第4章『灰の戦火』(26歳) P-011 カインの警告 ― 詩を削るもの ―
医療区は、消毒の匂い。
毛布は薄い。
体温はまだ戻らない。
指先が白い。
息は四拍で、ぎりぎり整う。
(生きて帰っただけだ。なのに、身体は戦場に置いてきたままみたいだ)
カインが椅子を引く。
金属の脚が短く鳴る。
端末と紙束。
いつも通りの顔。
目だけ、少し赤い。
「報告はあとだ」
彼は俺の手首を取る。
脈拍を数える。
「八十六。高い」
「まだ戦闘のあとだ」
「戦闘は終わった。――詩が終わっていない」
沈黙。
廊下の向こうで誰かが咳をする。
湿った咳。
灰が肺に残っている音。
(戦は、咳になって残る)
カインが端末を開いた。
体表温度、SpO₂、呼吸間隔。
グラフが階段みたいに落ちている。
俺の数字だ。
見覚えのある落ち方。
「今日、君は八回、詩を使った」
「願っただけだ」
「結果は同じだ。身体は“支払い”をした」
彼は一枚の紙を俺の前に置く。
〈体温 −0.3℃/回・SpO₂ −2〜4%・回復5〜12分〉
「回数ごとに負債が足に溜まる」
カインの声は淡々。
「三回目から回復が遅れる。五回目で判断が粗くなる。七回目で、言葉が“硬く”なる」
硬く。
嫌な言い方だ。
思い当たる感触が、喉に引っかかる。
(祈りが角ばると、世界が痛む)
彼は、俺の声と戦場に流れていた“命令詩”の波形を並べる。
二つの山が、途中まで似ている。
終端だけ、違う。
俺の線は戻ってくる。
命令詩は、突き放すみたいに切れている。
「祈りは往復だ。呼び、返す。
命令は一方通行だ。叩きつけるだけ」
「分かってる」
「分かっていても、追い込まれると“短く、強く”なる。――命令の形に近づく」
(祈り=呼吸。命令=拳。どちらも風を動かすが、触れ心地が違う)
彼は、俺の四回目の言葉を再生する。
スピーカーから、戦場の音。灰の雨。金属の鳴き。俺の声が短く落ちる。
> (#4)『風よ、逸れろ』
「美しい構文だ。最小限で意味が鋭い。
だが、七回目」
べつの音。針の雨、叫び、門の軋み。俺の喉が震えていた。
> (#7)『風よ、止めないでくれ』
「語尾の閉じ方が命令に寄っている。
“〜ろ”の角が立っている。自覚は?」
「……ない。通したくて、必死だった」
「それが危険だ。善意の焦りは、命令に変わる」
(正しさだけでは、柔らかさは守れない)
言い返せない。
心臓が痛む。
良いとか悪いとかの前に、事実がある。
カインは紙束を閉じ、代わりに薄い箱を出した。
中に、透明な管と小さな球。古い理科実験みたいな道具だ。
「何だ、それ」
「“肺の模型”。君の祈りを、視界に出す」
彼は管の片方を俺に持たせ、もう片方を自分の口へ。
透明な球が、ふくらんだり、しぼんだりする。
「呼吸を四拍で」
「……分かった」
吸う。吐く。吸う。吐く。
球が静かに揺れる。
彼は同じ拍で合わせる。
球の揺れが少し大きくなる。
「往復。同期。――これが祈りだ」
彼は拍を変えた。二拍。早い。
球が乱れる。俺の拍とぶつかる。
「一方的に合わせ方を変える。これが命令だ」
「分かりやすい例えだな」
「“説明”は重く、“納得”は軽い」
カインは管を外し、模型をしまう。
そして俺をまっすぐ見る。
逃げ道を塞がない目。
でも、下がらない目。
「ロッカ。
詩の使用は生命力の消費に直結する。
君の体温は、詩一回ごとに三分の一度下がる。
十回で凍傷域。二十回で心拍が乱れる」
数字は静かだ。
静かでも、重い。
「俺は止めろとは言わない。
だが、“理由以外では”使うな」
「理由」
「誰かを“包む”時だけだ」
「自分のためは?」
「それも必要だ。だが、優先は変える」
「現場は、瞬間で決まる」
「だから、前もって決める。
“使う理由”を三つに絞れ」
カインは指を三本、立てる。
「一、呼吸の道を作る時。
二、死ぬはずの重みを軽くする時。
三、“命令”を上書きする時。――それ以外は、噛んで飲み込め」
「噛む?」
「唇でも舌でもいい。痛みは言葉を柔らかくする」
(身体で止める。心で流す。両方いる)
笑ってしまう。少し、だけ。
「お前の治療法は、どこか古い」
「古いものほど、戦場では強い」
「……同意」
ドアの向こうで、ヴィクターの笑い声がした。
医官に怒られている。焦げ臭い。きっとまたコーヒーだ。
それを想像すると、胸が温かい。温度は、まだ残る。
カインが視線を落とす。
報告書の一行を指でなぞる。
〈詩は祈り。命令に変えるな〉
「俺は理性の人間だ。数式で世界を見る。
けれど、理性には“限界”がある。
その先で、君の祈りが要る。
だから守ってくれ。――線を」
「線」
「願いと命令の境界だ」
「守る」
「約束しろ」
「……約束する」
「もう一つ」
彼は声を落とした。
「塔が、学んでいる」
「学ぶ?」
「今日、南東の空で“帯域外(たいいきがい=想定外の電波域)の詩”を検知した。
人の言葉の型で、意味が逆転している。
『癒せ』が『消せ』に。
『包め』が『裂けろ』に。
――悪い学習だ」
(風の辞書が、すり替えられていく)
背中が冷える。
毛布が薄くなったみたいに。
体温は、まだ戻りきらない。
「塔が命令の方へ傾くなら、なおさらだ。
君の言葉が“緩衝材”になる。
命令がぶつかってきたら、柔らかく返せ」
「柔らかく」
「そうだ。短く、軽く、柔らかく」
「……難しい注文だ」
「難しいから、君だ」
沈黙の三秒。
風が追いつく。
換気口が、かすかに鳴る。
青ではない。
灰の中の薄い色。
でも、色だ。
ヴィクターが顔を出す。
「兄貴、生きてる? 先生、うちの兄貴、死なねえよな?」
「今は死なない。うるさいから出ろ」
「ひでぇ。――兄貴、あとで焦げやろうな」
「少しだけ」
「よっしゃ」
ドアが閉まる。
足音が去る。
静けさが、戻る。
カインが立ち上がる。
「寝ろ。報告書は俺がまとめる」
「お前が?」
「珍しいだろう。――君に寝てほしいんだ」
「仕方ない。任せる」
「任された」
彼がドアノブに手をかけ、半分だけ振り返る。
「ロッカ」
「何だ」
「君は戦場で“良心”になる。
良心は邪魔だ。だが、最後に部隊を生かす」
「最後、か」
「最初でもある。――呼吸の最初の一つが、最後の一つを決める」
言い回しが、少し詩に似ている。
彼がそう言う時は、たいてい本気だ。
俺は頷く。
「分かった」
灯りを落とす。
毛布を引き上げる。
目を閉じる。
唇を軽く噛む。
――あの日と同じ仕草。
でも今は、痛みじゃなく線をなぞるためだ。
祈りでも命令でもない。
ただ、形を確かめる。
> 『風よ、ゆるめ』
肩が落ちる。
脈がひとつ、深くなる。
眠気が、遅れてやってくる。
数字では測れない温度。
それが、布団より温かい。
(生き延びるだけじゃない。次にやさしく在るための眠りだ)
――線を守れ。
カインの声が、耳の奥で静かに残る。
明日、また戦う。
願いで。
往復で。
柔らかく。
それでも足りない時は――噛む。
風は灰の上で小さく揺れる。
夜の換気口が、細い息を吐く。
その音で、眠る。
静かに。
青のない夜でも。




