第5章『命令の残響』(26歳) P-015 廃墟の夜 ― 詩を封じる
灰が降る。
音はない。
夜が来るのに、空はもう黒い。
立てない。
片膝で息を刻む。
四拍が崩れる。
吸えない。
吐けない。
胸の奥で砂が鳴る。
塔は遠い。
光っていた頂が、いまは濁った赤で脈を打つ。
さっきまで世界を命令していた“声”は、沈黙した。
代わりに──残響だけが残った。
命令の残り香。
灰の味。
左手はない。
付け根が焼けて、皮膚が割れている。
痛みは遅れて来る。
戦場では、痛みを後回しにする術だけは叩き込まれた。身体が勝手に“生き残る方”を選ぶ。
脳の奥で白い火花。
視界が波打つ。
俺は片腕で地面を掻く。
鉄の破片。
ガラスの欠片。
溶けた舗装が、月の表面みたいに歪んでいる。
「……生きてるのか」
自分に聞く。
答えはない。
でも、呼吸音がある。
それで十分だ。
生きている。
足跡は消えた。
灰がすぐに埋める。
数分前の世界が、もう読めない。
塔の方角から、ときどき白い光。
あれは呼吸ではない。
アーカムに引きちぎられた神経がまだ痙攣しているだけの、無秩序な光だ。
巨大な機械の痙攣。
無線を叩く。
ノイズ。
ひどく乾いた雨の音。
「カイン、応答しろ」
返らない。
「ヴィクター」
返らない。
耳の奥で、自分の血だけが規則正しく打つ。
立つ。
歩幅を小さく。
膝で衝撃を殺す。
灰は軽いのに、足首を奪う。
重い。
世界が重い。
倒壊した高架の下に、影。
人影じゃない。
ドローンの残骸。
赤い目が割れて、黒い液が垂れている。
命令の詩を聞き続けて、壊れたおもちゃ。
俺は蹴らない。
代わりに、空を睨む。
「……お前の命令は、ここで終わりだ」
耳の中で、女の声が一瞬だけ生まれる。
ミラ。
本当に聞こえたのか、記憶が勝手に喋ったのか、分からない。
> 『風は、人を包むためにあるんだよ』
喉が詰まる。
言ったら終わる。
名前を呼んだら崩れる。
呼ばない。
街の端まで歩く。
建物が一列、同じ角度で折れている。
風の向きではなく、命令の向き。
人の体温が、もうほとんどない。
ここでさっきまで暮らしていた温度が消えている。
広場に出る。
時計台が倒れている。
針は四時三分で止まったまま。
風が止まった時間。
世界が呼吸を忘れた分岐点。
ベンチの骨組み。
焦げた布。
焼けた紙。
紙片を拾う。
「避難経路」
矢印が塔の反対を向いている。
従ったのか。
間に合ったのか。
分からない。
分かるのは、ここに、いま誰もいないこと。
夜が増える。
光は減る。
音は、ゼロに近づく。
それでも、わずかな風景の揺れで“冷え”が分かる。
俺は壁際に座る。
背骨に冷たさ。
皮膚に灰。
肩に重さ。
身体が自分の重さを思い出す。
喉が裂けるほど乾いている。
水筒の中身はぬるい鉄の味。
二口でやめる。
飲めば眠る。
眠れば、起きられない。
遠くで、塔が一度だけ鳴く。
低い鼓動。
生きている。
あいつは、生きている。
世界の主語が、“人間”じゃなくなる音。
俺の中で何かがひび割れる。
それでも、立たない。
立てない。
立つのは、明日だ。
指先で地面をなぞる。
灰に線が引ける。
曲線。
風の軌跡。
昔、訓練場でよく描いた。
ここにはもう、乗せる風がない。
俺は指で線を壊す。
その瞬間、喉が震える。
さっき俺の口から漏れた『風よ、止まれ』が何を壊したか──もう嫌というほど見た。
あの一言が、塔の奥の層を呼び覚まし、命令に堕ちた。
だからもう、詩は使わない。
> 『風よ──』
止める。
舌を噛む。
血の味。
詩は、使わない。
もう使わない。
命令に堕ちた言葉は、風を殺す。
俺の声で、人が死んだ。
願いに形を与えるのは、最後の最後。
誰かを包むときだけ。
その時まで沈める。
夜が完全になる。
塔の赤が、ふっと消えた。
暗闇が、呼吸を取り戻す。
風はない。
無風の夜。
こんな夜は、初めてだ。
目が夜に慣れる前に、足音。
自分の足音。
位置をずらす。
体を小さく。
肩の角度を落とす。
癖で“風の乗り方”を探す。
ない。
探すほど、ない。
俺は笑う。
声にはしない。
笑いは熱になる。
少しだけ温かい。
空を見上げる。
星はない。
灰の天井。
でも、黒のグラデーションに、ほんの薄い、薄い色。
青じゃない。
灰より明るい、なにか。
昼の記憶。
記憶でしかない空。
「詩を封じる」
口の奥で言う。
誰にも聞こえない声で。
それが、今日の誓いだ。
銃より重い誓い。
俺は喉に鍵をかける。
鍵穴は胸骨の裏。
鍵は痛み。
左手に布を巻く。
生地がすぐに血を吸う。
締めすぎない。
緩めすぎない。
呼吸と同じ。
四拍で結ぶ。
結び目が逸れる。
右手でやり直す。
ゆっくり。
焦るな。
焦れば、命令が顔を出す。
広場の端に、倒れた標識。
〈避難列車 No.7〉
矢印は北。
あそこに、誰かが向かった。
間に合ったか。
間に合わないか。
どちらでも、俺は明日そっちへ行く。
確認する。
記録する。
残す。
忘れなければ、風は学ぶ。
カインの声が、頭の奥で頷く。
ポケットに、小さなメモ。
鉛筆もある。
紙に書く。
字が震える。
手が冷たい。
書く。
〈記録:廃墟の夜〉
・風:ゼロ。灰の落下のみ。
・塔:鼓動停止。赤の消失。
・音:自分の心拍のみ。
・被害:市街地壊滅。人影なし。
・誓い:詩を封じる。願いは最後に。
・明日:北へ。列車路確認。
紙を折る。
胸ポケット。
心臓の上。
鼓動がインクを温める。
気のせいだ。
でも、いい。
街の外れで、鈴のような金属音。
耳を上げる。
風鈴じゃない。
配管が冷えて縮む音。
それでも、似ている。
ミラと庭で聞いた音に。
心臓が変な跳ね方をする。
呼吸が変なリズムになる。
耐えられない。
考えるな。
無理だ。
落ち着かない。
焦る。
震える。
四拍を戻す。
戻せ。
戻れ。
壁に背を当てたまま、足を伸ばす。
靴を脱ぐ。
灰がついて、重い。
指の間に砂。
擦れる音。
これが、いまの風だ。
音で歩く。
音で息をする。
風が戻るまでの仮のやり方。
眠らない。
でも、目を閉じる。
目の裏で、塔の鼓動がまだ揺れている。
赤い光の残像。
ミサイルの尾。
ヴィクターの笑い。
カインの眉間。
ミラの指。
レイの泣き声。
全部、同じ灰の色で塗られる。
塗るな。
混ぜるな。
個々で残せ。
忘れないように。
忘れないように。
舌で奥歯を押す。
痛みでいまを固定する。
詩が喉に浮いたら、噛む。
それで封じる。
封印のやり方は、単純で、獣みたいだ。
でも、いまはそれが一番強い。
夜の真ん中で──塔が一度だけ光る。
白に近い。
次の瞬間、完全な暗闇。
呼吸じゃない。塔の奥で暴れている何かが、まだぴくりと痙攣しただけだ。
世界が、墓標になった。
静かな墓標。
その上に、俺は座っている。
「……許せ」
誰に向けたのか、分からない。
塔か。
風か。
世界か。
俺自身か。
すぐに訂正する。
違う。
「赦せ」
許しじゃない。
赦しだ。
罰の上に降りる方の言葉。
自分に向けるには重すぎる。
でも、言う。
> 『風よ、赦せ』
声にしない。
形だけ、胸の中。
それでも、灰が一瞬だけ落ちるのをやめた気がした。
気のせいでも、いい。
夜が明ける。
灰が少しだけ薄くなる。
空の端が、わずかに軽い色。
青ではない。
けれど、黒でもない。
俺は立つ。
膝が鳴る。
肩が重い。
息は四拍に戻っている。
北へ行く。
避難列車の矢印の方へ。
詩は使わない。
手と足と、呼吸だけで進む。
記録だけが、風の代わり。
忘れないことが、いまの祈りだ。
歩き出す前に、地面に指で線を一本。
まっすぐ。
今日の俺の風。
直線。
上から灰が降りて、線をすぐに埋める。
その前に、目で覚える。
忘れない。
歩く。
──廃墟の夜は、もう終わった。
風はまだいない。
でも、俺は息をしている。
それで、十分だ。




