第8章『灰上の再会』(37歳) P-030 待つ子 ― 地下に吹く小さな風
地下の朝は、いつもより静かだった。
送風ダクトが弱く鳴り、金属壁がほとんど震えていない。
灰針層が“沈んでいる”日の音。
――ロッカさんが外に出た日。
胸の奥で、脈がひとつ跳ねた。
「……怖くない、怖くない……」
呟く声は震えていた。
怖くないはずなのに、喉がつまる。
胸の真ん中が、針で刺されるみたいにちくちく痛い。
リラさんが後ろから肩に手を置く。
「ミカ、歩ける?」
「う、うん……」
歩ける。
でも、心はひとつも前に進まない。
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地下第二区画 ― ロッカが残した“温度”
補給室の前、椅子の上。
ロッカさんのコートが置いてある。
黒い、生地の厚い、外用のコート。
触れるとまだ、ロッカさんの体温の“形”だけ残っている気がした。
そっと指先を置く。
――戻ってくるよね?
言葉にはならない問いが、心の奥で揺れる。
ロッカさんは行く前に言った。
「行って、戻る。それだけだ」
その声は静かで、硬くて、強かった。
でも――少しだけ震えていた気がする。
ミカは目を閉じた。
(あの人はまた、“風と呼吸を合わせる”って言ってた)
地上の風は痛い。
ロッカさんも昔、あれで身体を壊したんだ。
どれくらい、痛かったんだろう。
どれくらい、怖かったんだろう。
そしてまた、あの痛い風の中へ行った。
ミカは、コートを胸に抱えた。
「……戻ってきて、ロッカさん……」
声に出した瞬間、胸がくしゃっと潰れそうになる。
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第三区画 ― 子どもたちの“ざわめき”
小さな子達が、いつもより静かに遊んでいた。
積み木の音が、やけに大きく響く。
親友のシアが、黙ってミカの袖をつかんだ。
「……大丈夫。帰ってくる」
ミカは何も答えられなかった。
怖い。
でも、怖いって言ったらロッカさんが悲しむ気がして。
言えない。
言えないのに、胸だけが騒ぐ。
「大丈夫よ」と、リラさんが替わりに答える。
「ロッカは戻ってくる。あの人はね、“帰る場所”がある限り、必ず帰ってくるの」
ミカはリラの言葉に、息をのみ込んだ。
帰る場所。
自分は――その一部なんだろうか。
だったら、弱い顔は見せられない。
泣いてなんか、いられない。
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医療区画 ― “針風の音”を聴く
計器がずらりと並ぶ小部屋。
今日の風圧、毒素濃度、灰針速度……
全部の数字が、少しずつ上がり始めていた。
リラの眉がかすかに動く。
「……嫌な上がり方ね。長くはもたないわ」
ミカの心臓がどくんと跳ねる。
「戻ってこれる、よね……?」
「間に合うわ。ロッカは“戻る歩幅”を覚えてる」
リラはそう言ったが、目はどこか不安そうだった。
その不安をごまかすために、リラは道具をきれいに並べ始める。
ミカはダクトに近づき、耳をそっと当てた。
外の空気と地下の空気が混ざる“境界の音”。
今日はいつもより近い。
(……ロッカさんの風、聞こえない)
前は分かった。
ロッカさんが深呼吸すると、空気のテンポが少し変わった。
でも、今日は――何も聞こえない。
ただの無風。
ただの静寂。
胸がぎゅっと締まる。
(やだ……遠くに行っちゃったみたい……)
耳を押し当てても、返ってくるのは冷たい金属の音だけだった。
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食糧区画 ― “戻るための場所”
ミカは椅子に座り、両膝を抱えた。
灰の世界には空がない。
でも、ここには“待つ場所”がある。
ロッカさんはいつも言ってた。
『帰る場所がないと、風は迷う』
だったら、自分が――
ミカが――
ロッカさんの“帰る道標”になれたら。
「……ロッカさん」
ぽつりと名前を呼ぶ。
ダクトの風が、やわらかく揺れた。
ミカは瞬きをする。
(今の……ロッカさん?)
風が誰かの気配を運ぶなんて、本当かどうかは分からない。
でも、ミカには分かった。
“生きてる”風の揺れだった。
だけど、同時に胸の奥が痛む。
(ねぇロッカさん……
なんでそんなに、痛い風に戻ろうとするの……?)
問いは空に消える。
答えは返ってこない。
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地上階段の前 ― “帰る風”が揺れた
扉の近くで座っていると、足元の空気がふっと揺れた。
一瞬、灰の匂いがした。
地上の匂い。
外の匂い。
ミカは立ち上がろうとしたが、膝がこわばって動かなかった。
(膝が固まっちゃった)
「……いま、風が――」
リラも振り向いた。
ダクトの針風計が、わずかに振れる。
金属靴が階段を下りる音が、かすかに響いてきた。
ひとつ。
重い足音。
ふたつ。
静かで規則的な足音。
そして――三つ目の、風みたいに滑る足音。
ミカの胸が跳ねた。
(帰ってきた――!)
足が勝手に階段に向かう。
リラが小さく笑う。
「行ってきなさい。ミカ」
ミカは階段の前で立ち止まる。
息ができないほど、胸が熱くなる。
足音がもうすぐそこまで来る。
階段の影が揺れ――
灰色の空気をまとった三人の影が、地下へ姿を現した。
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> そして、ミカはようやく息を吸えた。
「……ろ……ロッカさん……っ」
その名前は涙に濡れながら、真っ直ぐに彼へ向かった。
(やっと……息ができた……)
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〈ミカ記録ログ030〉
・地上の風:ロッカの気配を“感じない時間帯”があった
・地下の風:ダクトにて一時的揺らぎ(帰還前兆?)
・心理:恐怖 → 祈り → 希望
・結論:
“ロッカは帰る”
……この世界で、ミカが最初に信じられる未来。




