11.恋は突風とともに
ライオネルの背に乗って、ぐんと飛んだ瞬間はつい反射的に目をつぶってしまう。
これではもったいないと慌てて目を開けば、そこにはいつだって雄大な景色が広がっているのだ。
「わああ……っ」
「今朝はいつもより時間が早いから余裕があるな。王都の外の、湖のほとりまで行ってみるか。――ライオネル!」
『ガウッ』
ライオネルが宙を蹴り、翼が風を含んで膨らんだ。
目を開けていられないぐらいのスピードに、エヴェリーナははっと息を吸って笑い出す。ぴったりと背中を預けているジェラルドも、つられたみたいに体を揺らして噴き出した。
「ご機嫌だな。貴族令嬢には重労働だろうに、お前はいつも働くのが楽しくて仕方ないという顔をしている」
「だって、楽しいのですもの」
ライオネルといられる毎日が幸せだ。
ライオネルのやわらかな毛並みに触れ、頬を寄せるだけで胸がいっぱいになる。
(……それに……)
今では、もうひとつ。
エヴェリーナは背後のジェラルドの鼓動を体で感じ取る。
(ジェラルド殿下が、いてくださるから)
ジェラルドの不器用な優しさに触れるたび、エヴェリーナはくすぐったいような恥ずかしいような、今まで感じたことのない不思議な気持ちになるのだ。
「ほら、そろそろ湖に着くぞ」
ジェラルドの言葉に、エヴェリーナははっと意識をこの場に戻す。
湖面が朝日を反射して、きらきらと光り輝いていた。美しい湖を上空から見下ろすというこの上ない贅沢に、エヴェリーナはほうっと感嘆の息を漏らした。
「知っているか? あの湖畔にはぶどうが自生しているんだ」
「まあ。それはぜひ摘んでみたいです。ライオネル様も召し上がりますか?」
『ガウガウッ!!』
威勢のいい返事に、エヴェリーナは顔をほころばせる。
ジェラルドはひとつ頷くと、ライオネルの背を軽く叩いた。ライオネルが心得た様子ですぐに降下する。
「ふふっ。この瞬間はいつも、お尻がふわっと浮く心地がするのです」
「し、淑女が男の前で尻などと言うものではないっ」
「……あら。申し訳ありません、殿下」
エヴェリーナは一瞬あっけに取られ、すぐに澄まして謝った。
ジェラルドの生真面目な性格がおかしく、そして好ましかった。お尻だけじゃなくて心もふわふわ浮いているわ、とエヴェリーナはくすくす笑う。
降り立った湖畔で、よく熟れた赤紫のぶとうをすぐに見つけた。朝露をまとって光を弾き、まるで宝石のように美しい。
ジェラルドが一房取ってくれたので、エヴェリーナは早速つまんでみる。小粒で酸味が強く、思わずしかめっ面になってしまった。
「くく……っ、すごい顔になっているな」
「す、少し驚いただけです。もう覚悟はできましたから、もう一粒……ええ、酸っぱいけれど美味しいです」
「うん、本当だな。目が覚めるようだ」
ジェラルドも一粒取って、楽しげに咀嚼する。
ライオネルも「寄こせ」と言わんばかりに吠えたので、エヴェリーナはぶどうを房から外して手のひらいっぱいに載せ、ライオネルに差し出してやった。
『ンブフォウッ!?』
「大人の味だ。ライオネル、どうやらお前にはまだ早いらしいな」
『……キュン』
ライオネルが可愛らしく鼻を鳴らした。
エヴェリーナの胸もきゅんとする。
「はああ、ライオネル様可愛い。好き。好きすぎます」
恒例の愛の告白を終えたあとは、張り切ってぶどうを収穫した。たくさん集めてジャムにするのだ。うんと甘くすればライオネルも食べられるかもしれない。
(ジェラルド殿下も……喜んでくださるかしら?)
王弟という尊い身分でありながら、ジェラルドも身軽に収穫を手伝ってくれた。
みずみずしいぶどうをしげしげと眺め、それからそっとジェラルドに視線を移す。朝日のせいだろうか、なんだかやけに眩しく見えて、エヴェリーナは慌てて目を逸らした。
「……きっと、ジェラルド殿下のプラチナ・ブロンドのせいですね。よく光を弾いています」
「お前だって金髪だろう。人のことは言えないと思うぞ」
大体言うほど眩しいか?とジェラルドは不思議そうに自身の髪を一房つまむ。
エヴェリーナも確かに、と首をひねった。
『グル~……』
ライオネルは木陰でうずくまり、すっかり寝る体勢だ。
ジェラルドは懐中時計を確認すると、ライオネルに寄りかかるようにして腰を下ろした。ちょいちょいとエヴェリーナを手招きするので、エヴェリーナもおずおずと隣に座った。
ライオネルの毛並みが温かい。
大好きな相手と触れ合う幸せに、自然と頬がゆるんでいく。
「……本当にライオネルが好きなんだな」
じっと見つめるジェラルドの視線を感じて、エヴェリーナは大きく頷いた。
「はい。わたくしが初めてライオネル様をお見かけしたのは三年前――建国祭での街頭パレードでのことでした」
エヴェリーナは懐かしく思い出す。
建国祭は国を挙げてのお祭りで、あの日のエヴェリーナは仕事の合間にトーミを連れて、王都の街へと繰り出したのだ。目当てはもちろん、飛空騎士団による街頭パレードだった。
抜けるような青空の下、次々と降下してくる美しい騎獣たちの姿。
彼らは軽やかに石畳に降り立って、また空へと戻っていく。見物の子どもたちと一緒になって、エヴェリーナも大興奮して歓声を上げたものだ。
ただし大人らしく慎みを持ち、エヴェリーナは最前列ではなく街の子どもたちの後ろから見物していた。
本当はもっと近づきたいけれど、仕方ない。
そう自分に言い聞かせた瞬間だった。
「――突風が、吹いたのです。砂ぼこりが舞い上がり、見物人たちが悲鳴を上げました」
エヴェリーナは、とっさに両手で顔をかばった。
すぐ側からフフッと面白がるような吐息が聞こえた気がして、恐る恐る目を開けると。
「そのときです。わたくしの心が、一瞬にして奪われたのは……」
黄金のたてがみを風になびかせた、立派な獅子だった。
手を伸ばせば届きそうなほど、本当にエヴェリーナのすぐ近くにいたのだ。
銀の瞳を細め、獅子は得意気に顎を上げる。巨大な翼を悠然とはためかせるたび、強い風があたりに巻き起こった。
――突風は、かの騎獣の仕業だったのだ。
「ああ、ああ、なんと雄々しいのでしょう……! その堂々とした立ち姿に、わたくしの頭はもう、沸騰したみたいにぽうっとなって」
「三年前の街頭パレードならば、俺も思いっきり参加していたのだがな。他でもないライオネルの背中に乗っていただろう」
「……あら? そうでしたか?」
「そうだったんだよ!!」
わめくジェラルドに、エヴェリーナが照れ笑いする。
寄りかかったライオネルの体がグフッと揺れた。
ジェラルドはむっつりとライオネルを撫でると、深々と息を吐く。
「……まあ、いい。ともかく、お前がライオネルに一目惚れした建国祭。今年もじきに開催されるわけだが」
「はい! ちなみに今年の街頭パレードは?」
「もちろん、出るとも。……俺もな」
目を輝かせるエヴェリーナに、ジェラルドがますます拗ねた。
エヴェリーナは思わず噴き出して、顔を背けるジェラルドの前にわざわざ移動する。
「ライオネル様だけでなく、ジェラルド殿下の勇姿も楽しみですわ。心から」
「……ふん」
ジェラルドのひん曲がった口元があっさりとゆるむ。
二人は顔を見合わせると、同時に笑い出した。




