逃げた花嫁の真実
鏡の中に映る自分は、まるで別人のようだった。純白のウェディングドレスに身を包み、完璧にセットされた髪。プロのメイクアップアーティストが施した化粧は、私の顔からすべての感情を消し去り、作り物のような笑顔だけを貼り付けていた。この日を、どれだけ夢見てきただろう。幼い頃から、何度も想像した光景。しかし今、私の心臓は高鳴るどころか、鉛のように重く沈んでいた。
控室には、華やかなドレスを着た友人たちが集まっていた。みんなが「おめでとう」と声をかけてくれる。その祝福の言葉が、私の胸を鋭く突き刺した。私は作り笑顔で応えるしかなかった。みんなが信じている、彼との幸せな未来。その未来は、もう私の中には存在しなかった。
窓の外には、雲一つない青空が広がっている。太陽の光が、私の嘘を嘲笑っているかのようだった。本当は、すべてを打ち明けて、この場から逃げ出したかった。でも、できなかった。両親の期待、彼の優しさ、そして何よりも、この完璧な舞台を作り上げてくれた人々の顔が、私の足を縛りつけていた。
私は彼を愛していた。それは嘘じゃない。幼馴染として、恋人として、彼と過ごした時間はすべて本物だった。彼の隣にいると、心が安らぎ、自然に笑顔になれた。彼との未来を信じて疑わなかった。──先輩と再会するまでは。
先輩は、私が高校生の頃に一度だけ付き合った人だった。卒業後、連絡は途絶えていた。それが、数ヶ月前、偶然再会した。先輩はあの頃と変わらず、私の心を揺さぶる存在だった。先輩と話すたびに、先輩と過ごした時間が蘇るたびに、彼との未来にひびが入っていくのを感じた。
先輩と話すうちに、私は先輩がどれほど私の心を理解しているかを知った。彼の優しさは、私にとって時に重かった。彼は私を完璧な花嫁として扱い、彼の描く未来の絵に私を閉じ込めようとしているように感じていた。だが、先輩は違った。先輩は、私の心の奥底にある自由への渇望を、一瞬で見抜いた。
「本当の君は、ここにいるべきじゃない。」
先輩の言葉が、私の心に深く突き刺さった。それは、私がずっと心の奥底に隠していた本音だった。この結婚式は、私にとっての終着点。でも、心の奥では、まだ知らない世界へ飛び出したいと叫んでいた。
両親が控室に入ってきた。父は緊張した面持ちで、母は目に涙を浮かべている。娘の晴れ姿を見て、心から喜んでくれているのがわかった。その無垢な愛情が、私をさらに苦しめた。私は嘘をついている。この人たちの期待を裏切ろうとしている。
「お前たち、ついにここまで来たか。」
父の言葉が、過去を呼び覚ます。彼と私。二人の関係を、両親は心から祝福してくれた。この結婚式は、彼たちの家族だけでなく、両家の歴史そのものだった。それを壊そうとしているのは、この私だ。
そして、結婚式が始まる時間が来た。母が私の腕を組む。「いってらっしゃい、幸せになってね。」その優しい言葉が、私の決意を揺るがす。このまま、何事もなかったかのように、バージンロードを歩くべきだろうか。だが、それはあまりにも残酷な嘘だった。
私はゆっくりと扉へ向かう。扉が開けば、そこには彼がいる。愛したはずの人が、最高の笑顔で私を待っている。でも、私の足は、彼のもとへ向かおうとしない。私の目は、教会の入り口にいる、たった一人の先輩だけを捉えていた。
先輩と視線が合った瞬間、私の心臓は、久々に激しい音を立てた。この結婚式を捨てて、先輩と逃げれば、もう二度と家族には会えないかもしれない。戸籍も、仕事も、すべてを失うかもしれない。それでも、私は先輩のもとへ行かなければならないと思った。なぜなら、先輩こそが、私の心の奥底にあった「本当の私」を解放してくれる、唯一の存在だと信じていたから。
私は、彼を、家族を、そして私を愛してくれたすべての人を裏切って、先輩のもとへと走り出した。もう、この一歩からは、後戻りできない。それは、私自身が選んだ道だった。後悔は、その瞬間の私にはなかった。ただ、燃え上がるような、自由への渇望だけがそこにあった。