10.今、このときが
本音を言えば、エヴェリーナは毎日だって騎獣舎で働きたい。
けれど団長であるジェラルドと、副団長であるディルクがそれを許してくれなかった。それでは奴隷労働であり、少なくとも週に二日は休息が必要だと諭されてしまったのだ。
「ああ、ああ……。働けないまでも、せめてライオネル様のお顔だけでも一目見たいのに!」
「姉様。せっかくの休日だというのに、仕事の話などやめていただけますか」
エヴェリーナの弟であるトーミが、ぶすりと不機嫌そうに吐き捨てた。
トーミも伯爵家当主として日々忙しく過ごしているが、今日はエヴェリーナに合わせて休みにしてくれたらしい。天気も良いことだし両親の墓参りに行かないかと誘われて、エヴェリーナも喜んで了承した。
トーミはエヴェリーナと違って魔力量が豊富であるものの、騎獣は持っていない。
姉弟二人でのんびりと馬車に揺られて墓地へ向かうことにした。
「トーミも騎獣を飼えばいいのに。魔鳥卵ならわたくしが手配するわ」
「何度も言いましたが、必要ありません。騎獣など持とうものなら、その子に夢中になって姉様は僕のことなど忘れてしまうでしょう?」
「もう。そんなことありませんってば」
エヴェリーナはむきになるが、トーミは軽く聞き流した。
嘘ではないが、理由はそれだけではない。
父であるバーレイ伯爵が亡くなった後、痛々しいほど気丈に振る舞っていたエヴェリーナの姿を思い出すたび、トーミはまるで昨日のことのように胸が苦しくなる。大好きな父と騎獣をいっぺんに亡くし、それでもエヴェリーナはトーミの前では決して涙を見せなかった。
トーミはもう二度と、あんな悲しみをエヴェリーナに与えたくないのだ。
「そんなことより、姉様。そろそろドレスを新調しませんか? 今着ているのは当主代行のときに作らせたものでしょう? 姉様の年齢では地味すぎますよ」
トーミの言葉に、エヴェリーナは自身の灰色のドレスに目を落とした。
エヴェリーナはこれまで伯爵家当主代行として、年若だからといって舐められぬよう年配の夫人が好むような地味なドレスばかりをまとっていた。化粧もあえて老けて見えるよう厚塗りしていたほどだ。
「あら、いいのよトーミ。まだ充分着られるのだから、もったいないわ」
――それに、着飾って出掛ける先もないのだし。
エヴェリーナはそう心の中で独りごちる。
もうこの年では、良縁は望めまい。
愛情もなく年の離れた貴族の後妻になるぐらいならば、エヴェリーナは大好きなライオネルの側にいたいのだ。
到着した墓地で、エヴェリーナとトーミは両親の墓に花を供え、二人並んで祈りを捧げる。
目を閉じて、遥か遠い楽園にいるはずの父母とプクリエーヌに心の中で語りかけた。念願だった騎獣舎で働く日々は充実していて、今の自分はこの上なく幸せだと。
(……ですが、わかっています。こんな生活、そう長くは続きませんよね)
せいぜいあと一、二年といったところだろうか。
トーミもそのうち妻帯して、エヴェリーナはバーレイ伯爵家の厄介者となるだろう。
そのとき自分は、どうするのか。
あきらめて適当な嫁ぎ先を見つけるか、それとも修道院にでも入って生涯独身を貫くのか……。
未来を思うと不安でたまらなかった。
エヴェリーナは両の手をきつく握り締める。
(たとえ、この先に待つのがどんな人生だとしても――……)
「姉様?」
トーミの探るような視線を感じ、エヴェリーナははっとする。
すぐに何事もなかったかのように笑ってみせて、最後にもう一度だけ墓を振り返り弟をうながした。
「そろそろ帰りましょう、トーミ。美味しいお菓子を買って、午後は二人でお茶会をするのはどうかしら?」
「そ、それは良い考えです!」
トーミが嬉しそうに顔をほころばせ、張り切ってエヴェリーナに手を差し伸べる。
成長したように見えてまだまだ子どもだと、エヴェリーナはくすりと笑った。
◇
翌日は、エヴェリーナは張り切って日が昇る前から起き出した。
早朝の騎獣舎の空気は澄んでいて、エヴェリーナは胸いっぱいに深呼吸する。掃除用の水を汲み、重いバケツを引きずるようにして騎獣舎の中へ運び込んだ。
「……いいか、ライオネル? 俺から渡すより、お前からのほうがエヴェリーナは絶対に喜ぶのだからな」
(……?)
自分の名を呼ばれた気がして、エヴェリーナはバケツを置いた。
まだ随分早いのに、ジェラルドの声がする。そっと覗き込めば、ジェラルドが真剣な顔でライオネルに語りかけていた。
『グルルルッ』
「こら、断るな。いいからこれを咥えて、お前がエヴェリーナに渡すんだ。エヴェリーナはきっと大感激して――ってうわエヴェリーナッ!?」
「……あら。見つかってしまいましたか」
エヴェリーナは照れ笑いして中へ入る。
さすが騎士団長なだけあって、すぐさま覗き見に気づかれてしまった。
ジェラルドは慌てたみたいに背中に何かを隠すと、バツが悪そうに立ち上がった。
「いや、その、違うんだエヴェリーナ。俺は決してお前を騙そうとしたわけではなく、ただ喜んでもらおうとしただけで」
「まあ、騙すだなんてそんな。ジェラルド殿下は誰よりも思いやりのあるかたですわ。わたくしはよく存じております」
ジェラルドが一体何の話をしているかわからなかったが、エヴェリーナは懸命に言葉を重ねる。決してお世辞を言っているわけではなく、紛れもなくエヴェリーナの本心だった。
「……ふん。ならばいいが」
『ガウッ』
赤くなったジェラルドがぶっきらぼうに吐き捨てた瞬間、ライオネルが激しく吠える。
鼻先で乱暴にぐいぐいとジェラルドの背中を押した。
「おいライオネ、うおッ!?」
『フンッッッ』
「ジェラルド殿下!?」
今度は頭突きだ。
ライオネルの巨体でこれをやられたらたまったものではない。
ジェラルドは軽くふっ飛ばされ、エヴェリーナの足元に倒れ込んだ。その手から何かがこぼれ落ちる。
「……これは?」
「あっ、いやこれはそのっ」
真っ赤になったジェラルドが、観念したように息を吐く。拾い上げたそれを、無言でエヴェリーナに押しつけた。
(革の、ベルト……?)
だが、普通のベルトよりずっと太くて長く、それに頑丈そうだった。
色は深みのある赤で、中央の辺りに飾り文字で刺繍が施されている。
『ライオネル * エヴェリーナ * ジェラルド』
「……っ」
「最近、天気のいい日は毎朝飛行に付き合ってもらっているだろう。いい加減、ロープではなくお前専用の安全具を用意すべきだと思ってな」
息を呑むエヴェリーナに、ジェラルドが早口で説明する。
エヴェリーナは信じられない気持ちのまま、震える指で刺繍をなぞった。
「ディルクが懇意にしている馬具職人に作らせた。……ああ、遠慮せずにちゃんと受け取るように。お前のライオネルへの献身に対する――主人からの、褒賞だからな」
ほら、と無理やり手の中に握らされた。
ジェラルドは不機嫌そうな顔をしているが、目元も耳も赤く染まっていた。
出会ってすぐならばともかく、今のエヴェリーナには簡単にわかる。
――ジェラルドは、この上もなく照れているだけなのだ。
「ふふ……っ」
「な、なんだ」
笑いを噛み殺すエヴェリーナに、ジェラルドが慌てる。
にじんだ涙をぬぐい、エヴェリーナはにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます、ジェラルド殿下。わたくし、本日からこちらを生涯の宝物といたします!」
「ふ、ふん。好きにするがいい」
顔を背けて告げるなり、ジェラルドはエヴェリーナに手を差し伸べる。
ライオネルが張り切って訓練場に向かって駆け出した。どうやら早速、この贈り物の使い心地を試してみるつもりらしい。
エヴェリーナもわくわくとジェラルドの手を取って、二人一緒にライオネルの背中を追って走り出す。
(――たとえ、この先に待つのがどんな人生だとしても……)
エヴェリーナは心の中で強く噛み締める。
ライオネルとジェラルドと過ごす今こそが、自分の生涯で一番幸せなときなのだ。
この思い出さえ胸の中に抱いていれば、大丈夫。きっと強く生きていける。
高鳴る鼓動を感じながら、エヴェリーナはジェラルドと繋ぐ手に力を込めた。




