最終章『塔へ』(38歳)P-041 影の前で ― 生きる群れ
ドローンの追撃を振り切ってから、どれくらい歩いただろう。
時間の感覚が、もう信用できない。
灰の中では、距離も時間も“途中で削られる”。
呼吸をするたび、肺の奥がざらつく。
風はない。
なのに、空気は常に動いている気がした。
「……いよいよ灰濃度が上がってきたな」
前を歩くカインが、端末を一度だけ見て言う。
「この先は、戻る時間を計算する意味がない」
後ろでヴィクターが肩をすくめた。
「最初から片道切符だろ?
それより兄貴、間に合うのか?」
歩幅を、ほんの少しだけ落とす。
「……このペースなら、なんとかな」
義手の指が、わずかに震えた。
気づいていないふりをしているが、ミカには分かったらしい。
(……反応、してる)
拾っているのは敵の気配だけじゃない。
“塔に近づいている”という、空気そのものの歪みだ。
前方を睨みながら、リラが言う。
「灰がなければ……
もう、見えてる距離かもしれないわね」
息を整えながら、ミカが頷く。
「……いよいよですね」
言葉にした途端、空気が一段近づいた気がした。
その瞬間だった。
手を上げる。
「――止まれ。何か来てる。後ろだ」
「え?」
振り返るより早く――
パンッ。
パンッ、パンッ、パンッ。
乾いた銃声が灰を叩いた。
数歩先で、人型の影が崩れ落ちる。
胸部を正確に撃ち抜かれ、音もなく沈んだ。
「……っ」
息を呑むミカの前で、カインが銃口を下ろす。
「俺も一応、訓練は受けてきたからな」
ヴィクターが目を丸くした。
「おいおい、メガネ君やるじゃん」
「やめろ」
即答だった。
そして、すぐにミカを見る。
「……ミカ、大丈夫か?」
「は、はい……
大丈夫です。ありがとうございます」
一拍置いて、俯く。
「……すみません。
足手まといで……」
即座に、リラが返す。
「気にしない。
それぞれ、役割が違うだけよ」
ヴィクターも、いつもの調子で続けた。
「そうだぞミカ!
俺は筋肉と焦げコーヒー!」
「……はい」
少しだけ間が空いた返事。
それでいい。
「先へ進む」
短く言って、歩き出す。
その途中で気づいた。
呼吸が、わずかに乱れている。
ほんの僅か。
だが、四拍が守れていない。
(……詩の、代償)
三発。
あのドローン戦で使った祈り。
命令じゃない。
それでも、“世界に触れた”反動は確実に残る。
歩きながら、カインが低く言った。
「……長い間、使ってなかったんだな」
答えない。
「無理はするな。
今の消耗具合だと……
あと二回が限界だ」
その言葉が、灰より重く落ちた。
ヴィクターが口を開きかけ――
やめた。
冗談にできる空気じゃないと、分かったからだ。
しばらくして、景色が変わった。
灰の向こうに、影が浮かぶ。
巨大で、直線的な輪郭。
空に向かって突き刺さるような形。
「……塔」
ミカの声は、ほとんど息だった。
歩みを止める。
「……待て」
空気が、変わった。
風はない。
だが、“生き物の気配”がある。
ヴィクターが目を細める。
「おい……
あれ、メソニクスじゃねぇか?」
灰の向こう。
低い位置を、群れが動いている。
人間より大きく、獣より賢い。
骨格がはっきりしていて、動きが静かだ。
カインが小さく頷く。
「生息域を広げてるんだろう。
元々は、もっと西にいたはずだ」
「すごい……」
ミカの目が、自然と見開かれる。
「話には聞いてたけど……
初めて見ました」
低く言う。
「あまり刺激するな。
群れだ。戦いになったら、まずい」
ヴィクターが唸った。
「ある意味、兵器より厄介だな。
あいつら……生き残る覚悟を持ってる」
少し考えてから、カインが言う。
「やり過ごそう。
ここで、少し休憩だ」
「賛成。
正直、足がパンパン」
「筋肉が足りてねぇんじゃねーか?」
「なんでも筋肉で語るな、バカ」
ミカは、群れを見つめていた。
その中に――
小さな影が混じっている。
「……見てください」
視線が集まる。
「赤ちゃん……います」
群れの中央。
成体に囲まれて、必死に歩く小さな個体。
ぽつりと、言葉が落ちる。
「……人間が、全部奪った」
誰に向けたものでもない。
「恨んでるだろうな」
少し考えてから、ミカが首を振った。
「……たぶん」
静かに続ける。
「恨んでるより……
生きるのに必死なんだと思います」
呼吸が、一瞬だけ止まった。
「……そう、だな」
それ以上は、言わなかった。
メソニクスの群れは警戒しながらも、攻撃してこない。
ただ、生きるために動いている。
その向こうに、塔の影が重なって見える。
(……あそこへ行く)
だが今は、立ち止まる。
戦わずに済む相手を、戦わない選択をする。
義手を、静かに下ろした。
(……命令じゃなくていい)
(祈りも、今は要らない)
同じ世界で、生きている存在として、やり過ごす。
それができたことが――
ほんの少しだけ、救いだった。
〈ロッカ記録ログ041〉
・灰濃度上昇:後戻り不可領域へ突入
・消耗:祈り型詩の使用による反動顕在化
→ 残り使用可能回数:推定2回
・遭遇:メソニクス群れ(非敵対)
・所感:
敵ではない存在と戦わなかったことが、
塔へ行く理由を少しだけ確かにした
――風よ、
命令しなくても、
世界はまだ、選ばせてくれる。




