第1章『風を覚える日』(18歳) P-002 カインとの出会い ― 風の式 ―
金属音が細い。
蛍光灯がうなる。
油と紙の匂い。
空調は冷たい。書類だけが動く。
参謀棟の一室。
机が三列。端末が古い。
壁に塔の模型。赤いピンが刺さる。
「ロッカ・ハイルド」
名を呼ばれる。立つ。敬礼。
視線の先に男。痩せた顔。眼鏡。
声は低い。背は高い。目が眠らない。
「カインだ」
それだけ言う。握手はしない。
指で机を叩く。一定の拍。
コ、コ、コ。
「訓練場でお前を見た」
「はい」
「風を読む、という“癖”」
「癖、ですか」
「才能に別名をつけただけだ」
端末が回ってくる。
画面にグラフ。細い山。波形が並ぶ。
題名は〈流入流出差〉。
「ここが送風。ここが、お前が登った時刻」
山が一つ、滑らかに沈む。
俺の体重のぶんだけ、風が分かれた。
「支えられたんじゃない。分配が変わった」
カインは指で数式を書く。
〈ΔP=k・Δ姿勢〉
「姿勢が圧差を作る。詩は、その“条件”に乗る」
「詩は命令じゃないんですか」
「命令は一方通行だ。詩は往復だ」
彼は机を二度叩く。
コ、コ。
「往復しない言葉は、風を止める」
喉が鳴る。
俺はうなずく。胸が少し軽い。
「国境線は崩れている。各陣営がAI兵器を投げ合う」
「……知ってます」
「どこかが“最後の一発”を撃った瞬間、世界は折れる」
(※自然説明:前線では自律型の群体兵器が増殖している。
“殺戮ミサイル”の噂は本当だ。誰かが先に引き金を引く。)
カインは塔の模型へ歩く。
指で塔脚を触る。赤いピンを一本抜く。
真ん中へ刺す。
「ここが“息”だ」
「息」
「塔は循環機だ。空、土、水、火、すべてを混ぜ直す」
「知識では知ってます」
「知識では足りない。感覚が要る」
模型の上で手が揺れる。
風の線を描くみたいに。
「明朝、観測試験をやる」
「俺が?」
「お前しかいない」
彼は俺の肩を見る。
「肩が柔らかい。良い傾きだ」
「褒め方が変です」
「褒めてない。条件の確認だ」
湯気。紙コップ。コーヒーは薄い。
ひとつ差し出される。
「砂糖は?」
「いらない」
「俺もいらない」
「なら聞くな」
「儀式だ」
一口、飲む。苦いだけ。でも温度はある。
喉を通る。胸が少し軽い。
「ロッカ」
カインが声を落とす。
「詩を使うな」
「え?」
「明日の試験で、だ」
「なぜ」
「“使える”のは分かった。知りたいのは、使わない時の感度だ」
舌の裏に、言葉が引っかかる。
詩を封じる。できるか。
でも、うなずく。
「分かった」
端末の別画面。
風の矢印が室内を走る。
小さな渦が四つ。ドア、換気、照明、そして――俺。
「人は風を乱す。そこが起点だ」
「起点」
「だからお前がいる。乱れを測るために」
「それ、役に立ちますか」
「戦場では“理想流”は存在しない。乱流が現実だ」
ノック。扉が開く。
書類を抱えた若い兵。視線が泳ぐ。
「伝達を……失礼します」
「置け」
声が短い。紙が置かれる。
若い兵が小声で言う。
「新兵さん、さっきの走り、よかったです」
「ありがとう」
「転んだやつ、助かったって」
「明日は転ばないらしい」
「いいっすね!」
扉が閉まる。静けさ。
蛍光灯のうなりが戻る。
「現場の評判は大事だ」
「理性の人が?」
「合理性の一部だ。温度は士気に直結する」
「あなたは、理屈で殴るのか」
「殴らない。数式と、例外の併記で説得する」
「例外」
「人間だ」
思わず、息で笑う。
カインも、微かに笑う。
「確認だ」
「はい」
「詩を使う条件は」
「ギリギリ」
「良い」
「誰かを包む時だけ」
「さらに良い」
「そして、俺が倒れそうな時」
「最悪は“命令のための詩”だ。そこに近づくな」
三秒、黙る。風が追いつく。
机の紙が一枚、角だけめくれて戻る。
今は静か。
「質問は?」
「あります」
「言え」
「あなたは、詩を使える?」
カインは少し腕を組む。
「俺は、使わない」
「使えない、ではなく」
「使わない。役目は“測る”だ」
「寂しくないか」
「寂しい」――即答。
「だが必要だ。風の“言い訳”を数字にして、兵に渡す。
お前はそれを現場で使え」
立ち上がる。敬礼。
「明朝、観測試験」
「六時、地下搬入口」
「詩は使わない」
「使いたくなったら噛め」
「舌を?」
「唇でもいい。痛みは抑制になる」
ドアノブが冷たい。
外に出る。通路の空気が少し違う。
さっきより流れている。鼓動と合う。
背後から声。
「ロッカ」
振り返る。扉の隙間から、カイン。
「お前は、多分、戦場で“良心”になる」
「良心」
「良心は、しばしば邪魔だ。だが最後に、部隊を生かす」
「最後、ですか」
「最後だ」
扉が閉まる。
足音。旧発電機の匂い。
頭の中で式が揺れる。
〈ΔP=k・Δ姿勢〉
〈呼吸×心拍=同期率〉
寮へ戻る。
ベッドの骨が鳴る。天井を見る。拳を開く。
詩を飲み込む。代わりに数える。
一、二、三、四――呼吸。
一、二、三、四――心拍。
(※自然説明:誰かが“最後の一発”を落とせば、
AIは連鎖する。もし地球そのものが意志を持っていたら――)
明日の自分に言う。
使うな。感じろ。離れるな。
風との往復だけは、なくすな。
目を閉じる前に、短く願う。
願いは詩じゃない。まだ言葉にしない。
胸の中で転がす。青い音を、黙って握る。
> 『風よ、覚えていろ。
明日の俺は、使わずに聴く。』
呼吸が整う。
遠くで、塔の模型が光る気がした。
錯覚でいい。今はそれで、眠れる。
カインという男は、
ロッカにとって“風の反対側”に立つ存在です。
感情ではなく理性。
祈りではなく数式。
けれど彼の言葉の奥には、
確かに「信じたいもの」がありました。
――命令は一方通行だ。詩は往復だ。
その一文こそが、
この物語全体の“呼吸の核”になります。
ロッカはまだ知らない。
彼がこの先、何度も“使うな”と命じられながら、
結局は祈るように詩を放つことを。
でも今はそれでいい。
まだ世界は、風を聴こうとしている段階だから。




