の話、聞くのが辛ければ…。」
「いや、報告してくれ。全て…な。」
「俺…言って無い事、1つあるぞ。」
「なんだ?」
「トシ、お前…桜の身体に…その、触れてやらなかったのか?」
「お前、何を…!」
俺は思わず、真吾の胸ぐらを掴む。
「だから、食って無いって。だけど、見ちまった…桜の肌をな…。」
真吾を軽く突き飛ばし、俺は言った。
「吉原でも行って、記憶から消しちまえ…。」
「いや、ありゃ無理だろう。あんな壮絶なもん、男でもそう居ねぇ。」
「?」
「うら若い娘が、どうやったらあんな傷だらけの体になるんだ?」
「まだ、治ってないのか?岩崎邸での傷が?」
「いや、違う。それは治ったと思う。じゃなくで、銃痕やら刀傷やらが、身体の至る所にあってな…極めつけが、背中の袈裟懸けの傷。」
「何だと?」
「かなりの深出だったと思うぜ、ありゃ。」
「…。」
そういや、瑠嘉が言ってたな…傷だらけだと…。
「戦場でも行ってたって事か?でも日露の頃は、14、5だろ?日清の頃は、子供だしな。まさか、前世の傷をそのまま引き継いで生まれるなんて事、ねぇしなぁ。」
「…真吾、調べて欲しい事がある。」
「何だ?」
「桜の履歴だ。」
「お前…何だってそんなもん。」
「良いから、調べてくれ。」
「…わかった。」
先の戦いで、女が戦場に向かうなんて有り得ない。
廃刀令が出たのは、俺が生まれる前…たしか明治5年だったはず。
じゃあ、その傷は何時?
彼女の言葉で、腑に落ちない点が多々あった。
俺が、彼女に離れる様に言ったのは、今回初めてだ。
しかし彼女は、過去にも俺が言ったと主張した。
興奮して支離滅裂になっていると思っていたが、それだけでは無いのかも知れない。
彼女の過去に何があったのか、改めて知らなければならない…そんな気がした。
数日後。
男爵とサロンで談笑していると、外出していた環が入って来た。
男爵は、黙って席を立つ。
そんな事は一向に構わない様に、環は俺の隣に座り、俺のグラスを取り上げて中の液体を飲み干した。
「何か、嫌な事でもありましたか?」
「どうもこうも、無いわ!貴方が一緒に行って下さらないから、いけないのよ!」
「どうなさいました?」
「鷹取が、しつこいったら無いのよ!貴方とどういう関係かって。」
「それは、それは…。」
「だから言ってやったのよ。貴方が想像している通りの関係だって…。」
「ほぅ。」
「そうしたら鷹取が、西園寺がどうなっても知らないぞって脅すのよ。大丈夫かしら?鷹取は、善くない連中とも付き合ってるみたいだし、貴方が心配なの…私怖いわ。」
そう言うと、しなだれ掛かる。そして、俺の顎を捉えると、
「で、想像した様な関係に、貴方は何時なって下さるのかしら?」
と言って、俺に口付けをした。ぽってりとした唇の感触と、侵入して来た舌の妙技に耐えながら、やっと唇を離した環の耳元で俺は囁く。
「俺は、あんたのものにはならないと、言った筈だ。」
方眉を上げて唇を噛む環を残し、俺はソファーを立ち上がって言った。
「だか、鷹取が仕掛けて来るなら、迎え打たせて貰うぜ。」
「何故なの…?」
今迄、籠絡出来なかった男はいなかったのだろう。悔しそうな環が睨み付ける。
「俺は、自分で女を選ぶ主義なんだ。」
新しい酒を注ぎ、環は一気に煽った。
「あんたも、早く鷹取なんかと手を切る事だ。」
「…どういう事?」
「俺が、何にも知らないなんて、思うなよ。」
「ひっ!」
俺の矢の様な一瞥で、環はおののく。
「このまま大人しくしていれば、あんたに手出しはしねぇ。だが、お痛が過ぎると、身包み剥がされて、この屋敷からも社交界からも放り出されるぜ。環さんよ。」
「なんですって!」
と立ち上がり、怒りを表す環の耳元で、俺は囁く。
「男爵は、全てご存知だ。」
環の身体が硬直する。
ノックの音がして、藤田が入って来た途端、
「わっ、私、先に休ませて頂くわ。」
と、バタバタとサロンを飛び出して行った。
「薬が、効き過ぎかもしれませんよ。」
「構わやしねぇさ。あー、けったくそ悪りぃ!」
そう言うと、俺は酒で口の中を消毒した。
一昨日、俺は瑠嘉に頼まれ、剣の稽古に付き合っていた。
すっかり子供らしさを取り戻した瑠嘉は、藤田の道場に通うのを楽しみにしている。
東屋には、稽古後に召し上がって下さいと、家政婦長が用意してくれた菓子や果実が置いてあった。
そこに稔がやって来て、菓子を食べ始めたのだ。
瑠嘉は、
「あー、稔。駄目だろう?ちゃんと断ってから食べないと!」
と、兄貴振る。
「本当に、食いしん坊なんだな。」
と俺が笑うと、
「稔は小さいから、人の物でも直ぐに食べちゃうんだ。でも、皆んな怒らないから、あっちこっちで盗み食いするんだよ。」
「人の物って…例えば?」
「使用人の部屋の菓子とか、僕のおやつとか…一番取られてるのは、お祖父様のお茶菓子だね。」
「男爵の?」
「お祖父様は、きっとわざと稔に取られる様にしてあげるんだよ。お茶菓子だけ残して、稔が取れやすい所に置いてあったりするもの。」
それを聞いた俺は、東屋に飛んで行って、菓子を頬張っていた稔に聞いた。
「稔、この間饅頭食って、腹が痛くなったよな?」
稔は、コクンと頷く。
「あの饅頭、何処から持って来た?」
稔は、下を向いた。
「大事な事だ。何処かにあった物を食べたのか?」
稔は、何も答えない。
「稔…。」
「西園寺さん、駄目だよ。稔、怖がってる。」
「瑠嘉、お前から聞いてくれないか?大切な事なんだ。」
「…わかった。稔、隠さずに西園寺さんに話してごらん?」
「…怒らない?」
「あぁ、怒ったりするものか。」
「ホント?」
「本当だ。そうだ、今度稔の好きな菓子を買ってこよう。」
顔を上げた稔は、満面の笑みになる。
「僕、カステイラがいい!」
「あぁ、わかった。」
「あれはね、お祖父様のお饅頭を貰ったんだ。」
「お祖父様、部屋にいらっしゃったの?」
「うぅん。僕、お咲がお祖父様の部屋から出て来たから、きっとお菓子置いてったと思ったの。お祖父様、いつも僕にくれるから、だから…。」
「置いてある饅頭を持って出たんだな?」
「うん。」
「饅頭食べたのは、何処だ?」
「稔は、自分の部屋で食べたんだ。僕がすぐに見つけて、家政婦長を呼んだんだ。」
そういう事だったのか。
「瑠嘉、お前の部屋の水差しは、誰が変えるんだ?」
「えっ?色々だと思うけど…。」
「あの日、お前が倒れた日は?」
「わからない。」
「お咲だよ、きっと。」
稔が言う。
「見たのか?稔。」
ううんと被りを振って、稔は続けた。
「でも、お咲はしょっちゅう、お兄様のお部屋に居るもの。」
俺は、瑠嘉を見る。被りを振る瑠嘉。
「僕、知らない。」
「お兄様の居ない時には、しょっちゅう居るよ。僕が、何してるのって聞いたら、内緒だって飴玉くれるんだ。」
「わかった、ありがとう2人共。」
そう言って、俺は藤田の元に急いだ。
原田咲は、藤田と俺に詰問されると、呆気ない程すらすらと自供した。
恋人の堂本組構成員、時田洋次に言われ犯行に及んだ事。
饅頭は、環が買って来た事。
それ以上の情報は、広田咲からは引き出せ無かった。
俺は、直ぐに橘警部に連絡し、広田咲の身柄を引き渡した。
そしてすぐに、時田洋次が逮捕され、事件背後に堂本組と鷹取が居る事が判明。
鷹取と堂本組は、男爵と瑠嘉を殺害し、環を通して大鳥家の財産を自分達のいい様にしようという計画だったらしい。
きっと今頃は、鷹取の逮捕、堂本組の摘発が行われている頃だろう。
環が何処まで理解して関与していたかは分からないが、男爵はこれ以上の犯行を犯さないのであれば、稔の為に許す気でいるらしい。
「終わりましたね。」
「まぁ、何とかな。」
「事務所には、いつ頃?」
「明日の夜には、退散出来るだろう。」
「了解しました。」
「藤田。」
「はい。」
「ご苦労だったな。」
藤田は、スッと頭を下げた。