1.恋は、ある日突然に
恋とは、ある日突然に落ちるもの。
たった三歳にして、エヴェリーナはそれを身をもって知ることとなる。
『プクゥー? プクプクン……?』
「……っ」
まるで雷に打たれたように、幼いエヴェリーナはその華奢な肩を震わせた。
目の前に突然現れた、これまで見たことも聞いたこともない未知の動物。
淡いピンク色の体毛はごく短く、毛先がふよふよと揺れている。
ちょっとつぶれ気味の鼻は、体毛よりもずっと濃い鮮やかなピンク色。つぶらな瞳は夜のように真っ黒で、エヴェリーナは吸い込まれそうな心地になった。
間違いない。
まごうことなき――……
豚である。
「――かわ、かわ、かわいいぃぃっ。おとーさまっ、このこ、このこ、ぶたさんなのに、はねがはえてますっ」
豚の傍らで面白そうに自分を眺めている男に、エヴェリーナは必死になって訴えかける。
そう。
ピンクの豚の両肩には、純白の小さな羽が生えていた。
エヴェリーナに指摘されたのがわかったかのように、子豚は得意気に二枚の羽をピンと伸ばした。そんなに伸ばしたところで、頼りないぐらいの小ささに変わりはないのだけれど。頑張りすぎて、羽毛がぷるぷる震えているし。
「気に入ったかい、わたしの可愛いエヴェリーナ? この子は豚ではなく『騎獣』というのだよ。縁あって騎獣の卵を入手できてね、ものは試しと魔力を込めてみたら、この子が生まれてきたというわけさ」
「……きじゅう」
騎獣。
騎獣。
何度も口の中で反芻しながら、エヴェリーナは子豚の騎獣を振り返る。
子豚は『プク、プク』と鳴きながら二枚の羽を必死で羽ばたかせ、ほんの少しばかり宙に浮いていた。その一生懸命な姿に、幼いエヴェリーナの胸にぶわっと庇護欲が込み上げる。
「かわいい。かわいいです。きじゅうさん、すき。――すきすぎますっ!」
◇
その日から、エヴェリーナは騎獣の虜となった。
父であるバーレイ伯爵から「エヴェリーナが名前を付けるといい」と言われたので、エヴェリーナはその子を「プクリエーヌ」と名付けた。
プクリエーヌの首には空色のリボンが巻かれている。エヴェリーナの豪華な金髪を飾るリボンとお揃いなのだ。
「プクリエーヌ。そろそろ出るぞ」
『プクプク~』
プクリエーヌが卵から孵って二年。
今では立派に成長し(とは言っても体長は少ししか伸びなかったけれど)、空を飛ぶのがとても上手になった。
力持ちのプクリエーヌは今日も長身のバーレイ伯爵を乗せ、のんびり優雅に空を駆ける。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
「お気をつけて」
見送る伯爵家使用人たちの視線は生温かい。
二年も経ってさすがに見慣れたものの、口髭をたくわえた堂々たる体躯の貴族が、羽の生えた子豚にまたがる光景はかなりシュールだ。初期の頃は、みな笑いをこらえるのに必死だった。
バーレイ伯爵自身は、そんなことちっとも気にしていないけれど。
「おとうさま。どうぞわたくしもつれていってくださいませ」
今日もエヴェリーナは必死になって頼み込む。
しかしバーレイ伯爵は、きっぱりと首を横に振って退けた。
「何度頼んでも駄目だよ、エヴェリーナ。プクリエーヌはわたしだけの騎獣なのだ。たとえ最愛の娘であるお前とて、乗せてやることは絶対にない」
断言されて、エヴェリーナはしゅんとする。
小さな手を伸ばしてそっとプクリエーヌの鼻をつつけば、プクリエーヌも優しい眼差しをエヴェリーナに向けた。
乗っちゃだめ?と目顔で問いかけるエヴェリーナに、乗っちゃだめ、とプクリエーヌは重々しく頷く。
無言のやり取りを眺めていたバーレイ伯爵は、苦笑しながらプクリエーヌからいったん降りる。
「空はね、とても危険なのだよエヴェリーナ。例えばこの、プクリエーヌのおやつのオレンジを見てごらん。飛行中にわたしがこれを懐から落としたとして、どうなると思う? さぞ酷いことに、オレンジの皮ははじけて身がパックリと――……」
プクリエーヌはバーレイ伯爵の言葉に、小さな目をカッと見開いた。
そのまま必死の形相でバーレイ伯爵の手の中のオレンジにかぶりつく。
「いやプクリエーヌ、今のは単なる例えなんだが」
「……なるほど。わかりましたわ、おとうさま」
はぐはぐとオレンジを食べるプクリエーヌを愛でながら、エヴェリーナは深く得心した。
エヴェリーナはまだこんなに小さくて、オレンジと同じぐらいか弱いのだ。パックリ割れてしまったら、家族も伯爵家の使用人たちも嘆き悲しむに違いない。
わかってくれた愛娘に、バーレイ伯爵は嬉しそうに顔をほころばせる。
「エヴェリーナ、お前は本当に賢くて良い子」
「プクリエーヌは、おとうさまだけの『きじゅう』……。それならわたくし、すてきな『きじゅう』をおもちのかたと、けっこんしようとおもいます」
「…………」
バーレイ伯爵の端正な顔が絶望に歪んだ。
ふらりと足元がよろめくのを、オレンジを食べ終えたプクリエーヌが小さな体で支えてやる。『メッ!』ととがめるような視線をエヴェリーナに向けた。
「……?」
「――あらあら。あなたったら、まだいらっしゃったんですの? もうとっくに出発なさっているお時間でしょうに」
きょとんと立ち尽くすエヴェリーナの背後に、馬車が停まった。
中から降りてきた貴婦人に、エヴェリーナは「おかあさまっ」と大喜びで駆け寄る。
「ふふ、ただいまエヴェリーナ。……さああなた、お早く行ってらっしゃいませ。ルーベル伯爵とお約束があるのでしょう?」
「……っ、ああ、だがたった今、エヴェリーナが世にも恐ろしい発言をっ。素敵な騎獣を持つ男と結婚するなどと言うのだ!」
胸を押さえて苦しがる夫を見て、彼女は「あらまあ」と目を丸くした。不思議そうに自分を見上げる娘をふわりと撫でる。
「わたくしの可愛いエヴェリーナ。……お母様の個人的な意見だけれど、騎獣で殿方を選ぶのはお勧めしませんよ?」
「……どーして、ですの?」
エヴェリーナは納得いかないらしい。
むくれる娘に、だって、とバーレイ伯爵夫人はおかしそうに頬をゆるめる。
「愛しているのが騎獣なのかその主なのか、自分でもわからなくなってしまうじゃない? 両方分けて考えられるほど、エヴェリーナが器用だとはお母様とても思えないわ」
「ん~……?」
エヴェリーナは困ってしまった。両方好き、じゃ駄目なのかしら?
くすくす笑った伯爵夫人は、まだ立ち直れていない夫の背中を優しく押した。
「まあ、まだ考える時間はたっぷりあるわ。伯爵家に婿を取るにせよ、あなたが他家に嫁いでいくにせよ、お父様によくよくお願いしておきなさいな。王都飛空騎士団にお勤めの騎士様を紹介していただければ、きっと立派な騎獣をお持ちに違いありませんから」
「ひくうきしだんっ?」
「そうよ。……あら、そういえば今日お会いするルーベル伯爵は飛空騎士団の団長様でしたわよね、あなた? 確かあのお家には、エヴェリーナと似合いの年頃の――」
「嫌だっもう聞きたくないーッ!! 出発するぞプクリエーヌッ!!」
『プクプック~』
泣きながら空に飛び立つバーレイ伯爵を、エヴェリーナと伯爵夫人は手を振って見送った。
青い空にピンクのプクリエーヌがよく映えて、思わず息を呑むほどに美しい。エヴェリーナは飽きることなくそれを見上げながら、そっと自身の胸を押さえた。
(ひくうきしだん……)
いつか、そこに行ってみたい。
エヴェリーナの幼い心に、固い決意が芽生えた瞬間だった。
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