最終章『塔へ』(38歳)P-039 灰の濃度
灰が濃い。
目を開けているのに、前が遠い。
遠いというより、途中で消えている感じがする。
最後に外に出た記憶が、はっきりしない。
遠い昔みたいで、つい最近だった気もする。
あのときも、こんな色だっただろうか。
(……思い出そうとすると、息が浅くなる)
「……風が、死んでる」
ロッカさんが、ぽつりと言った。
声は低くて、いつも通り落ち着いているのに、
その一言で、胸の奥が少しだけ冷えた。
地下の風は、まだ“生きてる”。
流れがあって、音があって、止まる理由がある。
でも今ここにあるのは、
冷たくて、鋭くて、理由のない空気だった。
動かないのに、刺さる。
(……これ、呼吸するだけで削られるやつだ)
今は武器庫にいる。
塔へ向かうメンバーと、
物資調達に向かうメンバーが、
同じ空間に集まっていた。
鉄の匂い。
油の匂い。
それに、外から持ち込まれた灰の匂い。
どれも混ざって、喉の奥に残る。
ヴィクターさんが、いつもの調子で笑った。
「なぁ兄貴、もうちょいイカツイ武器に変えろよ」
ロッカさんは、義手の接合部を確かめながら答える。
「俺にはこのダカーとハンドガンが性に合ってる」
「えぇー? せっかく塔行くんだぜ?
なんかこう……ドーン!ってやつ!」
「お前こそ、何か他にないのか」
一瞬の間。
「筋肉!」
「……」
カインさんが、何も言わずに端末から視線を上げる。
「それは武器じゃない」
「武器だろ!? この上腕!」
(……すごい会話してる)
でも、誰も本気で笑っていないのが分かる。
声は軽い。
空気は、重い。
「ヴィクターさん、その大きい大砲みたいのも使うの?」
「あぁランチャーな、筋トレに良い感じだから持っていく」
(基準がいつもすごいなぁ)
装備の確認をしていると、リラさんが隣に来た。
視線は手元。
でも、ちゃんと私の呼吸の速さを見てる。
「ミカ。大丈夫?」
「……はい」
そう答えてから、正直に付け足した。
「でも……思ってたより、酷いですね」
リラさんは、一瞬だけ外を見た。
「外に出るだけで命がけだからね」
それだけ。
詳しい説明は、しない。
説明しなくても、もう分かるから。
灰は、降ってない。
風も、吹いてない。
なのに、身体の奥がじわじわ重くなる。
(……長居したら、戻れなくなる)
それが、理屈じゃなく分かる。
カインさんが、一歩前に出た。
その動きだけで、場の音が一段静かになる。
「……ここからは別行動だ」
端末を閉じる音。
「リターン班、総勢五名。
ロッカ、ヴィクター、リラ、ミカ、俺。
この五人で塔へ向かう」
一拍。
「残りは、今まで通り物資調達。
地下の維持を最優先に動け」
物資班の人たちが、黙って頷く。
誰も反論しない。
誰も引き止めない。
それが、逆に重い。
「リターン班こそ頼みます」
誰かが言った。
「必ず、戻ってきてください」
その言葉が、胸に残る。
“行ってください”じゃない。
“成功してください”でもない。
――戻ってきて。
(……ああ)
行くってことは、
誰かを“残す”ってことなんだ。
武器庫の扉が開く。
外の灰が、ゆっくり入り込んでくる。
一瞬、空気が冷える。
ロッカさんが、私を見る。
「ミカ」
「はい」
「……息、浅くなるな」
「……はい」
四拍。
吸って。
吐いて。
胸の奥が、少しだけ落ち着く。
「行くぞ」
その声は、命令じゃない。
でも、迷いもない。
私は、うなずいた。
(……怖い)
でも、それだけじゃない。
地下で待つ人がいる。
帰る場所がある。
だから――
「……行ってきます」
誰に向けた言葉か、分からないまま。
灰の中へ、
一歩、踏み出した。
〈ミカ記録ログ039〉
・地上の灰:視界不良/風の流れなし
・体感:呼吸だけで体力を削られる
・分岐:リターン班(5名)/物資調達班
・心理:恐怖あり/後悔なし
・結論:
外は、生きている場所じゃない
それでも――行く理由はある
――風がなくても、
帰る合図は、まだ胸にある。




