第4章(6)
夜半、大鳥邸に戻った俺は、再び彼女の元に戻る。
部屋には、藤田が付いていた。
「あれから一度目を覚ましましたが、今は休んでいます。状態も安定している様です。」
「済まなかったな…。」
「新しい客室を、用意しましょうか?」
「いや、いい。今夜は、付き添う。」
「わかりました。此方に毛布を用意しましたので、お使い下さい。」
「…藤田。」
「はい。」
「ありがとう。」
藤田は、口の端を上げて微笑むと、部屋を出て行った。
彼女は、静かに眠っていた。
胸には、あの懐中時計が握られている。
藤田が持たせてやったのだろう。
そっとその手に触った時、気配を感じたのか、彼女の目がうっすら開いた。
「済まない、起こしちまったか?」
そして、起き上がろうとする彼女に手を貸した。
「さっきは、済まなかった。」
彼女は被りを降り、俺の顔を見上げると、少し眉根を寄せて手を俺の唇に寄せる。
当たった指先が、ひんやりと冷たい。
心配そうに唇の端を触る手を思わず握り締め
「大丈夫だ。ちょっと真吾とやりあっただけだ。」
そう言い、握った手に口付ける。
驚いた様に退こうとした手を握ったまま、もう一方の腕を背中に回して腕の中へ捕らえる。
「桜…俺は…。」
彼女は、身を固くしたまま聞いていた。
「俺は、お前に側に居て欲しい…。だが、俺の側に居ると、お前は此からも命を投げ出しちまうだろう。」
彼女の髪を撫でながら、俺は続けた。
「俺は、お前が傷付くのを見たく無いんだ。」
そっと身体を離し、彼女は俺の目を覗き込んだ。
「…何を、仰りたいのです?」
「お前は…俺達から離れろ。」
彼女の瞳に、絶望の色が広がる。
「…お側には、置いて頂け無いのですか?」
みるみる涙が溢れる。
「俺は、お前に幸せになって貰いたいんだ。」
「私は、今のままで十分幸せです!」
「お前は、このままでいいと思ってる…この先の未来を考えちゃいないだろう。もし、俺が正式に申し込んでも、お前は受けるつもりが無い。違うか?」
「それは…。」
「俺は、女としてお前に幸せになって欲しいんだ。惚れた男と結婚し、子供を産み育てる…。そんな、当たり前の幸せにな。」
彼女の手が、俺の両頬を包む。
「前にも言ったじゃないですか…私に女としての幸せは必要無いと…。」
「桜…?」
「お側に置いて頂くだけでいいんです!それ以上は、何も望まないと言ったじゃありませんか!なのに…。」
彼女は、支離滅裂な感情を爆発させる。
「貴方は、また私を置いて行ってしまうの?これ以上貴方を失うなんて、私には耐えられない!」
「しっかりしろ、桜…。」
「嫌です!私に離れろと仰るなら、いっそその手で殺して…。」
錯乱状態にある彼女を、俺は抱き締めて言った。
「愛しているんだ、桜…だから…。」
「いやぁ、いや…!」
「俺の心は、いつもお前と共にある…。」
「…貴方は、いつもそう…自分の心だけ押し付けて…私は、いつも置き去りにされて…私の心は、一体何処に行けばいいの…?」
彼女は、ふらりと俺から離れると、ベッドから懐中時計を拾い上げる。
「やっぱり、私には…此しか残されないのね…。」
そう言うと、俺を振り返らずに言った。
「西園寺さん…何故私を助けたんですか?あのまま逝けたら、私は幸せな一生で終わっていたのに…。」
そう言うと、部屋のドアを開けた。
ドアの外には、腕を組んだ藤田が壁にもたれたまま立っていた。
彼女は、藤田をも無視して通り過ぎる。
ため息をついて、藤田が此方に流し目を送る。
「酷な事をなさる…。」
「…多分…表に真吾が居る。送らせてくれ。」
「本当に宜しいのですね?」
「…あぁ。」
藤田は、彼女を追って行った。
これでいいんだ…そう自分に言い聞かせ、ベッドに座り込む。
先程迄、彼女が寝ていた温もりが残されている様な気がして、俺は布団に顔をうずめた。
彼女の残り香を、胸に吸い込む。
また、泣かせちまった。
今は泣くかもしれない。でも、これが最後だ。
やがて彼女にも新しい生活が始まり、惚れた相手が出来、結婚して子供が出来て…平凡だが幸せな家庭を築くだろう。
そう、その隣に俺が居ないだけの話だ。
「真吾が、連れて帰りました。」
「そうか。」
「魂の脱け殻というのは、ああいうのを言うんでしょうね。」
「…。」
「何故、受け止めてやらなかったんです。」
「蒸し返すな。俺は、彼女を幸せに出来ない。」
「幸せの形は、様々だと思いますが。」
「お前も、真吾と同じ様な事を言いやがる。…俺の親父は、本妻を持たねえ。ウチの本尊が弁天様で、本妻を持つとやきもちを妬くからってうそぶいてるがな。芸妓を囲って、妹達を生ませた。子供はいいさ。籍も世間体も西園寺の子供として認められる。だが、あの人達が日陰の身で苦労してる姿を、俺はずっと見てきたんだ…。彼女にあんな思いは、させられねぇ…。」
人知れず涙していた女達の姿が思い出される。
「不自由なものですね。貴方達の世界も…。」
「諦めたつもりだったんだがなぁ…今更ながら恨めしくなる。」
庭から、夏虫の声が聞こえる。
「市村の今後の事、どうされるのです?」
「この屋敷での奉公を望むなら、仕事が全て片付いた後に、もう一度男爵に頼んでみようと思う。お前と真吾で、彼女の意思確認をしてもらえるか?」
「わかりました。」
「落ち着くまで、あそこに住まわせてやってくれ。俺は、仕事が終わるまで帰れないからな。」
「会わないおつもりですか?」
「…そうだな。会えば、お互い辛いだけだ。」
「…。」
俺は、少し躊躇いながら藤田に聞いた。
「藤田…お前が、彼女を…。」
「止めて下さい!市村が、そんな事を望むはずが無い!」
「お前は、どうなんだ?」
「…。」
藤田は誠実な男だ。俺や真吾の様な、しがらみも無い。
「お前の親父さんと彼女も、浅からぬ付き合いなんだろう?」
「どうして、それを!?」
「真吾が、気付いたんだよ。」
「俺は…父と同じ様に、ずっと市村を見守っていくつもりです。」
「…そうか。」
「所長は、どうなさるのです?」
「俺か?俺は、そうだな…今迄通り、仕事に生きるさ。先ずは、この仕事を解決しないとな。」
翌朝、彼女が居ない事で瑠嘉はゴネたが、彼女の身体の為に実家に戻ったと言うと、渋々納得した。
道場通いも興味を示し、今は屋敷内で基礎体力を養っている。
俺は、ポッカリと開いた胸の隙間を埋める様に、勢力的に動いた。
環と共に社交場にも顔を出し、環の新しい相手として顔を売って、様子を見ている。
鷹取とも会って、言葉を交わした。
「で、印象は?」
「露骨に嫌な顔しやがった。何か陰湿な野郎だ。」
真吾と落ち合った河原で、俺達は子供に混じって石を投げていた。
「そりゃ、かつて社交界のミッドナイトブルーと言われたお前が相手じゃなぁ。その目に落ちない女は、居なかったからな。」
そう言うと、真吾は腹を抱えて笑った。
確かに、女からの誘いは多かった。手紙も、連日の様に舞い込み、それに絡む男からの果たし合いも、後を絶たなかった。
皆、この目が珍しかっただけの事だ。
「堂本組の動きはあったか?」
「今の所、とり立てては無いが、そろそろ焦って来てるのは確かだな。それとな、堂本組の下っ端が、男爵の家のメイドと良い仲だそうだ。」
「相手は?」
「そこまでは、掴めねぇ。藤田に探りを入れさせるか?」
「そうだな。」
「他に、俺に聞きたい事が有るんじゃねぇか?」
「…。」
「結構、大変な事になってんだけどな…。」
「どういう事だ?」
「まずな…あの後3日、桜は俺の腕の中で過ごした。」
「!」
「心配すんな。食ってねぇよ。確かに、我慢するのは、かなり骨が折れたけどな。」
とニヤリと笑った。
「体調も戻って無い上に誰かの酷な告白で、殆ど寝れない上に錯乱状態で、ずっと抱き締めて泣かせてたんだ。お陰で、俺の胸はビタビタよぉ。」
「…すまん。」
「4日目に、ようやく自分のベッドに寝てくれたんだがな…。」
「どうした?」
急にトーンダウンした声に不安になる。
「次の朝、物凄い叫び声に、俺もキヨさんもビックリして桜の部屋に飛んで行くと、耳を押さえて叫び声上げててな…。」
「…で?」
「耳が聞こえないっていうんだ。」
「!」
「医者に診せても、原因が掴めねぇ。多分、精神的な物だと言いやがった。」
「…。」
「その日一日中叫んで、血まで吐いて、次の日には声まで失って…。そこまで来ると桜も諦めたんだろうな。部屋に籠もってたんだがな。数日後、部屋に行ったキヨさんが今度は叫ぶんで、慌てて部屋に行くと、桜が床に這いつくばって時計探してるんだよ。目の前に落ちてるのに、見えて無い…。」
俺は、その場に座り込んだ。
「流石にキヨさんも参っちまってな。西園寺に連絡して、伊豆に行って貰ったぞ。」
「悪い…。」
「困ったのは、彼女の方だ。藤田と相談したら、藤田の親父さんが刀持ってやって来た。」
「刀?」
「凄かったぞ!お前にも見せたかった!」
「何があった?」
「桜を庭に連れ出して、小太刀を持たせてな。『市村!刀を抜け!』って言ったら、桜の奴刀を抜いたんだ。桜が打ち込むのを、暫く受けてたんだが、彼女の目が真剣になってきたのを見計らった様に、一歩下がって刀を収めた。彼女が気を高めて打ち込んだ時、親父さん抜刀したんだ。トシ、俺凄いもん見ちまった!」
身振り手振りで説明していた真吾は、興奮して言った。
「抜刀した刀を桜の喉元に突き付けて、『お前の迷いを、俺が今切って捨てた』ってな。」
「…。」
「そしたら、彼女の目が見える様になって、様子見てたら、多分耳も大丈夫だと思う。」
「声は?」
「いや…声はまだ駄目だ。喉の傷は治って、医学的には問題無いらしいがな。でも、まぁ焦ってもしょうがねぇ。」
「そうか…。」