第7章『風のない日々』(28〜36歳) P-026 弱い日 ― 外へ出る準備
地下の朝は冷たい。
だが今日は、空気の層そのものがわずかに“下へ沈んで”いた。
送風管の脈が弱い。
壁が静かすぎる。
地下に住む誰もが、この違和感を敏感に感じ取っていた。
リラが端末を覗き込み、低く言う。
「……来るわ。“弱い日”が」
ロッカの胸骨の裏が、じわりと熱を持つ。
半年間ずっと待ち続けた“外の隙間”。
その“たった一日の穴”が、今日かもしれない。
ミカは風鈴の欠片を胸に握りしめ、リラの腕に寄り添った。
「本当に……外に行くの?」
ロッカは頷いた。
声は出ていなかったが、覚悟が喉元から漂っていた。
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準備区画 ― 義手が拾う“地下の風”
外装庫の鉄扉を押し開けると、冷えた金属の匂いが押し寄せる。
外気遮断マスク、針風よけの布地、防衛用の軽装板――
戦闘ではなく、“生還のための装備”だけが整然と並んでいた。
ロッカは一つずつ触れる。
右手で。
そして左の義手で。
義手は、冷たさと湿度を微細に返す。
「……感じるな。
地下の空気が、いつもより“ゆるい”」
ミカがそっと装備棚から覗き込む。
「今日、そんなに違うの?」
「違う。……外が揺れている」
ミカは唇を噛む。
「じゃ、今日は行くんだよね。
本当に……ひとりで?」
ロッカは道具袋を閉じながら答えた。
「外の風は、お前にはまだ早い。
まず俺が確かめる」
「どうして?」
ロッカは言葉を探したが、答えはすぐに定まった。
「――俺の体が、もう一度あの風を“思い出す”必要がある」
ミカの呼吸が止まる。
目が揺れ、足元の床を見つめる。
「……じゃあ、いつかは」
「いつかは、連れていく」
その瞬間、ミカの肩が小さく震え、安堵が滲んだ。
彼女の不安をすべて拾い上げることはできない。
けれど、ロッカの返答が“道の先”を示すことだけは確かだった。
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リラの調整室 ― 義手と心臓の脈を揃える
「入って」
工具の匂いがする部屋。
リラは机の上に工具を広げ、ロッカが入ると同時に手を止めた。
「今日は最終調整。動かして」
ロッカは腕を伸ばす。
義手の青い光が、一定のテンポで明滅する。
「問題ない」
「問題あるかどうかは私が決めるの」
リラは淡々と接合部に触れる。
指先が冷たい。
その奥にある感情は、もっと熱い。
「ロッカ。
半年間……生き直したんだわ、あなた」
ロッカは言い返さない。
「最初ここに降りたときのあなたは、
“息をしてる”んじゃなくて、“息を続けてるだけ”の顔だった」
工具が金属を押し、わずかな音が響く。
「でも今日は違う。
胸が動いてる。
ミカに呼ばれたときに、ちゃんと“こっち側”にいた」
ロッカは少しだけ目を伏せた。
認めるのは苦しかったが、否定もできなかった。
ミカが後ろでそっと言う。
「ロッカさんね。
今日、風と呼吸が合ってたよ。
地下の風、ちゃんと聞けてた」
ロッカは息を飲む。
義手の振動がわずかに揺れた。
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出口前 ― 地上へ向かう“階段”
三人が地上への階段の手前に立つ。
空間はいつもより静かで、風の気配が濃かった。
リラが扉に手をかける。
「……今日、本当に“弱い日”かは開けてみなきゃ分からない。
でも、今行かないと半年後になる」
ロッカはゆっくり呼吸を整える。
四拍で吸い、四拍で吐く。
ミカが小さく視線を上げた。
「ロッカさん」
「……なんだ」
「行かないで、って言いたいけど……言わない」
ロッカは目を伏せかけたが、ミカはその前に続ける。
「だって、おじさんが“行って戻る姿”を見ないと……
わたしも未来を信じられないから」
リラは微笑んで、扉のロックを外した。
「ほら、聞いたでしょ。
あんたはもう、あの子の“風の見本”なんだから」
扉が重く鳴る。
上の階段に、わずかな外気が滑り落ちてきた。
針の感触は――弱い。
地上の気配が薄い。
ロッカは足を一歩踏み出した。
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階段 ― 地上の死んだ風が呼ぶ
金属製の階段を上がる。
灰の匂い。
焦げた風の残光。
忘れようとして忘れられない音たち。
階段の半ばで、義手が震えた。
センサーが“風の揺れ”を拾う。
――そうだ。この感覚。
地上は、まだ死んでいない。
風は沈黙しているだけで、“痛みながら、まだ生きている”。
ロッカは息を吸う。
胸骨の裏が熱くなる。
(8年ぶりの、地上の息か)
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階段上 ― 最初の外気
最後の段を踏む。
灰の匂いが濃く、世界の音が薄い。
闇ではないが、光でもない。
ロッカは立ち止まって、
「……行く」
とだけ言って、ゆっくりと地上へ踏み出した。
扉の下では、リラとミカが見上げている。
ミカが震える声で呟いた。
「行ってらっしゃい……ロッカさん」
ロッカは振り返らない。
ただ真っ直ぐに、灰色の空へ歩き出した。
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〈ロッカ記録ログ026〉(完全版)
・灰針層:弱化の兆候(送風脈=減衰)
・外気:階段上にて針風圧0.9Pa → 通常時の半分以下
・義手:感覚データ安定
・目的:地上空気層の実測/歩行耐性テスト
・同行:なし(ミカ=待機)
・心理観測:恐怖→覚悟→安定
・目標:地上への“第一歩”の再獲得
> ――風よ、今日だけは牙を収めろ。
俺が“生きて戻る未来”を、ミカに見せなきゃいけない。




