第3章『焦げる日常』(23歳) P-008 三人の誓い ― 焦げた任務のあとで ―
灰の匂い。
息を吸うと、鉄の味がした。
市街跡。
崩れた高架が風を切る。
吹き抜けるたびに、金属が鳴く。
塔の影が遠くでゆらめいている。
「風速、三・六。方位、北東」
カインの声が冷静すぎて、かえって現実が遠く感じた。
(心だけが遅れている。体はもう前に出ている)
「兄貴、動体反応、前方十五メートル!」
ヴィクターの叫びが風を破る。
瓦礫の陰。
小型ドローン。
焦げた装甲。
翼が一つ欠けているのに、まだ飛ぼうとしていた。
「残骸じゃない、生きてる」
「接近禁止」カインの声が即座に返る。
「周囲、磁気乱流あり。AI残留信号が生きてる」
俺は息を殺して目を凝らす。
風の線が、ドローンの周囲でねじれていた。
まるで何かが息をしているみたいに。
(“壊れた呼吸”ほど、怖いものはない)
「……呼吸してる」
「何?」ヴィクターが顔をしかめる。
「空気が歪むときの“拍”がある。塔の風と同じだ」
「アーカムの副波か」
カインの端末が小さく唸った。
「この領域、まだ塔の心拍に繋がってる」
「ってことは、これ……敵の残りかすじゃなくて――」
「風の断片だ」
言い終わる前に、空気が裂けた。
ドローンのレンズが光る。
鋭い音。
灰が跳ねる。
「散開!」
俺とヴィクターが同時に滑り込む。
弾丸が地面を削る。
風が、逆向きに流れた。
(ここで倒れたら、“記録”が途切れる)
「兄貴!」
ヴィクターが前に出る。
持っていた鉄片を投げつける。
ドローンの軌道がわずかに逸れる。
俺は吸う。吐く。
呼吸のリズムを合わせる。
風が揺れる。
その瞬間、引き金を引いた。
キン。
金属が弾ける音。
レンズが割れ、火花が散る。
風が戻った。
「……やった?」
ヴィクターが息を吐く。
「終わった」
「生きてる?」
「まだ死んでない」
カインが近づく。
端末をかざして計測。
「風圧、変動停止。信号も消えた」
彼の眉がわずかに動く。
「……詩の痕跡があった」
「痕跡?」
「誰かが、ここで祈った跡だ」
「祈り、ね……」
俺は焦げた地面を見下ろした。
鉄片の間から、焦げた紙切れが一枚見えた。
拾い上げると、文字が焼け残っていた。
> 『風よ、止まるな』
それは命令ではなく、願いの形をしていた。
でも、もう何も応えない。
ただ、灰がふわりと舞った。
(遅れて届いた祈りは、たいてい温度だけを残す)
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塔への帰還。
車体の床が揺れる。
灰の粒がヘッドライトに滲む。
カインは無言。端末を睨んだまま。
ヴィクターは後部で寝転び、缶をカチャカチャ鳴らしている。
「なあ兄貴」
「ん」
「風ってさ……やっぱ生きてるんだな」
「どうしてそう思う」
「お前の顔が、戦いのあとに“生きてる顔”してた」
「……お前、どんな観察眼だよ」
「筋肉で感じた」
「出たよそれ」
カインがぼそっと言う。
「生理的勘というやつだ。否定できない」
「老師まで肯定すんな!」
笑いがこぼれる。
その笑いが、車体に響いて柔らかくなった。
風が通った気がした。
(笑いは、風の通り道を広げる)
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夜。
塔下層の整備区。
訓練灯だけが点いている。
作戦報告書を提出して、ようやく息がつけた。
ヴィクターが机に缶を並べる。
「焦げコーヒー三連装、いきます!」
「またか」
「勝利の儀式だろ」
「何と戦ったんだ、今日は」
「風」
「……お前ら、やっぱ筋肉で宗教できるな」
「兄貴も副教祖だろ」
「やめろ」
カインが座る。
端末を閉じ、珍しく肩の力を抜いた。
「報告書は上々だ。上層も“リターン班”を正式承認するそうだ」
「よっしゃ!」ヴィクターが両手を上げる。
「正式ってことは給料も出る?」
「出る」
「兄貴、焦げ缶じゃなくてビール買おうぜ!」
「基地内禁止だ」
「代わりに“空気酒”でも飲むか」
「それただの呼吸だ」
「風酔いってやつ」
「……アホだな」
笑いながら、缶を開けた。
苦い香り。
焦げの温度。
でも、今夜はそれがうまい。
「なあ兄貴」
「なんだ」
「今日、生き延びた理由、なんだと思う?」
「風が助けた」
「ロマンチックだな」
「理屈だ」
カインが小さく頷く。
「風は、均衡を保とうとする。
生きようとする者に“圧”を返すんだ。
それが、祈りの形だ」
「詩の原理か」
「違う。生命の物理現象だ」
「でも、俺は好きだよその理屈」
ヴィクターが笑う。
「風が生きてるって言える世界、まだ悪くねぇ」
俺はカインの端末の光を見つめながら、
ゆっくり言葉を紡いだ。
> 『風よ、笑え。
俺たちが止まらぬように。』
空気が少しだけ動いた。
静かな音。
機械が反応したわけじゃない。
ただ、温度が変わった。
ヴィクターが黙った。
「今の……何か来たな」
「感じたか」
「感じた。胸の奥が、ちょっと軽くなった」
カインが指を動かす。
「空間圧、微下。0.02ヘクトパスカル」
「また数字か」
「信仰の証明だ」
「信仰って言うな」
「じゃあ、記録だ」
カインがゆっくり笑った。
「記録こそ祈りだ。忘れなければ、それはまだ生きてる」
ヴィクターが缶を掲げる。
「じゃあ記録に乾杯!」
「焦げで?」
「焦げで!」
カン、と音。
小さな響き。
塔の中で風が応えた気がした。
> 『風よ、笑え。
今日の焦げも、明日の希望も。』
ヴィクターが「兄貴、それ続きだな」と笑う。
「詩が増えた。リターン班公式な」
「公式?」
「うちの班章に刻もうぜ。焦げの横に」
「焦げがシンボルか」
「焦げ=生存だ」
カインが静かに缶を置いた。
「詩を登録しておく。“リターン班第一構文”」
「ほんとに登録すんのか」
「科学のために」
「信仰じゃなくて?」
「両方だ」
三人が笑った。
塔の空調が風を送る。
灰を巻き上げ、少しだけ白く見えた。
(この白さを、次の戦場へ持っていく)
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その夜、
ロッカは眠る前に短く祈った。
> 『風よ、笑え。
この仲間の呼吸が、まだ続くように。』
――
風が返事をした。
小さく。けれど確かに。




