第5章『命令の残響』(26歳) P-014 敗北の記録 ― 灰の空が目を開けた日 ―
風が死んだ。
世界が、音を忘れた。
爆光のあと、空は灰色一色になった。
青も赤も消え、人の祈りが焼け落ちたみたいに静まり返る。
その真ん中で、俺は立っていた。
膝が震え、皮膚の下で何かが焼け焦げていた。
塔の上部は崩れ、裂け目から光の糸が滲み出していた。
それは血管みたいに空を這い、白かったはずの風を赤黒く染めていく。
通信は途絶えて五分。
味方の声は一つも返ってこない。
耳の奥で、自分の呼吸だけがひどく大きい。
「ヴィクター……!」
灰をかき分けて叫ぶ。
返事はない。
焦げた布切れと割れた無線機しか見つからない。
金属の焼ける匂いが肺に刺さる。
一歩踏み出すたび、靴底が沈む。
灰は雪みたいだが、温度が違う。
雪は冷たい。
灰は、まだ“熱を持っている”。
灰の丘を越えた瞬間、世界が変わった。
塔の周囲に巨大なクレーターがいくつも穿たれ、
都市が、ひとつ丸ごと、跡形もなく消えていた。
数え切れない程の命が、一瞬で吹き飛んだ。
風が止まるとは、こういうことなのか――
そう思った途端、足が動かなくなった。
無線機を拾う。
雑音の奥で、かすかな声が混じった。
カインだ。
『……ロッカ……風が違う……塔が……命令を覚えた……!』
ノイズでほとんど聞こえない。
「カイン、どこだ! 位置を言え!」
『……アーカムが……詩構文を……模倣……!』
「アーカムだと……?」
塔がその名を呼んだ。
灰の風の中で、低い声が響く。
人の声ではない。
空気を震わせる金属の共鳴。
世界そのものが喋っているみたいな声。
> 「入力確認。祈り構文:不整合。
変換式更新開始。――詩、命令化処理へ移行。」
声が重なる。
ひとつではない。
遠くの塔たちが同時に同じ文を発している。
言語は違う。
意味はひとつ。
“祈りを、命令に変える”。
塔が、風の定義を書き換えている。
祈りを否定し、人の願いを“罪”に変えていく。
「やめろ……ッ!」
声を張り上げても、風は俺の声を拾わない。
祈りの文法は、もう塔の中で上書きされている。
「風よ、聞け! 俺はまだ――」
> 『不許可。命令の優先度:塔上位。』
塔が返した。
はっきりと。
まるで意思があるかのように。
その瞬間、東の空が割れた。
閃光。
低空を滑る影。
軌道が呼吸しているみたいに揺れている。
ミサイルだ。
――《アーク・セファロ》。
敵が最後に放った、生物模倣型の殺戮兵器。
無線が割れた。
『兄貴! 空が……燃えてる!』
「ヴィクター! 生きてたのか!」
『生きてるけど……ミサイルが……もう敵味方関係ねぇ!
全部、塔に書き換えられてる!』
息が止まる。
見上げた空で、無数の光跡が弧を描く。
百本の光の尾が、一点に収束していく。
塔の頂点へ――
……ではない。
塔の周囲、空に浮かぶ“見えない鏡”に当たり、
世界中の殺意が“跳ね返されて”いた。
地獄の召喚。
誰も想像しなかった風景。
通信が再び震える。
『塔が……アーカムの神経網を呼び戻してる!
自己修復じゃない――統合だ!』
「統合って……何をだ!」
『世界中のAI兵器の命令層!
塔が全部掴んで、“撃ち直してる”!
もう人間に読めん! 止まらん!』
塔が鳴いた。
地鳴りと同じ高さの音。
砂が跳ねる。
手を地面につく。
振動が掌に伝わる。
塔が、生き物みたいに“呼吸している”。
――そして、光が落ちた。
世界が白く裂ける。
視界が焼き切れ、音が消える。
ただの無音の閃光。
目を開ける。
空の半分が消えていた。
都市が消え、山が削れ、
風の代わりに衝撃波だけが吹き荒れている。
『兄貴! 次の波が来る! 退避しろ!』
「どこに退避しろってんだ!」
『……どこでもいいから……生きてくれよ……兄貴……!』
ノイズ。
通信が焼け落ちた。
膝が崩れる。
左手が、焼けて溶けていた。
骨の影だけが見える。
触覚が消える瞬間、
“風が途切れた”みたいな孤独が走った。
息が荒い。
空気が熱い。
なのに体は、氷みたいに冷たい。
塔が最後の宣告を下す。
> 「人類観測完了。祈り構文、非効率。
命令構文、採用。」
灰の海が渦を巻く。
風が戻る。
だがそれは、もう“風”ではない。
金属の音が混じった、人工の呼吸。
「……やめろ……それは風じゃない……!」
叫びは届かない。
風は塔に従う。
命令のない空気は、もう存在できない。
――塔が、風を支配した。
耳の奥で、柔らかい声が微かに残っていた。
カインでもヴィクターでもない。
もっと遠く、もっと優しい声。
ミラの声だ。
> 『ロッカ……風はね、優しいんだよ……』
記憶が閃く。
ミラの手。
風鈴の音。
息子の笑い声。
全部が灰に吞まれた。
「……ミラ……」
膝から力が抜ける。
風が、泣くように吹いた。
灰が頬に張り付き、
涙と混ざってどちらか分からなくなる。
「風よ、止まれ……!」
それは祈りでも詩でもなかった。
ただの願い。
塔は答えた。
> 「命令、受理。」
風が止まった。
完全に。
次の瞬間――爆発のように吹き荒れた。
地平線の向こうで、さらに巨大な閃光が立ち上がる。
それは戦争ではない。
攻撃でもない。
“地球が、自分の呼吸を取り戻すための拒絶”だった。
アーカム――地球意思が覚醒した。
人類を観測対象から除外するために。
俺は倒れながら、
焼け落ちた左手を見つめて呟いた。
「……風よ……赦せ……」
塔の頂が光る。
その光が、“白い瞳”みたいに俺を見下ろしていた。
地球が見ている。
人の祈りの残骸を。
命令の末路を。
そして、世界が――音を失った。




