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音のない部屋        :約3000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/02/05

 ――ん……。


「――」


 ――あれ?


 目を覚ますと、おれは見知らぬ部屋にいた。 

 四方を灰色の壁に囲まれた無機質な空間。天井には丸く大きな照明が埋め込まれており、影を許さないというように、均一な光が容赦なく降り注いでいる。

 天井と床は白く、ドアも窓も見当たらない。部屋というより、巨大な箱の中に放り込まれたような気分だ。

 床は妙に柔らかく、体重をかけるたびにふわりと沈み込んでは、すぐに押し返してくる。まるでソファの上に立っているような妙な反発と沈み込みだ。……それにしても妙だな。


「――」


 ……やはりだ。さっきも今も、声を出したはずなのに、まったく音がしないのだ。

 おれは試しに手を叩いた。だが、結果は同じだった。音はまったく生まれない。よく見ると、壁も天井も床と同じ柔らかい素材で覆われているようだ。これは……。


「――――!」


 まるで防音室だ。それも生半可なものではない。音を吸収し、殺している。声を張り上げても空気は微動だにせず、吸い込まれてしまったようだ。

 しかし、なぜおれはこんな場所に閉じ込められているんだ。

 まさか、誘拐? 監禁? おれを? 誰が何のために……駄目だ、思い出せない。記憶を辿ろうとしたが、直前の出来事がすっぽりと抜け落ちている。酒を飲んだ覚えはないし、喧嘩をした記憶もない。いつもどおり仕事を終え、帰り道を歩いていたはずだが……。

 いや、今はいい。閉じ込められた以上、出入り口があるはずだ。おそらく壁のどこかにドアが……。

 おれは壁に手を当てた。ひんやりとも温かくもない、不快な中間の温度だった。ぐっと押してみたが、指先がわずかに沈み込むだけで、開く気配はない。

 おれは指で上から下まで壁をなぞり始めた。何度も念入りに。だが、継ぎ目はどこにも見つからなかった。

 もっとも、仮にドアがあったとしても内側から開けられるとは思えない。ここまで徹底した造りだ。金も手間も相当かかっているに違いない。念入りな計画を立てたはずだ。

 だが、いったいおれが誰にそこまでの恨みを買ったというのか……あっ。


「――?」


 ……ああ、ははは。そうか、そうだな。そういうことだ。そうに決まってる。

 おれは自分の頬を軽く叩いた。やはり音はしない。だが、それでいい。うん。

 おれは床に寝転がり、目を閉じた。

 すぐに目を開け、天井に向かって両手を伸ばし、指を鳴らしてみる。いつもなら、パチンと小気味のいい音が鳴るはずだが、無音だ。


「――――――!」


 今度は思いっきり叫んでみた。喉の奥がひりつくほどに。それでも部屋は静まり返ったままだ。まるで音が生まれた瞬間、空間そのものが丸ごと喰らい尽くすかのように。

 いい、いいぞ。よしよし。

 しかし、実際にこんな部屋が家にあっても面白いかもしれない。深夜だろうが、隣近所を気にせず、好きなだけ叫べる。暴れようが楽器を弾こうが、誰にも迷惑がかからない。完璧なストレス解消室だ。現代人にとって今一番必要な設備じゃないか。政府は補助金を出して、各家庭に設置させるべきだな。


「――!」

「――――――!」


 おれは思いつく限りの卑猥な言葉を叫んでみた。普段なら絶対に口にしない、下品でどうしようもない単語の数々。だが、これはどうもいまいちだ。やはり言ってはいけない言葉は、声に出して誰かに聞かれるかもしれないという緊張があってこそ、快感が生まれるのだろう。

 どうにかして音を出せないものか。


「――!」

「―――!」

「――――――!」


 ――んこ! ……いや、ちょっと待て。


 どれくらい時間が経った? 時間の感覚は曖昧だが、もうかなり長い時間ここにいる気がする。腹は減らないし、喉も渇かない。それはいい。むしろ当然だ。

 だが、おれは次第に別の違和感を覚え始めた。


「――――?」


 おかしい……おかしいぞ。

 おれは目をぎゅっと閉じ、強く念じた。もういい、もういい。十分だ。さあ……。

 だが、駄目だ。何も変わらない。

 おれは目を開け、再び壁を触り、出口を探した。押し、叩き、引っ掻き、蹴り――だが、見つからない。

 馬鹿な……まさか、そんなことあるわけがない……。

 本当にここから出られない。

 そう理解した瞬間、背筋を氷でなぞられたような寒気が走った。


「――――――!」


 おれは叫び続けた。肺の底まで絞り切るように、必死に叫んだ。駄々をこねる子供のように地団駄を踏み、壁を蹴り、殴り、ゴリラのように胸を叩いた。だが、どれほど暴れても音は一切生まれなかった。

 まさか……これは……やはり違うのか……? いや、ちょっと待てよ……。


「――――?」


 おれは胸に手を当てた。やはりだ。


「――――?」


 いや、だが、そんなことありえない。あってたまるか。でも、じゃあ、ここが? この場所がそうだとでも言うのか? おれはここにずっと? ああ、まさに地獄だ! おれがそこまでのことをしたと言うのか! こんな刑罰を受けるほどの罪を!


 おれは泣き叫んだ。叫び続けた。声にならない叫びを何度も何度も吐き出した。この部屋が地獄の刑罰なら、抗ってやりたかった。音の一つでも生み出したかった。

 だが無駄だった。ただ、時間の感覚だけが曖昧になっていく。溶けて、崩れていくように。

 何時間、何日経ったのか、もうわからない。

 黙っては叫び、歩き回っては座り込んだ。壁を何度も殴った。だが、沈黙は絶対だった。


「――」


 おれは笑った。音にはならなかったが、確かに笑った。ひひひひ、と。あるいは、ぎぎぎぎぎ、だったかもしれない。狂ったような笑いだ。いや、その自覚があるということは、おれはまだ正気なのか。わからない。どうでもいい。ひひひいぎぎぎぎぎぎ!

 おれは胸を掻きむしった。爪の間に、血混じりの皮脂でねっとりと溜まる。それを歯でほじくり出し、今度は皮膚にできた小さな切れ目に爪を突き立てた。ぐいと押し込み、さらに裂き、押し広げていく。

 やがて、指先が中に潜り込むと、肉の抵抗が生々しく伝わってきた。床にはポップコーンをばら撒いたみたいに血の跡が散らばっている。それがだんだん赤い花の群れのように見えてきた。さらに、ぐいと突き動かしたその瞬間、おれはついに触れた。

 心臓だ。


「――――」


 おれは小さく笑い、心臓を鷲掴みにした。

 生温く、ぶよぶよとしていて、死んだ蛙のように無抵抗だった。

 おれは手にありったけの力を込め、そして叫んだ。


 ――あっ。


 その瞬間だった。部屋の空気が、確かに震えた。

 音が――戻ってきた。

 聞こえる。足音が、衣擦れが、誰かの声が。無数の音が波のように一気に押し寄せてくる――。



 ◇ ◇ ◇



「戻った! 心拍再開!」


 誰かが叫んだ。

 次の瞬間、まばゆい光がおれの目を貫いた。焼けつくような白。視界がぐらつき、ぼやけた先に白い天井が浮かび上がった。

 ここは……どうやら病院のようだ。それも集中治療室らしい。医師や看護師が慌ただしく動き回り、機械が規則的な音を立てている。

 そうか。やはり、おれは死んでいたらしい。

 最初は夢だと思った。音を完全に吸収する素材なんて、現実にはありえない。夢に決まっている。そう気づき、余裕ぶっていた。

 だが、いつまで経っても目が覚めないので妙に思った。違和感が膨らみ、怖気が足裏から這い上がり、ぶるりと震えた。そして、ふと胸に手を当ててみると、心臓の鼓動がないことに気づいた。

 それで、ある可能性が浮上した。いや、漠然と気づいた。

 おれは死んでいるのだと。


 だが、戻ってきた。

 あの部屋は死の狭間に見た夢だったのだろうか。それとも、死後の世界の待機室のような場所だったのか。自分で心臓を掴み、無理やり動かしたのがきっかけで戻れたのか。あるいは、医師たちの懸命な処置のおかげか。

 ……いや、なんでもいい。生きている。おれは生きている……!


「心停止から十二分……戻ってきたが、これは……」


 ――え?


「そうですね……。意識はあるようですが、後遺症が……」


 後遺症……? ははは、まさか。麻酔が残っているだけだろう。


「――――!」


 おれは叫んだ。

 だが、音は響かなかった。

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