第1章『風を覚える日』(18歳)P-001 入隊の日 ― 青い風の音 ―
金属の床が冷たい。
朝灯が一本ずつ点いていく。
薄い霧。油の匂い。
靴の列が並ぶ。息が白い。
「番号!」
教官の声が跳ねた。
「一!」
「二!」
俺は十五番。
喉が震える。まだ、声が幼い。
通路を走る。
壁の塗装が剥がれている。
足音が重なる。膝が鳴る。
心拍が速い。
呼吸を四拍で刻む。
吸う。吐く。吸う。吐く。
胸の奥で、何かが合う。
見えないが、確かに合う。
――風の音だ。
(胸の奥がひらく。
この瞬間、初めて“生きている”と思った。)
屋内訓練場。
天井が低い。照明がむき出し。
壁に古い標語がある。
〈命令は、命だ〉
鉄の匂いが喉に刺さる。
「障害走、開始!」
バリケード。鉄梯子。ロープの壁。
汗の匂いが濃くなる。
俺は体を沈め、前のやつの背を見た。
足幅を合わせる。肩が軽い。
手のひらが熱い。
ロープを掴む。掌がすべる。
繊維が皮を焼く。
腕が悲鳴を上げる。
上がらない。
喉が乾く。視界が白い。
耳鳴り。心臓が速い。指がほどける。
その瞬間、風の線が見えた。
空気が斜めに流れている。
誰も気づいていない。
でも、確かにある。
背骨を撫でた。
唇が勝手に動く。
> 『風よ、支えろ。』
(祈りじゃない。ただ、生きたいだけの声。)
音にならない。形だけが出た。
胸がふっと軽くなる。
足の裏が重くなる。
手がもう一度、ロープを掴む。
一段、上がる。二段、上がる。
肩の力を抜く。
風に寄りかかる。
頂点に手が届いた。
飛び降りる。膝で受ける。
床が深く響く。痛みはない。
呼吸は、まだ四拍のまま。
横で誰かが転んだ。
細い体。足首を押さえて呻く。
列が乱れる。笛が鳴る。
「止まるな!」
だが、俺は止まる。
彼の下に手を差し入れ、肩を貸す。
「走れるか」
「……無理」
「じゃあ、俺の足を使え。」
「何それ」
「歩幅を合わせろ。」
重い。でも足が揃う。
風が肩の間を抜けた。
呼吸が一人分、増える。
「十五! 勝手をするな!」
教官が怒鳴る。
俺は返事をしない。
彼の足が震える。
俺は背を押した。
最後のコーナー。赤い布。
壁の時計。二分が過ぎている。
まだ間に合う。
ゴールを抜けた。笛が止む。
息が落ち着く。肩の重みが消える。
彼が笑った。
「ありがとう」
「後ろ、来てるぞ」
「うん」
「明日、転ぶな」
「努力する」
教官が近づく。
眉がきつい。目が鋭い。
俺は直立する。
背筋が音を立てる。
「十五。規律違反だ」
「はい」
「だが、判断は悪くない。」
一拍の沈黙。
「続けろ。」
(怒鳴られるより、ずっと重い褒め言葉だった。)
銃器庫。
初日の貸与銃。
黒い金属。匂いは土と油。
重さは静かだ。
射撃場。
的は白い円。弱い風が横から流れる。
送風機が古い。
姿勢。頬付け。視差。
トリガーに指を置く。
一拍止める。呼吸を合わせる。
四拍の途中で、二分の一。
心臓が一つ跳ねた。
その跳ねに、指を乗せる。
撃つ。
キン。
的の縁。悪くない。
でも中心じゃない。
眉を寄せる。
射線に風が混じる。
左から右。細い糸みたいに撓む。
銃口を一ミリ戻す。もう一度吸う。
> 『風よ、支えろ。』
今度は胸の中でだけ言った。
音は出ない。形だけ。
頬の骨が軽くなる。金属が素直になる。
キン。中心。
もう一発。キン。
中心の横。呼吸が、風に重なった。
「十五、よく見てるな。」
背後の声。教官だ。
「風を?」
「いえ。揺れを。」
「揺れ?」
「ここらの空気の癖です。」
教官は口元をわずかに緩めた。
「詩は使うか?」
俺は一瞬、言葉に詰まる。
「……詩は、祈る時にだけ。」
「兵隊は祈らない。」
「兵隊でも、人間です。」
沈黙。
遠くで別の班の銃声。
乾いた音。送風機がうなる。
薄い紙が揺れる。
「十五、名前は。」
「ロッカ。ロッカ・ハイルド。」
「ハイルド。覚えた。」
「はい。」
「次、移動射撃。」
的が左右に揺れる。
床のラインを踏む。
足裏で重心を滑らせる。
息を殺さない。音を殺さない。
足と指を別に動かす。
視線だけを的に置く。
肩を止めない。銃口を止めない。
呼吸を止めない。
キン。キン。キン。
三つの穴が中心に並ぶ。
心臓も並ぶ。
横のレーンで誰かが外す。
焦りの音。金属が跳ねる。
呼吸が乱れている。肩が上がる。
俺は視線だけで合図する。
「吸って、吐け。」
彼は頷き、一拍で落ち着く。
穴が中心へ寄る。
「十五。お前は誰のために撃つ?」
教官の声が低い。
すぐには答えない。
胸の中で風が鳴る。青い音。
「最初は、自分のために。」
「卑怯だな。」
「生きないと、誰も守れない。」
「次は。」
「隣のために。」
「最後は。」
「……いつか、誰か一人のために。」
教官は黙る。やがて頷いた。
「その順番を、忘れるな。」
昼。
灰色のスープ。固いパン。
隣に、さっき転んだやつが座る。
足に包帯。顔は明るい。
「ロッカ、だっけ。」
「そうだ。」
「助かった。」
「また走れ。」
「今度は転ばない。」
「転んでもいい。起きろ。」
笑う。パンを半分くれる。
「このパン、まずいよな。」
「まずい。」
「でも腹はふくれる。」
「それで十分だ。」
天井の送風口が鳴る。
細い風が降りる。
埃が斜めに落ちる。
角度は、あの時と同じ。
空を見上げる。
ここには空はない。
だが、ある。
風はそこから来る。
遠い上の上。まだ誰も見ていない場所。
午後の講義。
詩構文の基礎。旧世代の記録映像。
塔の建設。世界の空。
講師が言った。
「詩とは命令ではない。環境同期の“お願い”だ。」
教室がざわつく。
誰かが笑い、誰かが鼻で嗤う。
俺は黙って聞く。
ノートを開く。鉛筆が硬い。
黒板に式が書かれる。
〈呼吸 × 心拍 = 同期率〉
数字は苦手だ。
でも、左の言葉は分かる。
呼吸と心拍。俺にもある。
講師が問う。
「ここにいる誰か、今ここで詩を使えるか?」
誰も手を上げない。
空気が重い。咳が一つ。
俺は上げない。
使える気がしたが、上げない。
祈りは、ギリギリに置く。
終礼。
「明朝、野外演習だ。」
ざわめき。
「地表近くの旧搬入路を行く。実風を感じろ。」
寮。二段ベッド。鉄の匂い。
遠くで誰かがギターを爪弾く。
枕元の小箱。母の字で書かれた一行。
〈息を忘れるな〉
短く、強い。
格子越しに天井を見上げる。
風がほとんどない夜。
それでも、どこかで流れている。
空気の縁が、部屋の角で丸くなる。
目に見えない輪郭がある。
呟く。
> 『風よ、支えろ。
俺が倒れないように。
誰かを起こせるように。』
音は出さない。胸だけが震える。
それでいい。今日は、それでいい。
目を閉じる。耳の奥で柔らかく鳴る。
青い音。遠い海の底みたいな音。
眠りが浅く降りてくる。
朝が来る。まだ何も失っていない朝だ。
俺はそれを両手で抱える。
落とさないように。
風の来る方角を、覚えながら。
――この日、ロッカは初めて“風”と心を通わせた。
仲間を助けたい気持ちが、祈りになって世界を動かした。
それが、彼の最初の“詩”だったのかもしれない。
次話『カインとの出会い』では、理と風が交わります。




