第7章『風のない日々』(28〜36歳) P-020 風鈴のない夜 ― 歌で風を繋ぐ
夜の温度が、昨日より少し高い。
地下の空気は乾いてきて、送風管の音が、まるで“風の呼吸”みたいに感じる。
ミカが毛布を膝に巻きながら訊く。
「おじさん、どうして私たち、ずっと地下にいるの?」
俺は答えに時間をかける。
少し考えてから、ゆっくり言葉を選ぶ。
「人間が……風を汚したんだ」
「汚した?」
「命令で、動かそうとした。
だから、風は疲れてる。
いまは休ませてるだけだ」
ミカは黙る。
送風機の音を聞きながら、頷いた。
「じゃあ、風も眠ってるの?」
「そうだ。俺たちが勝手に起こさないように、静かにしてる」
彼女は天井を見上げる。
「じゃあ、風が起きたらどうなるの?」
俺は答えられない。
けれど、胸の奥でわずかに風の気配がした気がした。
ミラが笑っていたあの日の風のような。
沈黙が戻る。
薄明かりの中で、ミカの瞳が淡く揺れる。
彼女はゆっくり毛布を畳んで、ポケットから小さな袋を取り出す。
袋の中には、青いガラスの欠片――ミラの風鈴。
「これ、音が出ないね」
ミカが言う。
「ガラスが割れてるからだ」
「でも、光は出てるよ」
ミカが欠片を傾けると、非常灯の光を受けて青が滲む。
「ねえ、今日も歌ったら……聞こえるかな」
俺は目を上げる。
ミカは風鈴を手に持ち、静かに唇を開いた。
声は小さく、震えていた。
歌になっているようで、なっていない。
音の高さを少しずつ変えながら、送風機の低音に合わせていた。
風の代わりに、声が空気を撫でる。
人間の息が、世界を少し動かす。
> ふう、ふう――。
まるで風の音の真似。
単純で、幼い響き。
それでも、管の中の空気がほんの少し震えた。
送風機のリズムが変わる。
誰かが気づいたのか、遠くの部屋でも子供の笑い声が返る。
地下に“風の音”が流れ始めた。
ミカは笑う。
「ほら、鳴った!」
「鳴ったな」
「風、起きた?」
「いや、まだ夢の中だ。
でも、夢の中でこっちを見た気がする」
ミカが風鈴を握りしめる。
青が少しだけ濃くなった。
その光が、彼女の指の間から漏れて、壁を照らす。
俺は、胸の奥が軋むのを感じた。
こんな感覚は、もう何年もなかった。
痛みじゃない。
熱だ。
風の代わりに、ミカの声が吹いている。
その事実だけで、世界が少しだけ軽くなる。
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寝台に戻ると、天井の音が柔らかくなっていた。
金属が冷えるときの「ピシッ」という音の間隔が長い。
温度が上がっている証拠。
「ねえ、おじさん」
「ん」
「上、もう見えない?」
「見えるさ。目を閉じれば」
「どう見えるの?」
「……風が、光を押してくる」
「それ、きれい」
ミカはそう言って、また欠片を振った。
今度は声を出さなかった。
それでも、音が鳴った気がした。
微かな、風のような音。
俺は息を吸う。
吐く。
喉の奥で、言葉が浮かぶ。
> 『風よ、護れ』
初めてミラに詠んだ“祈り”の詩。
けれど、声にはしない。
これは命令じゃない。
いまは、願いの形だけでいい。
目を閉じる。
まぶたの裏に、灰の空が映る。
風鈴が鳴らない庭。
けれど、そこにミラが立っていた。
彼女が笑って言う。
> 『風はね、休むことで戻ってくるんだよ』
涙が頬を伝う。
ミカがそれに気づいて、何も言わず、俺の義手に触れた。
「冷たい」
「機械だからな」
「でも、あったかいよ」
ミカが微笑む。
俺は答えられない。
ただ、風鈴の欠片をもう一度見た。
青が、夜の中でかすかに震えていた。
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送風機の音が止まった。
点検のために一時停止したらしい。
一瞬だけ、地下の空気が完全に静止する。
ミカが息を止める。
俺も止める。
その沈黙の中で――“音”が鳴った。
ガラスの欠片が、金属に触れた。
高く、細く、短い音。
風鈴が鳴った。
ミカが目を丸くする。
俺は息を吐く。
「聞こえたか」
「うん」
「風だ」
「風?」
「風が、まだ俺たちのことを覚えてたんだ」
ミカは泣きながら笑う。
風鈴を抱いて、胸の前で握りしめる。
「ねえ、これね、歌のせいかも」
「かもな」
「じゃあ、また歌うね」
「頼む」
ミカの歌声が再び始まる。
今度は少し強い。
地下の壁に反響して、柔らかな音の波をつくる。
それが風のように広がっていく。
地下の空間全体が、“息をする”みたいに揺れた。
俺は目を閉じて、その音を聴く。
音の中に、懐かしい匂いがあった。
草の匂い。
太陽の匂い。
そして、ミラの髪の匂い。
灰に埋もれた世界のどこかで、
風が、少しだけ目を覚ました。
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〈ロッカの記録ログ020〉
・今日の記録:送風一時停止時、自然音反応あり。
・音:ミラの風鈴、鳴動確認。
・ミカ:歌唱中、風圧変化検知(0.3Pa)。
・結論:風は死んでいない。沈黙の中に“息”がある。
> ――風よ、まだ夢の中でいい。
その夢の中で、俺たちの歌を聴け。




