第7章『風のない日々』(28〜36歳) P-019 灰の子 ― 地下に落ちて、息を拾う
灰は、もう降るだけのものじゃなくなった。
空の上で、針になって吹いている。
塔が沈黙してから、季節という言葉が死んだ。
――埋葬から、俺の中の時計は止まったままだ。
外は“祈れない風”で満ち、俺は地下で息を繋いでいる。
ミカがいるからだ。それだけで、まだ呼吸が続いている。
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階段を降りる。
一段、また一段。
靴底に灰が詰まる。手すりの金属が冷たい。非常灯が黄色く脈を打つ。
あの脈だけが、風の代わりだ。
「おじさん、手……」
ミカの指が、俺の手に絡む。小さくて、確かな温度。
世界がまだ人間の側に傾いている証拠。
俺はうなずく。声は出さない。
声を出すと、胸の奥の詩が動く気がして怖い。
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通路の壁に番号。B1、さらにB2。空気が重くなる。
風の代わりに送風機の唸り。規則正しい人工の呼吸。
重いハンドルを押し切ると、避難層は薄暗い。
床の白線、番号の寝台、壁の紙切れ。
> 〈騒がないこと。走らないこと。息を揃えること〉
まだ“風”を覚えていた誰かの字だ。
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隅の寝台。荷は少ない。水と乾パン、ミラの風鈴の欠片。
ミカは毛布に潜る。大きい目。眠れていない目。
「ねえ、おじさん」
「……」
「今日も、生きた」
俺は頷く。タクミの癖だ。
今日は生きた――それだけで十分だ、と。
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眠れぬ夜。
ミカが泣く。声を殺して。
手を伸ばせば、喉まで詩がせり上がる気がする。だから伸ばさない。
代わりに胸を二度叩く。
・・
しばらくして、小さな指が二度叩き返す。
・・
それで十分だ、と言い聞かせる。
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音の減った昼。
荷の軋み、分配のざわめきは遠のき、送風と水滴だけが残る。
ミカは数を数える。「いち、に、さん、し」――呼吸の数。
“風よ――”が喉に浮く。噛む。鉄の味。沈める。
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塩気の薄い食事。
固いパンを割る。ミカが半分を押しつけてくる。
「二人で、食べる」
笑い声が、風の音に似ている。
俺は目を伏せる。笑いに耐える力がまだない。
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話の断片。
「レイが転んで、私が泣いたら、ミラおばさんが笑ったの。
“風がつまずいただけ”って」
胸の内側で、錆びた歯車が噛み合う音がする。
俺は拳を握るだけで、何も言えない。
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薄い明かりの夕方。
ミカは炭で丸を描く。「これ、息」
短い線を重ねる。「これ、笑い」
それを見ているふりをする。
ふりでも、彼女は描き続ける。
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重くなった空気。
送風が弱まる日、誰かの祈りにも似た嗚咽が廊下に落ちる。
俺は起き上がらない。
上体を起こしたら、封じた詩が零れる気がする。
天井の染みを数えて、沈む。
(詩はもう命令じゃない。
それでも、声にすれば風が壊れる気がする。)
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夜の底。
ミカの泣き声。
胸を二度叩く。
・・
返事の二拍。
・・
その往復が、風のふりをする。
時間の輪郭が溶ける。
灯りの点滅が心拍に見える日。
立てるのに、立たない。
立たないことで、崩壊を遅らせる。
そんな迷信を信じるほど、俺は落ちている。
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髪。
ミカの髪が肩を越える。俺は切れない。手が震える。
隣の区画の老婦人が「きれいな髪」と言って、静かに整えてくれる。
その言葉に合わせて、俺の肺がやっと深く動く。
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歪んだ音楽。
誰かが古いラジオを直す。
周波数の向こうから流れるメロディ。
ミカが足で小さく拍を取る。
音が風のふりをする。ふりでも、届くものがある。
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合図。
眠りの途中で、先に胸が二度、こつりと鳴る。
・・
俺は遅れて二度返す。
・・
今日は、風が逆流した。
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壁の印。
背の高さの線。ミカの線は伸びる。俺の線は変わらない。
それでも肩の傾きが、ほんの少しだけ戻る。
「今日の息、重くない」
ミカが言う。俺は返せない。喉が錆びている。
(それでも、俺は聞いている。
この静けさが、俺たちの風になるまで。)
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手の仕事。
工具室で送風管の角度を変える。空気の通りがよくなる。
「ありがとう」と言われる。頷く。詩は使わない。手だけ使う。
誰かの呼吸が楽になるなら、それでいい。
その瞬間、気づく。
――これは、俺の風の形だ。
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歌。
ミカが風鈴の欠片を手に、歌詞のない歌を細く伸ばす。
送風の唸りがやわらぐ。人が眠る。俺も眠る。
眠ることは罪じゃない――やっと、そう思える夜が来る。
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掲示板。
名前が増える。誰かが上で生き延びた印。
同じ速さで、名前が消える。
ミカは列をなぞって小さく言う。「今日の風」
風は数になり、祈りに変わる。
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朝の気配。
肩に小さな指が二度。
・・
昔と同じ合図。目を開ける。
近くに、ミカの瞳。
「おじさん」
「……」
「生きてる?」
喉に砂が積もっている。それでも息を吸う。
深く。肺の底まで。吐く。四拍。
封じた鍵が、少しだけ鳴って外れる。
「――生きてる」
ミカの口が丸くなり、すぐ笑いにほどける。
笑いが弾け、涙が上に乗る。その音が、風のふりをする。
俺は背を壁から離す。立つ。膝が鳴る。
世界が、少しだけ軽い。
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「……ありがとう」
「毎日聞いてたんだょ?」
「“生きてる?”って?」
俺は息を飲む。
「……すまない」
ミカは首を少し傾けて、笑う。
「やっと風が、こたえてくれた」
寝台の下の箱。ミラの風鈴の欠片。
青が、ほんのわずかに戻って見える。
ミカの掌に乗せると、彼女は耳元でそっと振る。
鳴らない。けれど、送風がやさしく揺れた。
“音が鳴る前の静けさ”が、確かに生まれる。
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仕事を探す。
棚卸し、配管の補修、避難ルートの白線引き直し。
手は覚えている。体が、やっと前に動く。
灯りがゆっくり落ちる頃、ミカに言う。
「明日、上の階の配線を見に行く」
「一緒に行く」
「ここで待て」
「嫌だ」
まっすぐな目。あの三年が、この子を大きくした。
「――なら、ゆっくり歩く」
「うん」
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通路に出る。
壁の水滴が減り、空気がわずかに乾く。
“地下の天気”が変わった。
風を呼ばない。ただ、感じる。いまはそれでいい。
踊り場で、ミカが立ち止まる。
「もし、上に行けたら――風鈴、鳴らそう」
目を閉じる。青い欠片、光のない庭、鳴らない夜。
それでも“鳴る”という未来の形を思い描く。
「鳴らす」
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帰り道、ミカが肩にもたれる。
体温が伝わる。かつて守れなかった命の重さと同じ重さ。
けれど、今回は落とさない。詩を使わず、手と足と声で繋ぐ。
掲示板の前で立ち止まる。
《配電管理、補助者募集》
紙を剥がし、胸ポケットへ。
「やるの?」
「やる」
「どうして」
「息を配る仕事だ」
ミカが笑う。「いいね」
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夜。送風が低く唸る。灯りが柔らかく減光する。
ミカの呼吸は規則正しい。
俺は目を閉じて、胸の奥で形を作る。
> 『風よ、まだ来るな。
この静けさを、覚えさせてくれ』
声にはしない。息だけで形にする。
その形が鼓動と重なり、音が風のふりをする。
眠りに落ちる直前、囁きが降りる。
「おじさん」
「……」
「生きてる?」
「生きてる」
言葉が天井に当たって、静かに戻ってくる。
往復する呼吸。命令でも祈りでもない。
ただの、風の練習。
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〈ロッカの記録ログ019〉
・記録:地下層定着/送風“脈”安定。
・地上:灰針(命令風)常態。外気は痛みの域。
・ミカ:毎夜の「生きてる?」に応答復帰。
・任務:配電補助――息の配分=風の代用。
> ――風よ、まだ遠くでいい。
俺たちはここで、息を配る。




