第2章『約束の風』(20歳) P-005 手のぬくもり ― 風の祈り ―
教会での支援任務が続いていた。
灰の風は少しずつ穏やかになり、人々は再び外で息をしていた。
それでも、世界はまだ回復の途中だった。
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朝。
風がやわらかい。
灰の匂いが薄れていた。
塔の光が安定している。
まるで、世界が小さく息をしているようだった。
俺は医療支援班の応援任務に移された。
本部からは「休息を兼ねて」と言われたが、
休める気はしなかった。
戦場に近すぎる心は、簡単に止まらない。
教会跡のテント。
医薬品の箱。
水の音。
その中に、ミラの姿があった。
髪を結い上げて、袖をまくっている。
額に小さな汗。
それでも、笑っていた。
「また来たんですね」
「物資の搬入です」
「あなた、よく“偶然”を作りますね」
「……偶然ですよ」
「嘘。風、知ってます」
その言葉に、胸が少し鳴った。
風が彼女の声を運んだような気がした。
「あなた、変わりましたね」
「どこがです」
「表情。最初は戦場の顔でした」
「そんな顔、してましたか」
「はい。今は……人の顔になってます」
胸の奥で何かがほどけた。
その瞬間、風鈴が鳴った。
廃墟の梁に吊るされた欠けたガラス片。
音はかすれている。
けれど確かに“音”だった。
(※自然説明)
この頃の風鈴は、通信兵たちが“風の安定”を測るために吊るしていた。
鳴るかどうかが、塔の機能回復の目安だった。
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昼休憩。
ミラがベンチに座る。
俺も隣に腰を下ろす。
空の色は、久しぶりに灰以外だった。
薄い青。透きとおるような、青。
「……綺麗だな」
思わず、声が漏れた。
「空、ですか」
「いや……空も、ですけど」
「もう。そういうこと言う人だったんですか」
「そういうつもりじゃ」
「いいですよ、冗談にしておきます」
彼女は笑った。
風が頬を撫でる。
その笑いに、心が少しだけ熱くなる。
「あなたは、風と話せるんですよね」
「話す、というより……聴く方です」
「じゃあ、今は何を言ってます?」
「“静かにしてる”って」
「いい子ですね」
灰の中に響く小さな笑い。
それが、世界を動かす音に思えた。
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午後。
外で、子どもが泣いていた。
避難民の男の子。手に、折れた風車。
ミラが駆け寄る。
「どうしたの」
「折れた……風、止まっちゃった」
「大丈夫。風は止まらないよ」
ミラはポケットから細い針金を取り出し、
風車を直す。息を吹きかける。
風車が回った。男の子が笑った。
「ほらね、風は戻ってくる」
ミラが微笑む。
俺は、その横顔を見ていた。
> (風は、戻る。人も、きっと。)
その瞬間、心の奥が小さく鳴った。
呼吸が深くなった。
目を閉じたら、風の流れが見える気がした。
> 『風よ、護れ。』
声にならない祈り。
世界に命令するのではなく、
ただ願うように。
風が通った。
ミラの髪を撫でていった。
それを見た彼女が、一瞬だけ振り向いた。
「……今、風が笑いましたね」
「え?」
「たぶん、あなたが笑わせた」
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夕暮れ。
基地へ戻る道。
西の空が橙に染まる。
ミラが並んで歩く。
風が二人の間を抜ける。
沈黙が、心地いい。
「あなた、戦場には戻るんですか?」
「命令があれば」
「……そうですか」
「でも、命令だけじゃ動けないと思う」
「どういう意味?」
「風が許さない時があるんです」
ミラはゆっくりうなずいた。
「なら、私が祈ります。あなたが帰ってこられるように」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
> (祈りは、命令じゃない。往復だ。)
カインの声が蘇る。
あの日、塔の前で教わったこと。
ようやく、意味が分かった気がした。
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夜。
テントの中。明かりが小さい。風が止む。
遠くで誰かがギターを弾いている。
ミラが隣にいた。
「ロッカ」
「なに?」
「手、貸して」
差し出した掌に、彼女の手が重なった。
温かい。それだけで息が止まる。
「あなたの手、冷たいですね」
「いつも風の中にいるから」
「じゃあ、温めます」
彼女の指が、ゆっくり動いた。
指先から心臓まで、温度が伝わる。
「どう?」
「……風が、やわらかい」
「それ、褒め言葉ですか?」
「一番の」
ミラが笑う。
灰が落ちる。音がない夜。
それでも、風がいる。俺たちの呼吸の中に。
> 『風よ、護れ。この手を離さないように。』
それは初めての“愛の詩”だった。
命令でも、祈りでもない。
ただ、生きたいと思った瞬間の言葉。
風鈴が鳴った。
欠けたガラスが、小さく揺れる。
まるで、それを祝福するように。
ミラが、微笑んだ。
「風、聴いてたね」
「ああ」
「……また明日、来ますか」
「行きます。風が、導くなら」
「ずるい答え方」
「ずるいのは、風です」
笑い合う。
夜が静かに降りた。
灰はもう、音を立てない。
この回は、戦いの中で初めて「風」が命令ではなく、感情を運ぶ存在として描かれます。
ミラという人物は、ロッカにとって“戦場の外にある救済”そのもの。
彼女の「あなた、変わりましたね」という一言で、
それまで戦うだけだったロッカが“生きたい”側に戻ってきます。
風鈴、風車、灰の匂い――すべてが「まだ壊れていない世界の証」として配置されています。
この回で風が「護る詩」として登場するのは、
後の『灰の塔で息をする』における**“祈りと命令の融合”**の原型です。




