第3章『焦げる日常』(23歳) P-007 新兵ヴィクター ― 焦げた笑いが風を押す ―
塔脚の風向が再び乱れ、短期招集がかかった。
家族と話し、俺は現場に戻る。
(帰り道の風は、少しだけ冷たかった。覚悟を確かめる温度だ)
朝。
鉄の床が鳴る。
非常灯が一本ずつ起きる。
訓練場は冷たい。
「点呼」
教官の声が跳ねる。
番号が流れる。
俺は「十五」と答える。
その時、扉が蹴られた。
遅れて一人、入ってくる。
短髪。背が高い。肩に古い外套。
歩き方は乱暴なのに、足音は軽い。
「遅刻、氏名」
「ヴィクター。名字は長い、忘れた」
教官が眉を吊り上げる。
「敬礼」
「握力が余る。壊すからパス」
兵の列に笑いが走る。
(緊張が一度ほぐれる。笑いは風を通す)
男は列の隙間に無理やり入って、こちらを見た。
目がまっすぐだ。
「兄貴?」
「違う」
「兄貴候補」
「違う」
「でも顔がそう言ってる」
「どんな顔だ」
「面倒を先に背負う顔」
笛が鳴る。
「戦闘走、三十周」
喉が乾く音が広がる。
走る。
灰の匂いは薄い。
通路を回る輪ができる。
三周目、背後で靴がもつれた音。
転倒。
列が揺れる。
みな視線だけ投げて通り過ぎる。
俺は立ち止まり、倒れた兵を担ぎ上げた。
その瞬間、風が乱れた。
走り出す。息が重い。
横から声。
「兄貴、交代」
「いらない」
「俺の方が重いの得意」
「見れば分かる」
「なら預けろ」
「……一周だけだ」
受け渡す。
肩が軽い。
新兵の背中の筋肉が、布越しに波打つ。
歩幅が合う。
風が肩のあいだを通る。
呼吸が一人分、増える。
(“誰かの息”が重なると、身体は前に出やすい)
二十五周。
教官が手を上げる。
「中止。射撃へ移行」
装備庫。
冷たい銃。油の匂い。
隣で新兵がボルトを引く。
指の動きが、妙に滑らかだ。
射撃場。
的は灰色の胴。
送風機が不規則に鳴る。
横風。細い糸みたいな揺れ。
俺は吸う。吐く。
四拍の途中で撃つ。
キン。中心の外。
新兵は狙いをほとんど置かない。
歩くみたいに撃つ。
キン、キン。中心。
息は止めない。
肩も止めない。
「どうやってる」
「そこにいるから、そこを殴るだけ」
「風は?」
「邪魔なら殴る」
「風を殴るな」
「殴れる」
「理屈は?」
「筋肉」
「……嫌いじゃない」
(“考えすぎない強さ”は、時々いちばん速い)
休憩。
新兵がポケットから小さな缶を出す。
「焦げコーヒー。飲む?」
「焦げを名乗るな」
「誇りだぞ」
蓋を開ける。
香りというより、焦げ。
でも温度がある。
ひと口。
苦い。
悪くない。
「名前」
「ロッカ」
「やっぱ兄貴だ」
「なぜ決めつける」
「風がそう言う」
「風に責任を押すな」
「じゃあ俺の筋肉が言う」
「もっと信用できない」
そこへ背の高い影。
「静粛に」
カインだ。
眼鏡の奥の目が眠らない。
「新兵ヴィクター」
「はい老師」
「私はカインだ。老師ではない」
「了解、老師」
「……ロッカ、通訳を」
「無理だ」
カインは控えの端末をタップする。
「本日午後、実技。二人一組の市街模擬だ」
「相棒は?」
「ロッカとヴィクター」
「やった」新兵が笑う。
「最短で“使えるか”を見る。ロッカ、詩は使うな」
「了解」
「ヴィクター、筋肉の詩は黙読とする」
「難しい命令だ」
「命令ではない。お願いだ」
「じゃあ全力でやる」
カインが少しだけ口角を上げた。
(この人の“お願い”は、だいたい命令と同じ効き目だ)
――
午後。
模擬市街。
低い天井、鉄骨の梁。
影が多い。
風は弱いが、曲がる。
「先行、俺。後ろ警戒、兄貴」
「了解」
ヴィクターは壁沿いに滑る。
足音が消える。
角。
吊った糸。
彼は指で受け、そっと戻す。
「見えてたのか」
「筋肉で」
「筋肉で見るな」
「見える」
天井から古いドローン。
赤い目。
銃を上げるより先に、小石が飛ぶ。
レンズに直撃。
俺が一拍遅れて撃つ。
落下。火花。
「今の何だ」
「喧嘩の延長」
「兵の言葉で言え」
「兄貴を傷つける物は先に殴る」
「……分かった」
二つ目の角。
床の灰が不自然に丸く凹む。
“風の死点”。
(※風が動かず、匂いも音も止まる“空白”。踏むと気配が途切れる)
そこを避けて跨ぐ。
ヴィクターは一瞬で俺の歩幅に合わせてくる。
「合うな」
「合わせる。俺はそういう筋肉」
「筋肉で説明するな」
「じゃあ、気配」
「それでいい」
模擬終了。
教官の笛。
記録がボードに走る。
「二人、合格」
短い言葉。
胸が熱くなる。
カインが近づく。
「連絡だ。臨時の観測任務が入った」
「どこへ」
「塔脚の旧搬入路。風の癖を読む」
「編成は?」
「暫定班を組む。仮称“リターン”」
「リターン?」
「失われた流れを取り戻す、という意味だ」
ヴィクターが掌を打つ。
「いい。戻すの得意」
「根拠」
「兄貴がいる」
カインが俺を見る。
「……人選は間違っていないらしい」
――
夜。
簡易の詰所。
錆びたテーブル。
焦げコーヒー二つ。
紙コップが薄い。
「兄貴」
「何だ」
「俺、ここに来てよかった」
「理由」
「兄貴がいる。カインが数字で守る。俺は殴って守る」
「順番が逆だ」
「順番は筋肉が決める」
「……訂正しないのか」
「自信ある」
黙って笑う。
三秒だけ、静か。
風が追いつく。
「誓うか」
俺が言う。
「何を」
「背中を、先に背負う奴になる」
「俺の?」
「班の。街の。……風の」
ヴィクターはコップを掲げる。
「賛成」
紙と紙が当たる。
乾いた音。
(音が軽い。今の俺たちは、まだ走れる)
胸が熱い。
口の中は苦い。
でも、息が広い。
> 『風よ、笑え。
俺たちが歩けるように。』
小さく詠む。
誰も咎めない。
ヴィクターが「今の、好き」と言う。
「命令じゃない“感じ”がする」
「それが祈りだ」
「覚えた」
扉の隙間から、夜の気配が入る。
風鈴の代わりに、古い配管が鳴った。
低い音。
街は眠りかけている。
明日は、もっと走れる。
「班名、もう一回」
ヴィクターが言う。
「リターン」
「いい。戻す。全部」
「全部は無理だ」
「じゃあ、明日分」
「それなら、できる」
三秒、黙る。
静けさが合図になる。
俺たちは、まだ歩ける。
――リターン班、始動。
この話は、「戦場に戻る勇気」と「笑いの意味」を描く章です。
風が止んだあとも、人は生き方を見つけなければならない。
ヴィクターという“焦げた笑い”の男は、その象徴です。
ロッカにとってヴィクターは、初めて“風を共にする仲間”であり、
感情を口に出せる相手でもあります。
カインという理性と、ヴィクターという感情。
この二人の間で、ロッカの「風の詩」は人間らしい形へと変わっていきます。
焦げたコーヒーは、この物語全体のキーワードです。
苦くて、でも温かい。
生き延びた者にしか分からない“救いの温度”を持っています。
> 「笑いは風を通す」
― この一文が、RE:TURN全編の“日常と再生”のテーマです。
ここから先は、「焦げ」と「祈り」が一体化していく。
命令でも戦闘でもなく、“生きたい”という願いそのものが
風を動かす物語へと進んでいきます。




