8.噂の令嬢
――どうやら最近、あの女嫌いの弟に急接近している令嬢がいるらしい。
国王サイラス・エスカルディアは、昼食の席でそのような話を小耳に挟んだ。注進してきたのは彼の妻である王妃メリンダである。
「嘘であろう?」
サイラスはすぐさまそう断じた。
メリンダの(特にゴシップの類における)情報収集能力は信用しているが、あのジェラルドに限ってそれはあり得ない。
どんなに魅力的な女に言い寄られようが眉ひとつ動かさず、完膚なきまでに拒絶するあのジェラルドが。
「本当ですわ。お相手はバーレイ伯爵家ご令嬢、エヴェリーナ様とおっしゃるそうです」
メリンダはムキになって言い募る。
が、サイラスは一笑に付した。
「ないない。それよりわたしはそろそろ執務に戻らねば。ではな、メリンダ」
「あ、陛下っ」
メリンダはサイラスの背中に手を伸ばしたが、彼はせかせかと行ってしまった。
唇を噛み、メリンダは考え込む。
(陛下ったら、お気づきでないのかしら? ジェラルド様にとって、これが最初で最後の恋のチャンスになるかもしれないというのに!)
あの堅物のジェラルドが。
清楚な未婚の令嬢から色気たっぷりな年増の貴婦人まで、ありとあらゆる種類の女を袖にし続けてきたあのジェラルドが。
せっかくメリンダが似合いの令嬢を紹介してやっても、「義姉上はもしや、ありがた迷惑という言葉をご存知ない?」と小憎らしいことしか言わないあのジェラルドが!
普通の令嬢が騎獣舎で働きたがるはずもなく、彼女の目的は明らかにジェラルドだろう。
そしてジェラルドも、令嬢の熱烈なアプローチに満更でもないらしい、と。
(こんな面白……もとい、大変な事態を放っておくわけにはいきませんわ!)
そう。
自分は断じて面白がっているわけではない。
一分の隙もない完璧な貴公子である義弟の、恋に落ちて動揺するさまを見てにやにやしたい……などと不届きなことを考えてはいないのだ。
「実の兄である陛下が頼れないなら、義姉としてわたくしが一肌脱がなくてはね!」
そう勝手に一人決めして、メリンダは勇ましく立ち上がった。
向かうはもちろん騎獣舎である。
王妃であるメリンダは、今まで騎獣舎になど足を踏み入れたことは一度もない。お供の侍女は変な顔をしていたが、メリンダは構わず騎獣舎の入り口をくぐった。
「ごきげんよう!」
高らかに告げれば、中では小汚い格好をした少年が一人で黙々と掃除をしていた。……いや、少年ではない。
「……まあ。王妃殿下?」
美しい金髪を振ってこちらを向いたのは、頬を土で汚した地味な女だった。
彼女は驚いたように目をみはったが、すぐに身長を超えるほど長い箒を床に置き、ズボン姿のまま優雅に礼を取る。
「ごきげんよう、このような格好で失礼いたします。騎獣舎の世話人見習い、エヴェリーナ・バーレイと申しますわ」
「あら、そのままで構いませんわ。どうぞお仕事をお続けになって。突然押しかけたのはこちらですもの」
メリンダはにっこりと笑い、さりげなく床に視線を落とした。
騎獣舎の中は砂や藁まみれで、メリンダの自慢のドレスが汚れてしまう。侍女はあからさまに顔をしかめていたので、メリンダは彼女に騎獣舎の外で待つように命じた。
ドレスの裾をさばき、メリンダは慎重にエヴェリーナに歩み寄る。
(不潔さになんて負けていられませんわ。獣の臭いだって不快だけれど、ジェラルド様の恋のためですもの)
しかし、メリンダはすぐに足を止めた。
エヴェリーナの背後にいる巨大な騎獣が低い唸り声を上げたのだ。ヒッ、とメリンダが息を呑む。
『グルルルル……ッ』
「ライオネル様。どうぞお気を鎮めてくださいませ」
エヴェリーナがほっそりとした手を伸ばし、騎獣のたてがみをわしゃわしゃと大胆にかき回した。騎獣が怒りはしないかと、メリンダは気を失いそうな心地になった。
「あ、あ、あなた……危険ですわっ。そ、その獣は、は、放し飼いではありませんか。鎖、鎖で繋いではおりませんの!?」
「少なくとも飛空騎士団の騎獣たちはみな、騎獣舎の中で自由に過ごしておりますわ」
エヴェリーナが穏やかに答える。
獅子の騎獣を優しく叩き、やわらかそうな牧草の敷き詰められた寝床へといざなった。
騎獣との距離ができてほっとしたのも束の間、今度は鼻の穴の大きな縞柄の馬とバチンと目が合ってしまう。
『ポッケキョォォォォッ!!』
「ひぃぃぃぃっ」
「ギデオン様。ディルク様たち騎士の方々は剣のお稽古中ですから、戻られるまで午睡を楽しんでいてくださいな」
エヴェリーナはまた躊躇することなく、馬の騎獣を優しく撫でた。騎獣が満足気に鼻息を荒くする。
『ブルルルルッ』
『グ~~~~ゥッ』
「ライオネル様、ブラッシングは後ほどいたしますから。さあ、お座りくださいませ」
まるでヤキモチを焼いたように半眼になる獅子をなだめ、エヴェリーナはやっとメリンダに向き直る。
メリンダはもう息も絶え絶えだった。
「王妃殿下。何かわたくしに御用でしたでしょうか? お呼び立てくだされば、どこへなりとも参りましたのに」
「あ、あら。よろしいのですよ。あなたの騎獣舎でのご様子を、見学させていただきたかっただけですから」
「……まあ、さようでございましたか。わたくしの働きぶりを、確認しにいらっしゃったのですね……」
エヴェリーナが何やら納得した様子で頷いた。
大方、貴族令嬢であるエヴェリーナがまともに働けているのかと、難癖をつけに来たのだとでも思われたのだろう。不安そうにメリンダの顔色を窺うエヴェリーナを、メリンダも改めてまじまじと観察した。
確か、二十六歳だと聞いている。
ジェラルドとは少し年が離れているが、まあ許容範囲内だろう。そして、その見目は――
(美人、ですわね)
ジェラルドのように人目を引く派手さはないものの、よく見ると上品に整った顔立ちだった。肌は透き通るようにきめ細かく、化粧をすればさぞかし映えるに違いない。
格好は見られたものではないが、ピンと伸びた姿勢と立ち居振る舞いは美しい。この隙の無さは義弟に通じるものもあるかもしれない、とメリンダはなんだか嬉しくなった。
「うふふ。これは案外、お似合いかもしれませんわねっ」
「?……何の、お話でございましょう?」
小さく首を傾げるエヴェリーナに、メリンダはいたずらっぽく笑ってみせる。
「エヴェリーナ嬢。回りくどいのはやめにして、お互い本音で話しましょう。ふふっ、あなたがこの騎獣舎で働く理由――……わたくしには全てお見通しでしてよ?」
「――ええっ!?」
エヴェリーナが驚愕の声を上げ、すぐに耳まで真っ赤になった。




