第9章『塔の脈動』(37歳) P-034 戻る拳 ― 鈍った刃と重い骨
訓練場の床は、冷たかった。
地下に降りて八年。 この場所で何度も身体は動かしてきたが、 “本気で殴り合う”ために立つのは久しぶりだった。
「……で?」
正面に立つヴィクターが、肩をぐるぐる回しながら言う。
「今日はどこまでやる?
軽く流す? それとも――」
俺は義手の指を開閉し、感覚を確かめる。
「実戦だ」
ヴィクターの口角が、にやりと上がった。
「よっしゃ。
じゃあ遠慮なしな、兄貴」
「最初からそのつもりだ」
リラもミカもいない。 カインも呼んでいない。
ここには、戦場を知っている二人しかいない。
だからこそ、誤魔化しは効かない。
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合図もなしに、ヴィクターが踏み込んだ。
速い。 地下用に抑えているはずなのに、脚力が地面をえぐる。
(……っ)
反射で義手を前に出す。 受ける。受けられる。問題ない。
――はずだった。
> ゴッ
衝撃が、想定より深く骨に入った。
「……っ!」
一歩、下がる。 その瞬間、ヴィクターの肘が視界を横切った。
遅い。
判断が――半拍、遅れた。
「ッ、兄貴!」
胸に重い一撃。 肺の空気が一瞬で抜ける。
床に転がる寸前で踏みとどまったが、 ヴィクターはもう距離を詰めていた。
「今の、昔なら避けてたぞ」
容赦のない声。
「考えてから動くな。
身体が先だろ」
分かっている。
分かっているのに、 身体が“前と同じ速さ”で返ってこない。
(……鈍ってる)
認めたくない事実が、拳より重くのしかかる。
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次は俺から踏み込んだ。
風を読む。 間合いを詰める。 義手で視界を切る。
いい。 流れは悪くない。
――だが。
ヴィクターは、それを“知っている”。
俺の癖。 俺の攻め筋。 俺が無意識に頼る距離。
「甘ぇよ!」
肩から体当たり。 視界が跳ねる。
義手が受けきれず、床に膝をついた。
「……くそ」
「今の動き、
“守る気”が前に出すぎだ」
ヴィクターが距離を取らずに言う。
「昔のお前はな、
守る前に“折ってた”」
「……それは」
「違うか?」
言い返せなかった。
また守るものができた。 帰る場所ができた。
それ自体は、間違いじゃない。
でも――
「迷いながら前に出る拳はな」
ヴィクターの声が低くなる。
「一番、仲間を殺す」
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次の瞬間。
視界が真横に流れた。
本気の一撃。 加減なし。
――避けきれない。
そう判断した瞬間、 俺は“前に出る”のをやめた。
身体を沈め、踏み込まず、 衝撃を流すように受ける。
床を滑る。 距離が、離れる。
ヴィクターの拳が空を切った。
一瞬の沈黙。
ヴィクターが目を細める。
「……今の」
「前に出ない戦い方だ」
息を整えながら言う。
「勝つためじゃない。
……帰るための動きだ」
ヴィクターは、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を吐く。
「……チッ」
肩をすくめて、笑う。
「やっぱ気に入らねぇな。
昔のお前の方が、派手だった」
「だろうな」
「でも」
ヴィクターは拳を下ろした。
「今のは――
“生きて戻る奴の動き”だ」
その言葉が、胸に落ちる。
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しばらくして、ヴィクターが背を向けた。
「いいか、兄貴」
振り返らずに言う。
「迷うなとは言わねぇ。
怖くなるなとも言わねぇ」
一拍。
「でも中途半端なら、
俺が止める」
その背中が、少しだけ揺れた。
「……それでも行くなら」
拳を握る音。
「俺が横に立つ。
だから――戻ってこい」
俺は、静かに頷いた。
「ああ」
その一言で、十分だった。
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訓練場を出るとき、 義手が小さく振動した。
地下の風。 いつもより、少しだけ軽い。
(……戻る戦い、か)
それは逃げじゃない。 弱さでもない。
守るために、 帰るために選ぶ――新しい覚悟だ。
次は塔だ。
だがその前に、 俺はもう一度、自分の身体を作り直す。
帰るために。
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〈ロッカ記録ログ034〉
・実戦訓練:ヴィクター
・所感:反応速度 旧水準比 −0.2拍
・問題点:判断優先による初動遅延
・改善:前進を前提としない防御遷移
・結論:
「勝つ」より「戻る」戦闘設計へ移行
・備考:
戦友が横に立つことは、
恐怖を消すのではなく――選択を明確にする
> ――風よ。
俺はもう、死にに行かない。
帰るために、拳を出す。




